Bearing the Cross Part15

 聖グブルバヌグ大聖堂――真昼の青空を目指すかのように、両端の塔がそびえ立ち、要するに外観は凹の形状になっている。荘厳な白の石造りの中央部は、巨大なアーチ状の入り口が開かれており、その遙か上にある窓には、幾つもの女神像や天使像が設置されている。

「あのぅ、社長……なんで大聖堂の外側から、二つ目の見えない壁を展開しなきゃいけないんですか?」
 若い女性のBASスタッフは、正面から大聖堂を見上げながら、怖ず怖ずとしながら言った。携帯電話の向こう側には、BASの社長ジャスティン=クック。
「プロレスの醍醐味と言えば、なんと言っても場外乱闘だからな。もう展開は済ませたかね?」
 補足すると、ジャスティンは元々ヒール系のトッププロレスラーなのだ。
「済ませましたけどぉ……」
 女性スタッフは、大聖堂の外壁に張り付くようにして、あちこちで機材を設置したりハイテク機器を眺めたりしている、他のスタッフらを見回しながら言った。
「場外乱闘って、何が起こるんですか? スネークターミナルの人たちも来ているんですよね? ここにいて、大丈夫なんですか……?」
「何が起こるのかは、大筋以外私にも分からん。真に迫った興行とは、観客が作るものだからな。なに、イレギュラーに備えて二枚目の壁を用意したのだ。大聖堂の中にいる限りは、ナイフで刺されても死にはせんよ」
「でもぉ……」
 自信たっぷりに諭されても、若い女性スタッフはやはり不安を捨て去れない。まもなく元気な青年スタッフから「確認お願いしまーす」と呼ばれたので、「し、失礼しますぅ!」とだけ言って通話を切り、小走りで青年について行くのであった。

 大聖堂内部の大アーケードの下では、ここに仕える者たちが、ロザリオを握って祈りを捧げている。二重の階上廊が、一般観客用の観戦場所。東流津雲村のご老人たちやラ・ラウニのストリートチルドレン、そしてスネークターミナルの暴走族たちが、立ったまますし詰め状態となっている。アーチ型の天井を見上げると、美しい青色を背景に瞬く無数の星々。計三つある大円のバラ窓からは、神々しい光が射し込んでいる。
 左右のアーケードに挟まれた、入口から祭壇に向かう中央通路が決戦場だ。無数に設置された長椅子を両断するように、青色のフロアーが祭壇の方へ真っすぐ伸びている。長椅子を踏み台にしたアクロバティックな戦い方も可能だが、細長い通路での一進一退の攻防がメインとなるだろう。
 赤い絨毯が敷かれた七段の階段を登ったならば、金で煌びやかに装飾された祭壇に招かれる。そこには、中央で一際光り輝く女神像を守護するように、豪華絢爛な服飾で装飾された天使像が並ぶ。さながら天上宮殿の王の間が顕在したかのようだ。

 出口、すなわち正門の前に立っているのは、クリスティーネ除くビルンバウム一家やピーター、そしてビビ。他、クリスティーネと特に関係が深いノイシュウィーン村の人々が、この”特等席”に立ち並んでいる。
「なぁ、ビビ。おまえ大丈夫なのか?」
 緑半袖の狐人間ピーターが、白ワンピースのウサギ人間ビビに話しかける。
「へっちゃらだよ」
 まんまるな赤い目をぱちくりさせながら、ビビが答えた。
「おまえ、これが何なのか分かってるのか? メチャクチャ怖いんだぜ? そりゃあ、確かに見世物だけど、映画とかアニメの次元じゃねぇ。クリスティーネ姉ちゃんと戦うのは、本物の悪党だ」
 サルバドルや、ボロボロにされたクリスティーネをビビが観たら、大泣きするのは必至だろう。それを直接言うのは憚られるので、ピーターとしては遠回しに言うしかない。ここ数日の間流れているBASのテレビCMを観れば、クリストファーと一緒に観たショッキングな動画を嫌でも思い起こしてしまうため、サルバドルがどのような悪党であるのかは、クリストファーに訊くまでもなかった。
「うん、へっちゃら。クリスティーネお姉ちゃんがいるから」
 そう言ってビビは、抱きしめているウサギ人形の頭を撫でた。これから起こる惨劇のことを、よく分かっていないのかもしれない。
「そのクリスティーネ姉ちゃんがやべぇんだって……」
 ビビの物分かりの悪さにむしゃくしゃしたが、ピーターはぐっと堪えた。一応忠告してやったんだから、あとはビビの責任だ。そう思いながら、あのサルバドルの襲来に備えて心構えをする。

「しつこいようですが、大丈夫ですか、ヘディ?」
 ポンチョ状の黒い祭服を着たフェリックスが、グレーロングスカートと緑の前垂れを着た妻を気遣う。
「本当に、見世物の範疇で収まってくれるといいんだけど……」
 胸に手を当てているヘディからは、呼吸の音がはっきり聞き取れる。見上げた先には、階上廊の奥に屯している、スネークターミナルの暴走族たち。東流津雲の村人たちや、ラ・ラウニのストリートチルドレンたちは、肩触れるだけで殴り飛ばして来そうな怒気を放っている彼らから、一定の距離を置いている。
「いざとなったら、僕とお父ちゃんで守ってあげるよ」
 見えない壁にへばり付くほど前に出ているクリストファーが、振り返って言った。
「あなたたちが傷つく姿も耐えられないんだけれども……そうね。ありがとう」
 ヘディは平常心を取り戻すつもりで、「ふぅ~」と大きく息を吐いて呼吸を整えた。
「しっかり応援しなきゃね。クリスティーネだけに怖い思いをさせないように」
「私たちが傍にいるという、確かな証を示すためにも」
「そうだね。頑張ろうっ」
 ビルンバウム一家の三人は、各々交互に顔を見合わせた後、力強く頷くのであった。

 

「さぁ、遂に現れたぞッ! 狂えるサンドバッグ職人、サルバドル=ペレスッ! 猛ってる盛ってる笑ってるッ! 殺傷本能をせき止めるダムが、今にも崩壊しそうだッ!」
 熱い実況とともに、瞬間移動でクリストファーたちの目の前に現れたのは、気味の悪い笑顔を張り付けている仇敵サルバドル=ペレス。下半身にはつや消し黒のプロテクター、上半身には同じような肩パッドと胸当て。つや消し黒のガントレットは、殴った回数や威力に応じて、その対象に磁力を発生させるサンドバッグ=メイカー。
「殺せー! ぶっ殺せー!」
「ぶち殺せよぉー! サルバドルー!」
 階上廊の暴走族たちが狂喜する。語彙力に乏しいのか、ド直球で卑しい叫び声ばかりだが、だからこそ原始的な恐怖を感じさせるのだ。
「ほら見て、サルバドルちゃん! あなたのカッコいいところを観るために、レイラ中の皆たちが集まってくれたのよ!」
 サルバドルの飼い主である、どぎつい色の服を着たババアなファビオラは、図々しいことにロザリオを持った聖職者たちの前に躍り出て、やはり拡声器で喚いていた。ビルンバウム家から見ると、斜め前の方向だ。
「きゃっ、きゃっ、きゃっー!」
 両腕を振り上げたままその場で旋回するサルバドルは、涎を垂らしている。血に飢えている割には粋がるばかりで、低能な暴走族が自分を慕うところを見る時こそ、絶大な権力がこの手にある喜びを実感する。東流津雲村やラ・ラウニ、そして大聖堂に使える人々が、自分に怯えているのを悠々眺めるのも愉快だ。誰かを恐怖させることは、自らの力が上回っていることを証明するに等しいのだから。

 階上廊を眺め回したサルバドルは、目線を地面と平行にしたままもう一回転する。その巨体が、大聖堂の正門の方を向いた時、硬直し、ハンバーグを見つけた子どものように目を輝かせた。
 動物園のゴリラを観ているかのような、ウサギ人間の女の子。後ろの立っている犬人間夫妻のように、侮蔑を孕んだ目つきでいるわけでもなく、両隣にいる二人の男の子のように、怯えた様子でいるわけでもない。まるでサルバドルを、道端の石のように見做しているかのようだ。
(やべぇ、目が合った!)
 ピーターが階上廊の方に視線を移した直後、ドガン! とダイナマイトが爆発したような音が身体を突き抜けた。慌てて前を見ると、見えない壁にガントレットを押し当てたサルバドルが間近に迫っていた。
「えっへっへっへ~! あああああぁぁぁ!!」
 奇声をあげたサルバドルは、気持ち悪い笑い顔はそのままに、見えない壁を何度も殴りつける。連続でダイナマイトが爆発しているような音が鳴り、見えない壁が壊れるのではないかとさえ思える。暴走族たちによる狂気的な歓声が轟く。

「何するのよ! この子が怖がっているでしょ!」
 怒鳴ったヘディはビビを抱き寄せる。当の本人は小さな身体を小刻みに震わせているが、泣き出す気配もなく、まん丸おめめをパチクリさせている。
「おやめなさい! 罪のない子どもを、恐怖させる必要はないでしょう!」
 一歩前に出たフェリックスが言った瞬間、サルバドルは目前に見えないほど速いパンチを叩きこんだ。武術の達人であるフェリックスの目を以ってしても、そのパンチを捉えることはできず、爆発音が響いた瞬間思わず両手で壁を作ってしまった。パンチが見えない壁を突き抜けて、顔面にモロに受けてしまったかのように思えたのだ。
(うわ、見えねぇ……!)
(こんなの避けられっこないよっ……!)
 ピーターとクリストファーは、無言のまま戦慄した。

「えぅ~! えぅ~! あっぱぱぱぱぁ~~!!」
 クリストファーたちの反応に気をよくしたのか、突如笑い出したサルバドルは、その場に倒れて笑い転げる。
「あらあら~。サルバドルちゃん、その人たちに馬鹿にされちゃったの? じゃあこのセラピーが終わったら、お仕置きしてあげなきゃね~」
 自らの手柄のようにファビオラが高らかに叫ぶと、階上廊にいる暴走族たちの目が血走った。
「皆殺しにしてやらぁ!」
「弱ぇくせに粋がンじゃねぇぞ、ビッチども!」
 一般人では絶対に勝てないサルバドルの陰に隠れて、自分たちより弱い人々を威圧する様は、虎の威を借りる狐そのものだ。教養がなければ品性もない、金も何にも持ってない彼らが、その空虚さを紛らわすには、暴力に縋るしかないのだ。
 クリストファーたちは各々の困惑した顔を見合わせて、誰もサルバドルを激昂させるような言動をしていないことを確認する。更に周囲の一般客を見渡してみても、「いやいや、違うから!」と手を振ったり、「や、やってませんよ!」首を振ったりする人ばかり。

(まさかとは思いますが、ビビさんが……?)
 このような状況でも冷静に佇んでいたフェリックスは、ふいにビビと目が合うなりそう感じた。何を考えているのかは知らないが、ビビは何かを飲みこんでいるような表情のまま、いつものように大きくて丸い目をパチクリさせているだけ。
 家柄によって、フェリックスは様々な悪党のことを知っている。彼ら全体に言える一つの傾向としては、心が荒んでいることから、誰彼構わず因縁を付けてくる点が挙げられる。もしやサルバドルは、大して恐怖もせず、軽蔑もせず、唯一の拠り所としている残虐さなど眼中にない(と思われる)ビビに、怒り狂っているのだろうか……?
(だとしたら……ビビさんを暴徒たちから、死守しなければなりませんね)
 最近クリスティーネに会えなくて寂しかったのか、ビビは両親にクリスティーネの応援に行きたいと言って聞かなかった。ノイシュウィーン村全体に流れているCMによって、学校でもクリスティーネの境遇に関する噂話が絶えない。
 ビビの両親は多忙だから、BASに子どもを連れて行くのに反対していたが、いつもは大人しいビビが珍しく一歩も引き下がらない。閉口した両親は、半ば責任を押し付けるが如く、ビルンバウム家にビビを連れて行って貰えないかと頼んだのだ。

 

(止むを得ませんか。ビビさんの御家族の信頼を預かる以上は……!)
 暴力沙汰だけは避けたいフェリックスが、土下座しようと片膝を突いた瞬間、場内に大歓声が轟いた。危うく本当に土下座するところだったフェリックスは、さっと元の姿勢に戻って祭壇の方を見る。
 無数の長椅子に挟まれた、豪華絢爛な青く細長い通路。その果てにある赤い絨毯が敷かれた祭壇の上に、水色ローブを着たクリスティーネが瞬間移動で現れていた。
「サンドバッグをお求めなら、私が頬を差し出しますよ」
 恐らくジャスティンが考えたであろうセリフを言いながら、腰の鞘から双剣をやおらに引き抜く、カッと目を見開いたクリスティーネ。天井のステンドグラスから神々しい光が降り注ぎ、両手を僅かに広げて切先を外側に向ける。森羅万象を抱擁するかのように両腕を広げている、背後の女神像と似たような姿勢だ。

「今のところは問題なさそうだけど、こいつらが暴動起こしそうになっちゃったら……分かってるよね?」
 片方の階上廊、暴走族が陣取る地帯と、ストリートチルドレンが密集する辺りの境界線。踏み台代わりのジャンクフラワーの上に立ったロジータが、携帯電話を耳にあてながら言った。肩の立ち上がった継ぎ接ぎだらけの花柄ドレス、腰にはジャンクパウダーが詰まった皮袋を無数に装着。どういう訳か、戦闘ライブ用のコスチュームを着ている。
 サルバドルにこっぴどくやられたロジータだが、「どうせ傷なんてすぐに治っちゃうし」と言って、意に介しているような素振りは全然見られない。むしろ、「憐れんでくれた人から、色々巻き上げることができるかもね」などと言って強かでいる。
 踏み台に立つおかげで視界を確保しているロジータは、向こう側の階上廊にいるケンちゃんこと竜山健司たつやまけんじと目を合わせている。暴走族が屯するエリアと、東流津雲村の人々が集まる場所の境界線で、踏み台代わりの土塊の上に立っているのだ。青いオーバーオールに、白い軍手、白い手拭。なぜか片手には、土を操るためのメーションが籠められたシャベル、ななひかりが握り締められている。
「分かっとるでー! クリスちゃんの晴れ舞台、誰にも邪魔はさせへん!」
 もう片方の手で携帯電話を持つ健司が、ロジータに応答する。観客がサルバドルとクリスティーネに釘付けとなる中、二人は遠距離からお互いを見つめ合ったまま大きく頷き、携帯電話の電源を切った。

「ハハッ、大盛況じゃないか。ハリウッドスター同士の結婚式にも、勝るとも劣らないと思わんかね?」
 大きく手を打ち鳴らしては悦に入る、灰色のビジネススーツを着た野太い声な男が一人。BASの社長であるジャスティン=クックはアーケードの下で、大聖堂に仕える聖職者の中でも高位の男に対して言った。
「茶化さないで頂きたい。これは親孝行の娘が英雄に至る道に通ずる秘跡であり、また罪深き男が神の御前にひれ伏して更生の契機となる、またとない機会である」
 高位の聖職者は、実に不愉快そうな面持ちで応えた。本当のことを言うと、聖グブルバヌグ大聖堂でBASを開催すること自体、甚だ遺憾であった。良く言えば敬虔、悪く言えば頭の固いこの聖職者を頷かせたのは、善き友フェリックスの娘であるクリスティーネの存在に加え、ジャスティンの権力や財力、そして交渉術があってこそ。彼は渋々ながら出張ライブの開催を承諾したが、戦闘エンターテインメントに対して否定的な姿勢は崩さない。
「世の若者は、そのような堅苦しいことなど考えておらんよ。正義の味方ベビーフェイスが勝ち、悪役ヒールが負ける。シンプルな勧善懲悪だ。どうだ? 分かりやすいだろう?」
 そう言ってジャスティンは、心底ムカつく笑顔となった。顔を覗かれた高位の聖職者は、拳を握り締めて身を震わせる。

「お姉ちゃん、来たよ! 応援するから!」
 かつてない動員数と声量に圧倒されていても、聞き覚えのあるその声だけが確かに耳に届く。
「クリストファー……?」
 はっとしたクリスティーネが、その場をぐるぐる回っているサルバドルの向こう側に目をやると、立ち並ぶ群衆の最前列にいる、クリストファーを発見した。
「あなたが心配で仕方がなかったのよ! いつも隠し事ばっかりしているから!」
「主の声を待つばかりではありません。私たちも見守っておりますから」
 弟の背後には、クリスティーネの父と母が立っている。
「クリスティーネ姉ちゃん! あいつ本物の悪党なんだろ!? ぶっ倒せ!」
 隣に立っているのは、クリストファーの大親友であるピーター。目をぱちくりさせるだけで何も言わないが、ビビも観に来てくれている。
(皆さん……来てくれないと思っていました)
 疎遠になっていた家族や親しい子どもたちが、まさかここに来るとは思っていなかったクリスティーネは、掲げていた両手を下にして放心した。

 猛特訓の疲労から、BASドームのホテルに戻るなり、ふかふかのベッドに直行する日々を送っていたクリスティーネ。家族に心配を掛けない為、実家に電話をするべきだとは思っていたのだが……。半ば強引に家を出てきた手前、自分から家族に連絡する気にはなれなかったのだ。弱音や愚痴を吐けば家族に身勝手だと思われるし、覚悟が足りないという事実を突きつけられるような気がして。
 緑生い茂る美しい山々に囲まれたノイシュウィーン村は、近隣では観光業が盛んであるとは言え、気軽に夜遊びできるような場所は皆無に等しい。だから村人たちの殆どは、夜は家族とともにテレビを観ることにしているのだが、ジャスティンはその習性を利用した。
 ノイシュウィーン村人たちがテレビに釘付けになる時間帯を狙って、村のヒーローが絶体絶命のピンチに陥っていることを、テレビCMで大々的に宣伝したのだ。経緯はどうあれ、クリスティーネの家族が応援に駆けつけることはほぼ確実だと踏んだ上での営業戦術。事実、CMが放映された翌日から、クリスティーネの噂は村中に広まり、ビルンバウム家は勿論、数多くの村人たちがやって来てくれたのだ。
(それにしても、どうしていきなり……?)
 故郷で一体何が起こっていたのか、全く見当が付かなかったクリスティーネは、このサプライズが神さまからの祝福なのか天罰なのか、それすらも分からない。前代未聞の大舞台によるプレッシャーが極限まで達し、数多くの隣人たちがこの場に集う驚愕の光景と相俟って、頭はすっかり真っ白になっていた。故に、空になった精神に秘められた闘志が一気に注ぎ込まれ、罪悪感や使命感ともまた違った、いわば天使が憑依したかのような感覚に至る。

「サルバドルちゃん! その女をやっつければ、ここにいる皆たちは誰もサルバドルちゃんを馬鹿にしなくなるわ! 一生懸命戦って、見返してあげるのよ!」
 拡声器で叫ばれたファビオラの声で、クリスティーネは我に戻って武器を構え直す。目を爛々と輝かせるサルバドルは、ペロペロキャンディーを見つけた子どものように、涎を垂らしながら何度も小刻みにジャンプしている。
「ンガアアアァァァ!!」
 そうして、大聖堂内の緊張感が頂点に達した直後、ライブ開始を告げるゴングと同時に、物凄い奇声をあげてサルバドルが突っ込んでいった!

 

 図体デカいサルバドルが猛スピードで突っ込んで来る様は、何度観てもアクセル全開にした重量トラックを彷彿とさせる。そのままクリスティーネが激突される訳がなく、双剣の剣身を伸ばし二本の鞭を縦横無尽に振り回す!
「速いですね……! これが猛特訓の成果なのでしょうか? それとも、アーティストに成って以来の弛まぬ練磨が……?」
 暫く見ないうちに、クリスティーネの鞭を振るう速度が目に見えて速くなり、それでいてモーションがより洗練されていたので、微かな喜びにフェリックスは厳かに頷いた。訓練用の鞭を振るっているところは、娘の幼少期以来幾度となく目にしてきたが、実際にディバイン=メルシィで戦っているところを観るのは、これが初めてのような気がする。

 我を忘れて暴走するサルバドルは確かに恐ろしいが、直線的に突っ込んで来るから鞭を命中させるのは容易だ。至る所が縫われているサルバドルの全身が、瞬く間に鞭跡だらけにされる。しかし、苦痛を与えないというディバイン=メルシィの特殊能力が裏目に出たのか、サルバドルの暴走を中断させることができない。そもそも、有効打となっているのかどうか……。
(できる限り、近寄らずに戦わなければ……)
 クリスティーネは、鞭の一本をサルバドルの足首に巻き付けると、魚を釣るように持ち手を上げ、勢いよく鞭を収縮させる。足くくり罠に掛かったかのように、足を上方へと引っ張られたサルバドルは、転倒して仰向けに。クリスティーネは、すかさずもう一本の鞭で乱打する!
 何かに躓いたのかと思ったのか、サルバドルは上半身を起こして自分の身体を確認した。痛みを感じない故に、鞭の攻撃が全く当たらない、あるいは自分に全く効かないと思いこんでいるから、悠長に自分の身体を確認できるのだろう。

 足首に巻き付いた一本の鞭が縮小し、クリスティーネの元へと戻ってゆくのを目撃したサルバドルは、自分がなぜ転んだのかを理解した。同時に、肩パッドと胸当てを装着するのみで、露出度が高いサルバドル自身の上半身が、みみず傷だらけになっていることにようやく気付く。
 慌てて立ち上がったサルバドルのやや前方を狙って、クリスティーネは二本の鞭を振るい続ける。恐ろしいことに、サルバドルは音速を超える鞭の先端が見えているのか、スウェーバックとバックステップを繰り返して攻撃を全て避けている。
(正面から戦ったら、本当に勝ち目がないっ……!)
 姉を応援しながら、数多くのアーティストを観てきたクリストファーだが、絶望的な力量差を感じて戦慄したのはこれが初めてだ。
「爺さんや。クリスちゃんとあの悪ガキ、どちらが優勢なのかのう?」
「んぅ~? どっちも速すぎるから、よく分からんぞい」
「あのモヒカンが全部攻撃躱しているんだよね?」
「え? でもモヒカン結構ケガしてない? シスターの方が優勢じゃない?」
 東流津雲村人やらストリートチルドレンやら、大半の観客はどちらが優勢なのかさえ分からずに戸惑っている。

 両腕が疲れて、徐々に双鞭の動きが鈍ってきたクリスティーネと対照的に、サルバドルは少しも呼吸を乱していない。クリスティーネが息切れしてしまうのも、時間の問題かと思われたが、上体を後ろに反らしたサルバドルの後頭部が、見えない壁に軽くぶつかったことで状況は一変。
 壁を背にしたサルバドルのやや斜め前方を狙って、クリスティーネはひたすら鞭を振るう。後ろに逃げることはできないので、サルバドルは真横へと逃げた。一番後ろにある長椅子と、見えない壁の合間にある、人一人がやっと通れるような空間へと。
「よしよし。ここまでは作戦通りだな」
 とうとうステージの隅に追い詰められたサルバドルを観て、ジャスティンが「ハハ」と笑いだす。いくらサルバドルとは言えども、立ち止まった状態で音速の連続攻撃を避け切ることは難しい。連撃の半分ほどは辛うじてガントレットで受け止めているが、顔や上半身の傷は瞬く間に数を増す!

「アアアァァァーーー!!」
 怒りが頂点に達したサルバドルは奇声を発し、鞭の猛攻に晒されながらも、目の前にあった長椅子を殴りつけた。瓦割のように真っ二つにされた長椅子には磁力が発生し、その半分をガントレットで引き寄せる。そして、長椅子がくっついたガントレットをクリスティーネの方に向けた。
(そういえばロジータさんは、トドメにドラム缶の山へと撃ち込まれていましたね)
 勘によって身の危険を感じたクリスティーネは、音速の遠距離攻撃を中断して側方へと飛びこみ前転した。直後、クリスティーネが立っていた場所に、半分になった長椅子が直撃し、粉々になった! ガントレットに帯びた磁力を、長椅子を引き寄せる性質から引き離す性質に反転させたのだ。
 余談だが、壊れた長椅子は見えない壁の内部にあるから、いずれは元通りになる。このライブを面白がっているジャスティンの隣にいる聖職者は、胸の内が嫌悪で満ちているようだが。

「ンオアアアアァァァーーー!!」
 もう一度、半壊した長椅子をガントレットから撃ったサルバドルは、祭壇に向かって猛スピードで突っ込んでゆく! 再び側方へと転がって躱したクリスティーネは、片膝立ちとなって細長い通路を暴走するサルバドルを見据える。
(もう遠ざけることは不可能ですね)
 意を決したクリスティーネは、自ら祭壇から細長い通路へと飛び降り、サルバドルの方へと疾走する!
「アカン! 勝負を急いたらアカン! クリスちゃん、落ちついてえな!」
 健司をはじめ、多くの観客は恐怖した。重量トラックに向かって、三輪車に乗った子どもが正面から突っ込んでゆくようなものだ。火を見るより明らかな結末に対し、思わず目を瞑った老人やストリートチルドレンたちは少なくない。
「あぁ! お姉ちゃんの悪い癖が!」
「ちょっと待ってよ! やられるつもり!?」
 クリストファーとヘディが同時に叫んだ時、二人の間合いは槍ならギリギリ届くくらいだった。

 誰もがクリスティーネが紙っきれのように吹き飛ばされると思った次の瞬間、クリスティーネは背を低くして足から滑り込み、ほぼ同時に頭上を見えないパンチが掠める。
 パンチが空振ったサルバドルは、脛にスライディングキックを受ける。黒プロテクターで保護されているが、暴走した勢いが余ったせいか、うつ伏せに転倒してしまった。
「ふむ……サルバドルさんが真っ直ぐに打ち込むことを、予測した上での行動ですね」
 階上廊が熱狂し、アーケードの下から捧げられる祈りがより神妙になる中、フェリックスはもう一度厳かに頷いた。暴力を愉しむ自分に微かな罪悪感を覚えつつも、父親は娘の成長を実感して頬が緩んでいた。
「すげぇ! 冷静になってる!」
 着実と勝利へと近づいているクリスティーネの戦いぶりのおかげで、ピーターは余計なことを気にすることなく、大いに興奮することができた。
 そしてビビはというと、ウサギの人形を抱き締めながら、丸い目をぱちくりさせているだけ。本当に、何を考え、何を感じているのだろう……?

 両手を地面についてから、身体を持ち上げているサルバドルは隙だらけだ。相手を殴る訓練だけを積み重ねたせいで、転倒した際の対処法を知らないのだろうか。
 スライディングキックのフォロースルーで、そのまま背後をとったクリスティーネは、丁度四つん這い状態となっているサルバドルの首に双鞭を巻き付ける。そして、自ら後方に歩きながら双鞭を引っ張ることで、サルバドルの首を締め上げた!
「正しく暗殺者のような……」
 そう呟いたフェリックスは、クリスティーネの先祖の面影を重ねているのかもしれない。
「あれだけ離れてれば、パンチが届かないよな!」
 ピーターが言った通り、サルバドルが両手を振り回しても、間合いをとったクリスティーネには掠りもしない。
「窒息とかでも、死なないのよね……?」
 両手を自分の犬耳に当てるヘディは、我が子が人殺しになったらどうしようかと、かなり怯えている。
(……いつの間に、平気になったんだろう)
 母親の呟きを耳にしたクリストファーは、ふと我に返って自己嫌悪に陥った。
「さっさとぶっ殺しちまえよォー!」
「何でしゃばってんだクソアマが!」
 単細胞な暴走族たちは、あらゆる体液を撒き散らしながら叫び狂っている。勢いで誤魔化している、あるいは余りの馬鹿さでサルバドルがピンチなのを理解できないのかもしれないが、その凶暴さは鳴りを潜めるどころかヒートアップしている。
「サルバドルちゃんったら、優しいわね~! あんな偽善者のために出番を作ってあげるなんて!」
 手足をぱたつかせながら拡声器で叫んだファビオラは、これっぽっちもサルバドルの不利を認めようとはしない。元から頭がおかしいのは疑いようがないし、この期に及んで現実逃避を決め込んでいるに過ぎないはずだ。

 

 クリスティーネがサルバドルの首を締め上げて約十秒が経過。そろそろ気絶するように思われたサルバドルだが、唐突に両腕を首の後ろに回すと、ピンと張ってある双鞭を掴む。
「オゥアアアァァァーーー!!!」
 そして絶叫とともに、身体をくの字に曲げながら両腕を振りおろし、あろうことか双鞭を力任せに引き千切った!
「ちょっと!? 嘘でしょ!?」
 想定外の出来事に、クリスティーネの勝利を予感していたロジータが大声をあげる。
「まさかディバイン=メルシィが壊されるとは……」
 刃こぼれなどの軽微な損傷ならいざ知らず、使いものにならなくなったという話を、フェリックスは聞いたことが無い。少なくとも数百年は使われているこの家宝は、非常に頑丈にできているのだ。
「流石にあれほどのパワーは予想外だな……」
 珍しく、ジャスティンが真顔になって漏らす。
「誠に残念だが、我々が責めを引き受けることは不可能だ」
 隣に立っている高位の聖職者は、更に忌まわしげな面持ちになった。

(ど、どうすればっ……!?)
 一続きになっていた無数の十字架が飛散するのを目の当たりにして、クリスティーネは気が動転してしまった。逃げ出す暇すら与えられず、自由になったサルバドルが一瞬で踏み込み、見えないストレートパンチを顔面に叩きこむ!
「うそっ!? あんなオモチャのようにっ……!」
 それこそ重量トラックに跳ねられた子どものように、数メートルほど吹っ飛ばされたクリスティーネを観て、ヘディは思わず両手で顔を覆った。顔が変形してしまったクリスティーネは素早く立ち上がったが、猛スピードでサルバドルが突っ込んで来るため、考える間もなく後ろへダッシュする。
「クリスちゃん、逃げるんやー! 逃げることは恥ではないでー!」
 ご老人方の応援に混じって、健司の男らしい声援が聴こえる。管理者の裁量次第だが、見えない壁の内部で壊された物質はいずれ修復する。素手でサルバドルとやり合うのは、自殺行為に等しいし、壊されたディバイン=メルシィが修復するまで、可能な限り逃げ回るのが賢明だ。クリスティーネ含む多くの人間が、サルバドルから逃げ切れるとは思っていないが……。

 大聖堂の入り口、すなわちクリストファーたちが立っている場所まで、全速力で駆けてゆくクリスティーネ。クリスティーネの走る速さもなかなかのはずだが、それを追いかけているサルバドルは、急速に間合いを縮めてゆく。殴られたことでクリスティーネの身体に磁力が発生しているが、自信や平常心、基礎的なメンタルトレーニングなどから生まれたメーションへの抵抗力が、辛うじてそれを上回っているようだ。
 ステージの端まで辿り着いたクリスティーネは、ダッシュの勢いを借りて見えない壁を駆け登る。後頭部目掛けて放たれた見えないパンチは、見えない壁に突き刺さり、目前にいたクリストファーやピーターを怯ませた。
 数歩ほど駆け登った所で壁蹴ったクリスティーネが宙返り。そのまま空中で、サルバドルの後頭部に蹴りを入れようと思ったら、寸前で振り向き様のアッパーカットを腹部に喰らってしまう。空中でワンバウンドするという奇妙な軌道を描いた後、クリスティーネは地面に激突し、青色のフロアーを無様に転げまわってしまう。

「殺せー! ぶっ殺せー!」
「そいつに腹パンして吐かせちまえー!」
 暴走族らの汚い歓声が飛び交う中、横向きとなって倒れるクリスティーネが、ベルトコンベアで運ばれるかのようにサルバドルへ引き寄せられてゆく。逃げようにも、腹部を突き抜けた地獄の苦しみのせいで悶絶して立ち上がれない。先日、ステージの外でボディブローを受けた時と、痛みの度合いが全く変わらないように感じる。痛みを軽減するステージの効果が発動しているのかと、疑わしく思えるほどに。
 クリスティーネが引き寄せられている間、サルバドルは背を向けて、見えない壁を何度も殴っていた。銃声にも似た音が目の前から絶えず鳴り響く間、見えない壁越しのすぐ向こう側に立ち並んでいたクリスティーネの隣人たちは、表情をこわばらせていたり、目を隠したり背けていたりした。

 足元まで引き寄せられたクリスティーネは、サルバドルに持ち上げられ、顔から見えない壁に押し付けた。自身の身体と、見えない壁に発生した磁力によって固定されたクリスティーネは、宙に浮いているかのように見える。
 クリスティーネを応援する声が大聖堂に満ちる中、観客たちを嘲笑うかのようにサルバドルがパンチを放つ! 後頭部を強打されると、逃げ場のない衝撃でクリスティーネの四肢が大きく開いた。
(ここで……自暴自棄になってしまってはいけませんがっ……)
 激痛によって涙を流しながらも、歯を食いしばって反撃のチャンスを待ち続けるクリスティーネ。陸に打ち上げられた魚のように、殴られる度に身体を震わせているクリスティーネだが、その動きも徐々に小さくなってゆく。遂には見えないパンチを叩きこまれても、吊下がった屍のように静止するだけになってしまった。
「どうしてクリスティーネがこんなことに……」
 クリスティーネの苦悶の表情を、僅かに開いた指の間から観ているヘディは、我が子の苦痛を自分のように受け止め、同じように涙を流していた。

 

「皆たち~! これでよく分かったかしら~!? サルバドルちゃんを馬鹿にする人は、み~んなこうなっちゃうのよ~!」
 ファビオラは拡声器で喚きながら、図々しくノイシュウィーン村人たちの間に割って入り、ビルンバウム家の前に躍り出てきた。
「あなたたち、掛け替えのない命を捧げてくれて、ありがとう。感じるかしら? おかげでサルバドルちゃんたちも、スネークターミナルの皆たちも、生きる希望が湧いてきたのよ~」
 まだライブ終了のゴングは高鳴ってはいないが、早くも勝利宣言をするかのように、ファビオラはクリストファーたちに向かってお辞儀をした。すると、手で顔を覆っていたヘディが飛び出してきて、ファビオラの胸倉に掴みかかる!
「勝手に決めないでよ、ねぇ! 誰があんたたちなんかに! 私たちのクリスティーネなのよ!」
 ヘディの大胆さに度肝を抜かれた、夫のフェリックスと息子のクリストファー。争いごとを嫌い、平時は割とマイペースで気さくなヘディが、相手が真性のクズとはいえ掴み掛っていくとは思わなかったのだ。
「何調子に乗ってんだテメェ?」
 密集する観客らを押し退けながら近づいてきたのは、釘バッドやら火炎瓶やら、一周回って感動するほど典型的な凶器を携えた暴走族たち。ファビオラ(が従えるサルバドル)の威を借りて、ここぞとばかりに残虐性をアピールする魂胆だ。蔑まれるばかりの人生に、恐怖と言う名の賞賛を浴びる瞬間を見出すために。
「ぶっ殺されてぇのか? あぁん?」
 背後からリーダー格の暴走族が凄みを利かせてきたので、震え上がったヘディは仕方なく、涼しい顔をしているファビオラの胸から手を離した。
 フェリックスは、愛しい妻を守るように、暴走族らの前に立ちはだかった。クリストファーは心臓を高鳴らさせながら、そそくさとフェリックスの陰に隠れ、せめてものと言わんばかりに敵意を孕んだ眼差しを送る。手の骨をバキバキ鳴らしたり、釘バッドで肩のプロテクターをトントン叩いている、頭のネジが外れた暴走族たちに対して。

 サンドバッグを嬲るのに飽きたサルバドルは、涎を垂らすニヤケ顔を、ピクリとも動かないクリスティーネの脇から覗かせた。最前列にいる観客が、クリスティーネの家族ということは知らないが、エプロンの女性は涙を流しまくっているから満足だ。緑半袖のオスガキは強がって睨んで来るが、目に涙を溜めているのが面白くて笑える。
 ただ一人、ずっと上目遣いで見てくるウサギ人間の女の子がいた。ライブ開始直前に、見えない壁を何度も殴りつけても、僅かに身を震わせるだけでいた、よわっちいはずの女の子。恐怖、あるいは狂喜が伝染する大聖堂の中、最弱の生き物だけが無邪気に目をパチクリさせている。
「ンアアアァァァーーー!!!」
 サルバドルは、敢えてクリスティーネではなく見えない壁を殴りつけた。ウサギの人形を抱く女の子を、直接殴り殺すかのように。ビビは全く動じない。目をぱちくりさせてビクリともしない。サルバドルは更に見えない壁を叩き付けた。それでもビビは、一瞬ビクリとするだけで、表情は全く変わらない。

「ほら、ウサギちゃん! あのお姉ちゃんのために泣いてあげなさい! 死んだ人はね、涙を流してくれた人の分だけ、極楽浄土で幸せになれるんだから!」
 ファビオラはビビの隣で屈みこんで、訳の分からないことを捲し立てて来た。少なくとも表面上は、ビビが恐怖も何も抱いていない様子が、少なからずファビオラにとっても癪に障るのだろうか。
「ううん。わたし、泣かないよ」
 ビビは苦悶の表情を浮かべ、痛々しく呼吸しているクリスティーネを見上げたまま、大きく頭を振った。
「まあ! 躾がなってない子ね~! お葬式では涙を流す決まりになっているの! あのお姉ちゃんは今から死ぬのよ! 分かってる!?」
 子どもだから、本当にクリスティーネが死んでしまうと言う嘘を、容易く鵜呑みにするのだろうと思っているのだろう。そうしてビビを泣かせることで、純粋な心に恐怖という名の刻印を打ち、暴力で支配し、自分自身やサルバドルが生きた痕跡を残すつもりなのかもしれない。
 年端も行かない小さな子どもだから、BASの安全性について理解しているかどうかは、客観的には分からない。ただいつものように、大きな目をぱちくりさせ、ウサギの人形をぎゅっと抱きしめたまま、このように言うだけだ。
「わたし、絶対泣かないもん。だってクリスティーネお姉ちゃんが、代わりに泣いてくれてるから。だからわたし、頑張ってクリスティーネお姉ちゃんの分も笑っていなきゃいけないの」

 ビビの言葉を聞いた瞬間、霞んだ世界の中を彷徨っていたクリスティーネは、カッと目を見開いた。
(ビビさん……!?)
 ビビにだけは、この姿を絶対に見せたくないと思っていたクリスティーネ。「いつも優しいクリスティーネお姉ちゃんのようになりたい」と、常日頃から言ってくれるビビを裏切らないために、誰かと傷つけあっているという事実は、死ぬまで隠し通したかった。何かの拍子で、血に塗れている姿を晒すようなことがあっては、ビビに一生嫌われてしまうのではないかと、密かに恐れていた。
 だがビビは、クリスティーネが殴られ放題になっても泣かずにいて、じっとクリスティーネを見上げている。無垢なまん丸おめめを逸らさずに、誰よりも真剣な態度でクリスティーネが振るう暴力を観ている。
 一体誰に教えられたのだろうかと、呆気にとられたクリストファーたちが無言でビビに注目している。いや、誰にも教えられる訳でもなく、その純粋さだからこそ有り付けた、子どもらしい素朴な理論なのかもしれない。

「いい、ウサギちゃん!? 今からあのお姉ちゃんは死ぬの! 死んじゃうのよ! 今の内にお姉ちゃんに謝っておきなさい! ごめんなさいって!」
 思い通りにいかないから、ファビオラは喚きだした。痣だらけにされても泣き出さないなら、もっと暴力的なことでクリスティーネを気絶させ、白目剥いた顔を見せつければいい話だ。勝利のゴングが高鳴れば、ビビが虚勢を張った分だけ滑稽な姿になる。
 ファビオラの言いつけに忠実なサルバドルは、気味の悪い笑い顔を張り付けたままクリスティーネの後頭部を掴み、見えない壁から引き剥がす。背骨が沿うようにガントレットとくっついたクリスティーネは、サルバドルの馬鹿力によって軽々と持ち上げられている。
(分かりました。ビビさんが代わりに笑って下さるなら、私も何度だってっ――!)
 片腕を振り上げたサルバドルは、クリスティーネを見えない壁や地面に叩き付ける、もしくは投げ飛ばすつもりだろう。クリスティーネは気力を振り絞って、身体を回転させる。ガントレットから離れることは不可能でも、くっつく部位を背中からお腹に変えることはできた。力任せに腕が振り降ろされる寸前、両手両足でガントレットを挟み込むクリスティーネ。

 そうしてサルバドルが、クリスティーネごと腕を振り降ろした瞬間、パキッ! と音が鳴った。いつの間にかガントレットから解放され、青い通路の上で仰向けになっていたクリスティーネの、背骨が折れた音ではない。「アアアァァァーーーッ!?」と悲痛な叫び声をあげたサルバドルが、骨折した腕をもう片方の手で押さえているのだ!
「腕拉ぎ十字固めの応用ですかっ!?」
 一転して静まり返った大聖堂の内部では、フェリックスの言葉が木霊していた。

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