Bearing the Cross Part11

 温かみのある木目調のダイニングキッチンは、日当たりが良くて風通しも良く、穏やかな心地にさせてくれる。黄色チェックのテーブルクロスが掛けられた丸テーブルの上では、水の入ったコップに一輪の花が挿されているが、もう枯れてしまいそうになっている。
 昼下がりのパルトメリス私立教会堂こと、ビルンバウム家のダイニングキッチンには、黒くて長い衣装を着た父親のフェリックス、緩やかな赤ベストに白ブラウスを着た母親のヘディ、そして若草色のローブを着たクリストファーが集まっていた。木椅子に座った両親が談話している最中、玄関に置かれてあったプレゼントの箱を抱えて、クリストファーがキッチンに飛んできたと言うわけだ。

「今度はリンゴ餅なのね! 今日のおやつを作らなくて正解だったわ~!」
 箱を丸テーブルの上に置くや否や、クリストファーが箱を開けると、中身を見たヘディは大喜び。ノイシュウィーン村と東流津雲村ひがしるつくもむらのコラボ商品であるブドウ餅は、この前まで毎日のように食べていたので正直飽きていた所だが、この第二のコラボ商品なら真新しくて食欲が湧く。
「いつも懇意にして頂いている東流津雲村の皆様に、何かお返しをしなければなりませんね。お守りのネックレスを差し上げるのはいかがでしょう?」
 ある種迷惑なほどに、特産品を送りつけてくる東流津雲村の人々は、ノイシュウィーン村でも評判が良かった。ブドウやリンゴなどをいつも買ってくれる、いわばノイシュウィーン村の”お得意様”であるから尚更だ。遠く離れている村だから、直接村人と顔を合わせる機会は滅多にないが、こうして特産品の売り買いやコラボをしているだけでも、不思議な縁を感じている。
「何言っているのよ~、フェリックス。ウチと東流津雲村じゃ、風習も服装もかなり違うでしょ。ネックレスを貰ったって、似合わないとか言って捨てる人多そうだわ」
 ヘディに肩を触られ、からかわれた生真面目なフェリックスは、目を逸らして何度も犬耳を指で摘まんだ。
「全部で16個あるから、4個ずつだよっ! ピーターやビビの家には、もう届けてきたから!」
 そう言いながら、クリストファーはリンゴ餅を包む袋をそそくさと破った。
「こらっ! まずは手を洗ってきなさい!」
 ヘディに叱られたクリストファーは、唇を尖らせながら流し台の前に立つのであった。

 クリストファーが手洗いうがいを終えると同時に、クリスティーネが部屋に入ってきた。恐らく、水を飲みに来たのだろう。目の下には隈ができていて、顔は蒼白い。見るからに疲れ切っている。
 毎朝早くに起きて稽古を積み、教会堂の職務をこなし、(最近はなぜか来ることが少なくなったが)ビビたちの遊び相手になり、夜遅くまでラ・ラウニのストリートチルドレンのためにセーターを編んでいる。調子が悪くてパフォーマンスが低下しても、意地を張って負担を減らそうとせず、悪循環を繰り返すばかり。
 フェリックスとヘディは、クリスティーネを一瞥だけして、夫婦の談話に夢中になっているフリをする。父は黙って見守ることに徹するため、母は娘を刺激して平穏を壊したくないがため。
「お姉ちゃん! ケンちゃんからリンゴ餅届いたよ! ほら!」
 リンゴ餅の箱を斜めに持ち上げながら言ったクリストファーは、できるだけ無邪気な少年を装っている。
「お腹空いていないので、大丈夫です。私の分、クリストファーが食べていいですよ」
 ちょっと前までのクリスティーネからは考えられない程、弱々しい声だった。
「えぇ~? うそだ~。お姉ちゃん、どんなにお腹いっぱいでも、リンゴやブドウだったら食べてるじゃん」
 不可解な面持ちとなるクリストファー。残したら、作ってくれた人に申し訳ないと言う理由もあるが、確かにクリスティーネはリンゴやブドウを出されたら必ず食べている。
「本当に、お腹減ってないんです……」
「ケンちゃんからのプレゼントなのに?」
「私、貰いっぱなしで何もお返しできませんから、受け取る資格はありません……」
 その瞬間、鬱憤が限界点を超えたクリストファーが、リンゴ餅の箱を地面に叩き付けてがなり立てる。
「お姉ちゃんさっ! 僕にプレゼントを押しつけてくるのに、何で僕のプレゼントは受け取らないの!? 意味分からないんだけど!」

 部屋の空気が凍りつき、クリストファーがリンゴ餅を蹴り飛ばす音がよく響く。まさか愛する弟に責められるとは思わず、クリスティーネは身震いした。
「それは……。クリストファーに幸せになって欲しいからです」
「僕だけ!?」
 クリストファーが裏返った声で叫ぶと、クリスティーネの手は汗でべっとりとなる。
「ち、違います。お父さんも、お母さんも、ピーターさんもビビさんも……」
「訳わからないっ! なんでお姉ちゃんっていつもそうなの!? ちょっとは僕の言う事聞けよ! ワガママ!」
 形振り構わず叫びながら、そばにあった椅子を蹴り飛ばすクリストファー。思春期に入ったばかりの少年にとっては、言い表すことが難しい蟠りだから、八つ当たりする他ないのだ。
 フェリックスはクリストファーの後ろに回って、その両肩を抑えると、優しく言い聞かせた。
「落ち着いて下さい、クリストファー。クリスティーネは、純粋にあなたを想っているのですよ。皮肉と捉える必要はありません」
「うるさいなっ! お父さんに何が分かるんだよ!」
 背後に立つ父親を振り返ってクリストファーが叫ぶ。
「分かりますよ。クリスティーネが神の教えに従い、私たちに無償の愛を下さることを――」
「うるさいってば! お父さん、いつもそればっかり! 何も考えてないじゃん!」
 珍しいことに、フェリックスがその目を大きく見開いた。クリストファーが宗教的な説教を聞くのにうんざりすることはあっても、説教そのものを否定することが滅多になかったせいで、驚いたのだろうか。

「クリスティーネに、もっと自分を大切にして欲しいと言いたいんでしょ。クリストファー」
 腕組みしながら立ち上がったヘディが言う。心なしか、クリストファーの表情が和らいだようだ。ヘディはそのままゆっくり歩き、血の気が引いているクリスティーネの前に立つ。
「まったく、だからあなたがアーティストになることに反対したのよ。ただでさえ傷つきやすいあなたが、人と傷つけ合うことしたら、ボロボロになるに決まっているじゃない」
「そんなっ……! 私は全然平気で――」
「黙って聞きなさいっ!」
 怒鳴られたクリスティーネは、思わず目を瞑ってしまう。
「今まで勘弁してきたけど、もう限界だわ。あなた、自分がカッコつけているせいで、多くの人が悲しんでいるの分かってる? 皆あんたのことを心配しているのに、当のあなたは要らない心配ばかり掛けるようなことして。いい加減、完璧人間になろうとするのやめなさいよ」
「あなたの言うことはもっともですが、酷ですよ。クリスティーネは、何事も深く考えてしまいます。何も言わず、そっと見守るべきなのです」
 ヘディの隣に立ったフェリックスが言う。すると、顔の皺を更に増やしたヘディが、更に声を荒げて反論する。
「はぁっ!? あなたに従って、ずっと見守ってきた結果がこれじゃない! 何事も深く考えてしまうような、クソ真面目な性格にしたのは、あなたのせいでしょ!」
「二人の前ですよ、ヘディ……!」
 ヘディは、「子どもの前で神様ぶるのはやめて!」と言い返したかった。だが、フェリックスの正論には従う他がない。子どもたちを見ると、どちらも同じように立ったまま俯き、目に涙を溜めていた。心温まる団欒の場を壊したくなかったのに、自らそこに亀裂を入れてしまった。

「ちょっとお母さんたちで話し合うから、二人ともどこかに行ってて」
 事なかれ主義に徹するフェリックスのように、冷静になるのはとても不愉快だったが、ヘディはできるだけ優しい声で言い聞かせた。
「はーい……」
 小さく返事したクリストファーは、大人しく部屋から出て行った。家の中全体が居心地悪かったので、そのまま外出して何処かに歩いて行った。
 クリスティーネは何も言わず、堪え切れなかった涙を撒き散らしながら、私室の方に走って行った。

 

 まだ外は明るいが、クリスティーネの私室のカーテンは閉じられていた。黄緑色のカバーが掛けられたの上に、クリスティーネが仰向けになっている。
 今のクリスティーネにとって、壁にある宗教的な絵画や、本棚にある十字架があしらわれた分厚い本は、自分を監視する神の目のように感じる。この聖なる空間に穢れた自分が居るせいで、神を冒涜しているかのようにさえ思える。

(私は、未熟さによって皆さんを不幸にした、罪深い人間です……)
 虚ろな目から絶えず涙を流すクリスティーネは、天井が下がってくるような錯覚に陥っていた。このまま天井に押し潰されて、原型を留めない程ぐちゃぐちゃになった自分の姿が頭を過ぎる。
 自分は人に嫌われないように、媚びへつらって生きる卑怯者だ。以前ロジータに言われたことを、ようやく思い知った。だが、今更反省しても手遅れだ。愚痴や弱音をぶつけて嫌われまいと、己の身体を痛めつけたせいで、却ってクリストファーたちにストレスを与えてしまった。

(ここに居ていいのでしょうか、私は……?)
 幻聴として頭に響くのは、フェリックスやヘディからの誹謗や詰問。キッチンに残った二人は、クリスティーネが聞いていないのをいいことに、クリスティーネを嘲笑っているのかもしれない。
 その杞憂に、現実味を感じれば感じるほど、クリスティーネはこの場から逃げ去りたくなる。いっそそうした方が、痛ましい自分の姿で家族の目を穢すことなく、全てが丸く収まるかもしれない。
 しかしヘディは、クリストファーの代わりに「自分を大切にして欲しい」と言った。ならばその言葉を忠実に守るより他ないと考えたが、あんなに怒り狂ったクリストファーが未だに自分を好きでいてくれるのだろうか?
 愛する弟に嫌われたに違いないという恐怖が、クリスティーネの精神を更に蹂躙した。流れる涙の量が増し、肥大した罪悪感が内臓を強く締め付ける。どのように考えても罪の意識が芽生えるのに、何とか心を鎮めようとするせいで、何も考えずにはいられない。

 ふいにクリスティーネは、おもむろに上半身を起こして、メーションで片手にディバイン=メルシィを現す。この短剣、時には鞭にもなるビルンバウム家の家宝は、無痛で悪人を葬るために創られた、神の罰と慈悲を同時に与える武器。今の自分には持つ資格がない、聖なる道具。悪人である自分は、むしろこの聖具によって罰を受けるべきなのだろう。
 罪を犯したならば、罰せられるべきだ。握った短剣の先端を、空いた方の手首に近付けるクリスティーネ。もしかしたら、過去の罪悪を神に告白して悔い改めるように、罰を受けることで気が楽になるのかもしれない。この身に聖痕を宿せば、精霊が宿って穢れた心が浄化されるかもしれない。
 そのまま手首を傷つけようとした瞬間、クリスティーネは思い留まる。血を噴き出す手首が家族の目に触れたら、余計に悲しませてしまうかもしれない。これ以上、要らぬ心配を掛けて嫌われたくない。
 かと言って、言い訳ばかりして罰から逃れてもいいのだろうか? 今ここで罰を受けなければ、いずれ手首の傷だけでは済まされない、悲惨な罰を受けるかもしれない。それに、物や人に八つ当たりするよりは、自分自身に八つ当たりした方がずっといい。ちょっとの痛みを我慢すれば、誰にも嫌われることがないのだから。

「クリスティーネ、ちょっと来なさい」
 廊下から、キッチンにいるはずのヘディの声が響いてきた。クリスティーネは驚き、短剣をメーションで消失させる。
「は、はいっ! 今行きます!」
 ローブの裾で涙を拭ったクリスティーネは、そそくさに私室から出て行った。

 

 荒野の真っ只中で、無数の車道や高架橋が入り組んでいることから、その一帯は”スネークターミナル”と呼ばれている。長距離運転手御用の簡素なホテルや休憩施設、そして乗り換え場所がある他は、特に目ぼしいものが無い不毛な土地。殆ど人が訪れないことに付け上がって、高速道路や荒野を爆走する暴走族たちが、高架橋の下などにキャンプを張って溜まり場としている。

 どんよりした分厚い雲に覆われた広大なキャンプには、空のポリタンクや錆びたドラム缶が転がっている。弱者を威圧するかのようなシルエットの改造バイクが、あちらこちらに投げ捨てられていて、低質な燃料の匂いは軽く吐き気を催す。
 キャンプ内にあるレース場が、今回の出張ライブのステージだ。レース場と言っても、舗装された道路の代わりに、ロードコーンやドラム缶でコーナーなどが作られているだけ。しかも、ドラム缶や黒い袋の山がそこかしこに積み上げられており、傍から見ればただのゴミ捨て場のようにしか思えない。

 横倒しになったドラム缶が今回の観客席代わりで、その最前列にクリスティーネが座っている。クリスティーネが虚ろな目で見つめているのは、肩の立ち上がった花柄ドレスを着るロジータ。見えない壁の内部で背筋を掻いているロジータは、スネークターミナルに住んでいる観客、すなわち暴走族たちに囃し立てられても無反応でいる。クリストファーやピーターの姿はない。
(ロジータさんに迷惑ばかりかけていますから、少しでも恩返しをしなければ……)
 クリスティーネがロジータのライブに毎回駆け付けているのは、半ば義務感によるものだ。「そんな気持ちで応援されても、あんまり嬉しくないけど」という意味合いを、かなりオブラードに包んだ言い方で、ロジータは幾度となくクリスティーネに訴えてる。しかし、頑固なクリスティーネは一歩も譲らず、フラフラとした足取りでライブ会場に漂着して来るので、面倒臭くなったロジータは放置することに決めた。

「おおっと、もう一方のアーティストが瞬間移動してきたぞ! 名前はサルバドル=ペレス! ここ、スネークターミナルが本拠地のアーティストだ!」
 色のない光が霧消するとともに現れた、ロジータの対戦相手。サルバドルとグルになっている暴走族たちは、奇声や怪鳥音をあげて迎え入れる。
 身体中至る所に傷を縫った跡がある大男は、無理矢理口の端を吊り上げたような、理性を感じられない笑い顔を絶やさない。剃っているせいか髪は無く、代わりに多数の白い棘がモヒカンのようになっている。更には側頭部や脇腹に、円状の鉱物が埋め込まれており、様々な人種の混血として生を受けたようだ。
 下半身には、つや消し黒なプロテクターを装備していて、上半身には同じような肩パッドと胸当てとガントレット。俗っぽい言い方をすれば、世紀末ファッションだ。両腕には、つや消し黒で、刺々しいデザインのガントレットが装備されている。これがサルバドルの武器なのだろうか?
(サルバドル=ペレスさん? どこかで……?)
 周りの景色や騒音が遠のくように感じていたクリスティーネは、聞き覚えのある名前を実況が叫んだことで、ふっと我に返る。どこかで聞いたことがあるはずだが、それがどこであったのかが思い出せず、出そうで出ないくしゃみのように気持ちが悪い。
(ちょっと、こいつの顔……。クスリやってんの?)
 サルバドルは君の悪い笑い顔を張り付けたまま、ロジータの周囲をうろうろ歩き回っている。その表情が、血が繋がっただけでしかない、忌まわしい両親の記憶を想起させたのか。辛い現実から逃げるため、麻薬に溺れて亡くなった家族の面影を見たのか。少なくともロジータは、あまりいい気分ではなかった。

「怖いですよぅ、社長……。どうしてベテランの先輩じゃなくて、あたしがここにきて、あの二人を監視しなきゃいけないんですか?」
 レース場を囲うように展開された見えない壁に、張り付かんばかりに押し寄せている暴走族たちの遥か後ろで、若い女性BASスタッフが電話をしている。
「サルバドルちゃん、産まれて来てくれてありがとう! 皆たちに感動をありがとう! 恵まれない子たちに、生きる希望をありがとう!」
 観客――と言うよりかは、フーリガンもどきの暴走族たちの最前列では、拡声器を持ったファビオラがさっきから喚き立てている。ギラギラした目で、不気味な作り笑いをしている、どぎつい色の服を着た年増。けばけばしいネックレスやブレスレットには、スピリチュアルパワーが宿っているのだとは本人の弁。こんなババアでも少年院の院長が務まるのだから、世の中は不思議なものだ。
「顔が知られている私の部下をこの場に置くと、あの院長に警戒されてしまう。君と、二名のボディーガードくらいなら、社会勉強しにきた新米スタッフとして、ギリギリ押し通せるだろう。あのような逸材、逃すわけにはいかないのだよ」
 女性スタッフが携帯電話で話している相手は、BASの社長であるジャスティン=クック。威厳に満ちた野太い声を聞けば、多少は気持ちが落ち着くかもしれないと思ったが、絶えず響くファビオラの喚き声や暴走族の奇声のせいで、やっぱり不安は拭えない。

「よっしゃー! カッコいいところ見せてやるぜー! 全員イッキでかかって来やがれー!」
 ボディーガードの片割れこと、背骨に魚のヒレが生えたマルツィオ=バッサーノが声を張る。派手なタンクトップとダメージジーンズという普段着だが、半透明の大盾と、スタンロッド付きの拳銃が、それぞれ片手で握られている。
 女性スタッフの気を惹こうとして、逆に自ら危険を招いているマルツィオは、拳銃と大盾を意気揚々と掲げている。真に受けた暴走族たちが、イッキに突っこんできたらと思うと、女性スタッフは気が気でない。
「ここにいる人たちは、血を見るくらいじゃあ大して驚かないらしいね。もっとグロテスクな光景が必要になるかなぁ? ふふふ……」
 もう一人のボディーガードの名前は、マルツィオの親友でもある、蝙蝠の翼を持ったブルーノ=ブランジーニ。落ち着いた色とカーディガンを着ている、一見育ちの良いお坊ちゃんだが、その戦い方は残虐極まりないとされる。
 なんでも、強酸性の血液であらゆるものを無惨に溶かし、血塗れの針で容赦なく被害者を串刺しにするらしい。下手すれば、暴走族たちよりも残酷な事件を引き起こすのではないかと、女性スタッフは不安ばかりが募る。

「どうしてそんなことまでして、サルバドルを欲しがるんですか? 小動物虐待の日常犯で、最近は人殺しまでした噂が立ってますよ。早くリストラした方が……」
 両隣りに立つボディーガードが、暴走族たちを挑発、または威圧するように周囲を見回している間、女性スタッフは小さくなって弱音を吐いていた。
「観客を楽しませるためなら、どんな行為でも許される。少なくとも、ステージの上に立っている間はな。あれほど様になる狂人ヒールなど、そうそういないだろう?」
 緊張を解そうとして、若干の冗談笑いとともにジャスティンが言ったが、軽くパニック寸前になっている女性スタッフには効果が無かった。
「でも、犯罪がバレちゃったら、下手すれば裁判沙汰になりますよぅ……?」
「確かに、過激派団体から訴訟を提起されると、面倒なことになるな。だが、少年院の長があの有り様だというのに、今更法律もクソもないだろう。そもそも奴は、残念ながら法律では裁けない。だから犯罪を唆す飼い主を追っ払って、私専属のアーティストとして奴を飼い慣らせば、世間的にもBAS的にもハッピーエンドな台本アングルとなるのだよ」
「はいぃ……」
 叱り飛ばさず、優しい言葉で説明してくれる社長には申し訳なかったが、女性スタッフは今すぐにでも一目散にこの場から逃げ出したかった。

「皆たちを馬鹿にする人は、サルバドルちゃんがやっつけてくれるんだからね! ほら! あそこにいるゴミ女も、皆たちを馬鹿にした目をしているわよ! 今にサルバドルちゃんが、正義のパンチでやっつけてくれるんだから!」
 拡声器越しに喚き立てるファビオラは、さらに熱が入ってきているようで、吐き出す言葉には虚実が入り交じっている。
「えうぅ~」
 ロジータの周囲をフラフラ回っているサルバドルは、相変わらず不気味な笑い顔が張り付いている。
「死ね! ゴミ女!」
「ぶっ殺すぞ、クソビッチが!」
 最早野獣の咆哮とも言える、暴走族たちの罵詈雑言。息するように汚い言葉を叫び狂う彼らを刺激しまいと、ロジータの家族であるストリートチルドレンや、その他大勢の観客たちは、暴走族たちから遠ざかってゆく。
(本当は私も、いつもこのように野次を受けていたのでしょうか……?)
 被害妄想に憑りつかれているクリスティーネは、暴走族らの誹謗中傷が、自分に向けられたかのように錯覚し、五臓六腑が押し潰されそうになる。

(ちょっと……。あいつら全員、クスリやってんじゃないの……?)
 かつてない程の野次罵声を一身に浴びるロジータは、憎悪や恐怖を通り越して、この異様な光景に呆然とする他なかった。サルバドルやファビオラが正気とは思えないため、スラム街では身近なものである違法ドラッグの可能性を、真っ先に疑った。
「ちょっと、あんた……聞こえてる?」
 ぐるぐるとその場を歩いているサルバドルが、目の前にやって来た瞬間、ロジータは手を伸ばしながら話し掛ける。
「ねぇ、ちょっと――」
 もう一度声を掛けながら、ロジータの指先がサルバドルの二の腕に触れた瞬間だった。
「オワアアァァァーーー!!」
 何かが気に食わなかったのか、サルバドルはいきなりロジータの顔面に左フックを見舞った! つや消し黒のガントレットが、見えないほどの速さでぶち込まれたため、ロジータは呆気なく後方に倒れ込んでしまう。
(今のは……!?)
 ロジータが左フックをモロに受けたのだと理解するまで、クリスティーネは数秒近く時間が掛かった。大の字になったロジータを観て、ファビオラや暴走族たちが奇声をあげて狂喜した直後、ライブ開始を告げるゴングが、誤魔化すように高鳴った。

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