Bearing the Cross Part2

 明くる朝のこと。クリスティーネの私室にて。
 まだ霞みがちな陽光に照らされた白いカーテンは、そよ風を受けてゆらゆら揺れている。窓の外では、木の枝で一休みしている小鳥たちが穏やかに歌う。ベットの上のタオルや枕は、ホテルマンにメイクされたかのように几帳面に整えられていて、ある意味で生活感を感じられない。
 朝の稽古に励み、お祈りを済ませ、朝食を頂いたクリスティーネは、その後ずっと私室に籠っていた。昨日と変わらない、スリットの入った水色ローブと黒ストッキングという恰好だが、同じような服が何着もあるだけだ。
 ナチュラルな木椅子に座るクリスティーネは、年季の入ったテーブルの上にあるノートパソコンを、慣れない手つきで操作していた。家族共用のノートパソコンは、最近購入した最新型。なんと無線LANだ。
 ヘディの仕事探しと、仕事そのものに必要になったことが、ノートパソコン購入に至った主たる要因。子どもたちが世界を広く知るためのきっかけにもなるからと、フェリックスも賛同した。実際は、クリストファー専用の遊び道具と化しているのだが。

(全然見つかりませんね。勤務時間が短くて、ノイシュウィーン村と行き来がしやすくて、かつお金がたくさん貰えるお仕事が。虫の良いお話なのは、分かっていますが……)
 テレビを観たりゲームで遊ぶことが殆どないクリスティーネは、慣れない液晶画面を見続けているせいで疲れ目となっていた。とは言っても、傍から見れば目が糸なので、全然見分けがつかないが。
 マウスを忙しなく動かして、あらゆるWebページの開閉を繰り返すこと一時間。数センチしか厚さがないこの四角い物体から、ノイシュウィーン村の学校図書館ですら足元に及ばないほど膨大な情報が得られるらしいが、いまいちピンとこない。探し方が悪いせいだろうが、どれもこれも似たり寄ったりの求人情報ばかり。
 ノイシュウィーン村に近い場所の仕事は、悉く給料が安い。普通に暮らす分には給料が安くても問題はないが、できる限り高い給料の仕事じゃないと、家族に申し訳ない。たくさん稼ぐためには、どうしても都会に引っ越す必要が出てくる。ビビのように遊びに来てくれる子どもたちのためにも、父親一人に聖職者の仕事を押しつけないためにも、クリスティーネは教会堂から離れたくない。
(在宅ワークは……きっと割に合わないですね。編み物のボランティアでさえ、想像以上の時間がかかりますから、アクセサリー作りなんてやり出したら、いくらなんでも大変なことになります。プログラミング……? パソコンが上手く使える人のためのお仕事ですか。家に居ながらできるし、給料も良いですが、機械は苦手ですから……。あっ、警備員! いいですねっ! 皆さんを守るための良いお仕事――あ、でも拘束時間が……)
 垂れ下がった犬の耳をピクピクと動かしながら、尚も忙しなくマウスを動かし、慣れない手つきでキーボードを打ちこむクリスティーネ。正午くらいから学校の掃除の手伝いをしなければならないし、昼下がりは子どもたちと遊ばなければならないし、夜は夜で編み物をしなければならない。あまりのんびりしている時間はない。

 ふと、私室のドアを乱暴にノックする音が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、パソコンまだー? 朝からずっと使ってるじゃん」
 クリストファーがドア越しにオモチャを催促してきたのだ。
「わっ! も、もう少し待ってください、今終わりますから」
 閉じたままのドアに向かって、甲高い声を飛ばすクリスティーネ。
「もう少しって、どれくらい? 早くしないとマズイやつなんだけど」
「そんなに急いでいるなら、私が代わりに済ませますよ。どんな用事ですか?」
「もうっ! お姉ちゃんにはどうせ分からないから、ぼくに貸してよ!」
 返答を待たずしてクリストファーが入って来て、パソコンが置かれた机へとずかずか歩く。
「うぅ……分かりました」
 そう言って立ち上がったクリスティーネから、奪うように椅子に座ったクリストファーは、慣れた手つきで検索エンジンを開き、素早くキーボードで文字を打つ。

バトル・アート・ショーBAS? 何の劇団ですか?」
 近未来的でスタイリッシュなホームページが現れると、大きく主張する見慣れない言葉に惹かれるクリスティーネ。
「劇団じゃないよ……。戦いのショーだよ。プロレスみたいなね。プロレスって分かる? タイガーマスクがやってたやつだよ」
 カチカチとマウスを鳴らし、次々とWebページを進みながら、クリストファーが若干からかうに言った。
「あぁ、タイガーマスクですねっ。分かります。男の子に人気ですから、よく絵本や紙芝居の読み聞かせをしています」
「まあさすがに姉ちゃんでも分かるか。あんな風に戦いをみせてお金を稼ぐ商売だよ。マンガの方のタイガーマスクは、稼いだお金を孤児院に寄付していたよね」
 黙々とパソコンを操作するクリストファーの後ろで、クリスティーネが犬耳をふさっと持ち上げた。
「BASをやる人って、お金がたくさん貰えるのでしょうか?」
「よく分かんないけど、そうなんじゃない? 超人気のアーティストだと、一瞬で予約満杯になるくらいだし、儲かっていると思うよ」
 次々とページが切り替わる画面を注視したまま、クリストファーが答える。
「そんなに皆さん観たいのでしょうか? プロレスラーの皆さんとても苦しそうですから、私はあまり好きじゃないんですけれども。それに、死ぬこともあるんですよね?」
「プロレスラーじゃなくて、バトル・アーティストだよっ。――ピーターのお父ちゃんから聞いたけど、とにかくすごい装置のおかげで、やられてもあんまり痛くないし、絶対に死なないんだって。だからもう、本当に何でもありなんだよ。剣を使っても、銃を使っても、メーションを使っても。悪口を言っても反則じゃないんだって。アニメみたいでカッコいいよね」
「本当にそんなことをするのは、ちょっと……」

 クリスティーネが表情を曇らせた直後、クリストファーはバンと机の縁を叩いて仰け反った。
「なんだよ~、12時からの試合ライブはどれも満杯じゃんかっ。せっかくピーターのお父ちゃんが、予定空けてくれたのに」
 運が悪いことに、12時からのライブはどれもが満席だった。12時30分からのライブとかなら、空席が残っているライブは沢山あるだろうし、当日券を買うと言う手段もあるだろう。しかし、クリストファーはまだまだ子どもなので、勝手に予定を変更してしまったらピーターの父ちゃんに怒られてしまう。
「ピーターさんのお父さんに連れていってもらうなら、どうしてあなたが予約するんですか?」
 椅子の背もたれに手を掛けながら、クリスティーネが訊く。
「だってピーター、家にパソコンがないんだもん。わざわざBASドームに買いに行っても、どうせすぐにチケットが売り切れるし。ぼく、パソコン得意だから」
 このご時世、携帯電話を介してのインターネットで予約することも可能だろうが、そこはご愛嬌ということで。きっとピーターの父親は機械音痴で、パソコンじゃないとダメだと思ったのだろう。クリストファーは、素直に従ったまで。
「あ~あ。昨日の夜にやっとけば、間に合ったかもしれないのに。だから言ったのにさぁ。なんだよっ、夜更かしはいけませんって……」
 クリストファーはブツブツ言いながら立ち上がり、ドアの方にトボトボと歩いて行った。
「あの、もう使っていいですか?」
「別にいいよ。好きに使えば?」
 へそ曲がりとなったクリストファーは言い捨てると、バタンと乱暴にドアを閉めた。

(BASですかっ……!)
 すかさず席に着いたクリスティーネは、BASのホームページを隈なく調べた。弟がブラウザを閉じずに放置してくれたおかげで、不慣れなクリスティーネでもスムーズにページを行き来することができた。
 新人アーティストの募集広告が掲載されたWebページに行き着いたクリスティーネ。一字一句逃すまいと、意識を集中させて文章を読むうちに、焦りや罪悪感は喜びと強い使命感へと変わってゆく。
(本拠地であるBASドームで、オーディションが行われるのですね。ドームの所在地は、ここから遠く離れていますけど……スタッフが無料で送迎してくれるのですかっ! しかも、晴れてアーティストとなったあかつきには、ドームと自宅を往復するテレポート・チケットを、無料で支給して頂けるのですね!)
 テレポート・チケットとは、持って念じるだけで予め指定された場所に瞬間移動できる、極めて便利な代物だ。使用にあたっては、メーションの素養は必要ない。ただし、一流のメーション使いにしか作製は不可能な上、(一般的には)瞬間移動先を指定するために作製者が現地に赴く手間があるので、旅客機のファーストクラスに座るよりも値段が張る。そんな高価なものを無料で支給できるBAS本部は、レイラでも有数の財力を誇っているのだ。
(皆さんを危険から守るためならともかく、私は争い事が嫌いです。ですが私は、アーティストになってお金を稼ぐべきなのでしょう。もう大人ですから、わがままは言いませんっ……!)

 

 その日の夜、パルトメリス私立教会堂のキッチンでのこと。
 温かみのある木造り風のキッチン。木目が綺麗に通っている収納棚や、小奇麗にされた蛇口やパイプからは、住人の清貧や勤勉さが伺える。使い古しの丸テーブルには、黄色チェックのテーブルクロスが掛けられ、水の入ったコップに咲いたばかりの一輪の花が挿されている。
 夕食を済ませたクリスティーネは、母親のヘディが皿洗いを終えたタイミングを見計らって、アーティストになりたいという旨を打ち明けた。本来は、皿洗いが終わると夫婦での団欒が始まるので、その場にはいつも通りフェリックスも座っていた。

「――ですから、私も一人前の人間としてお金を稼ぐために、このお仕事をやるべきなのです。幸いにもここから引っ越さないで済みますし、全力を尽くせば良いお給料を頂けることが分かっています。争い事は嫌いですが、もう大人ですから我慢します」
 BASについて両親に説明するので数十分。かくいうクリスティーネも、今日の午前に急ピッチで知識を詰め込んだに過ぎないが、致命傷や後遺症の恐れが無い、絶対に安全なプロレスのようなものと言えば大体分かる。
「ど、どうですかお母さん……?」
 両手を胸にあてるクリスティーネは、心配そうに言った。どうもヘディの機嫌がよろしくない。昨晩ヘディが漏らした愚痴を、盗み聞きしたのがばれたのかと、ついつい考え過ぎてしまう。「勤労の義務を果たすため」の一点張りでその場を凌いでいるから、クリスティーネとしては杞憂だと思いたい。
「認めませんからねっ! そんな殺し合いの商売なんて!」
 勢いよく椅子から立ちあがったヘディが、平手で机を叩き付けながら叫んだ。テーブルを挟んで、向き合うように座っていたクリスティーネは、思わず背筋を正す。ヘディの隣に座っていたフェリックスは、目を丸くした。
「で、でも、本当に人を殺すわけでは……」
 慌てて言ったクリスティーネは、少しだけ声が上擦っている。
「そういう問題じゃないわよ! ちょっとは和らぐとはいえ、痛い思いをするのに変わりはないんでしょ!?」
「それなら心配いりませんっ! 痛いのは我慢しますから! 一人の人間として、非情な現実と立ち向かう覚悟はできています!」
「痛いのは平気だとしてもよ! あなたの話だと、骨が折れたり血が流れたりするのは、避けられないんでしょ! 例えそれがすぐに治るものであっても、常識的に考えて許されると思ってるの!?」
 子どもたちが遊びたいように遊び、不自由なく道を選べるのが、母親としてヘディが望むもの。クリスティーネもクリストファーも、そのことは常々聞いている。そんなヘディが娘のやりたいことを否定するのだから、安心して打ち明けたクリスティーネは、すっかり面食らっていた。

「落ち着いて下さい、ヘディ。これも主の導きがあってこそでしょう」
 ヘディの隣に座っているフェリックスが、片手を僅かに伸ばしながら言い聞かせた。
「まさか、こんな野蛮なことを神さまが許してくれると思ってるの!?」
 ヘディは両手で机を押さえ付けたまま、震えた声を発した。全く動じていないフェリックスは、神妙な面持ちのまま厚みのある声で言葉を重ねる。
「決闘が合法とされる時代が、過去にはありました。主は正しい者に味方すると信じられていましたから。私は、主が無用な殺生と望んでいるとは思いませんが、邪な心を捨てて技量を競い合うことは、主の思し召しを確かめる儀式として、相応しいものではないでしょうか」
 先祖が暗殺者だったことに依るせいか、フェリックスは聖職者の割には戦いに関して寛容だ。
「それってさ、ただ単に戦いたい人の屁理屈なんじゃないの? だって、神さまが許してくれたからって言われれば、はいそうですねとしか答えられないでしょ。とくに昔の人は」
「そうかもしれません」
「でしょ! あなたからも何か言ってよ! こんな非常識なことを止めさせるために!」
 フェリックスは厳かにかぶりを振った後で答える。
「クリスティーネが自らの意志で決断を下したのであれば、私は主の導きに従うまでです。クリスティーネは、悪魔の囁きに耳を貸すような人間ではありませんから。道から外れない限りは、子どもの意志を尊重し、後押しするのが、私たち親の役目なのですよ。あなたがいつも仰っている通りです」
「そりゃあ、でも……常識的に考えて……」
 ヘディは片手で口元をおさえ、少しの間考え込んでいた。ややあって座り直すと、そのまま俯いてしまった。
(私、もしかして話してはいけないことを……?)
 この居心地の悪さを立て直そうにも、母親が普段見せない一面に呆気にとられてしまい、クリスティーネは何も言うことができない。

「いや、常識的って言うよりさあ。子どもに対して怪我しに行ってこいって、堂々と言っていいものなの?」
 ヘディは幾分か冷静になったのか、垂れ下がる犬耳を掻きながらこう言った。本人も自覚している通り感情的なので、いつも冷静なフェリックスに宥めてもらっている。感情が暴走した時、代わりにブレーキを踏んでもらっているのだ。
「確かに、それは……」
 フェリックスは唇を軽く噛んだ。理性的に物事を判断するフェリックスは、自分にも感情が備わっていることを思い出す。
「許されるわけないでしょ。って言うか、私は見たくないわよ。子どもの骨が折れたり、死にそうな程血を流しているところは。そういう事実があるってだけでも、私もうダメ」
「そうですね……」
「ねぇ、私って意地悪かしら? 親の都合で子どもを振り回す、嫌な女? でも、分かるでしょ。私の気持ち」
 両手で顔を擦るヘディと、厳めしい顔で腕組みをするフェリックス。クリスティーネは罪悪感を募らせる一方だ。
 やがてフェリックスがおもむろに立ち上がると、皺だらけの顔を妻の耳元に近付けて囁いた。
「今から私は、クリスティーネに命令します。善人であるクリスティーネは従う他ありませんし、あなたに介入の余地はありません。故にあなたは潔白で、私が罪を背負うのです」
「そんな罪悪感を感じる言い方されたら、黙って従うしかないじゃない……」
 顔を擦る両手を止めてヘディが言った。フェリックスは娘の方を向き、できるだけ柔和な笑みを保つようにした。
「貴方に『暗殺者』と成るように命じます。貴方に拒否権はありません。良いですね?」
「あっ、ありがとうございます……」
 座ったまま小さく頭を下げるクリスティーネ。
「よろしい。これより貴方は、由緒正しきビルンバウム家における当代の暗殺者。故に我らが『家宝』は、貴方に譲渡されて然るべきです。元々はその為に、私たちに告白なされたのですものね。すぐにお持ちしますから、少々お待ちを」
「はいっ……!」
 フェリックスはゆっくりと立ち上がると、部屋の扉を開けて去って行った。『家宝』のことは、クリスティーネもよく知っている。小さい頃から、それを扱うための厳しい訓練を積み重ねてきた。両親に隠し事をしてはいけないと思ったから、BASの件を打ち明けたまでだが、あわよくば『家宝』を借用したいと思っていたのも事実だ。

「……私ったら、ずるかったわね。『常識』だなんて」
 顔を覆っていた両手を退かしたヘディは、僅かに口を開いているクリスティーネと目を合わせようとしない。
「いえ、お母さんの思いやりを踏み躙った私が悪いのです。ごめんなさい」
 クリスティーネは消え入るような声で謝る。
「あなたは悪くないわよ。お母さんが悪いの。あなたを心配するフリをした私が。お父さんみたいに頭が良くなくてごめんね」
「……ごめんなさい」
 感情のままに否定してくれた方が、幾分か気持ちが楽だったかもしれない。母親の肩の荷を降ろしてあげるつもりだったのに、却って要らぬ不安の種を蒔いてしまったようだ。
 別の働き方を模索するべきかも知れないが、今更後には引けない。今ここで犯した罪も含め、大衆の攻撃欲求を満たす贄と成って贖罪しようと、クリスティーネは意地を張っていた。

 

 ここは鉄道ファンの聖地、ドール・トリンド駅の構内。今回の出張ライブの開催地だ。
 青空を仰げるアーチ状の巨大なガラス屋根の下には、煉瓦造りの建物が立ち並んでいる。点在する蒸気機関車のジオラマ、魚介料理やスープをメインとして販売する売店の数々、模型を販売するお土産売り場や、鉄道についての歴史が学べる資料館。
 複々線として敷かれた四条の線路には、本物の蒸気機関車が並んでいる。武骨なようで洗練された真っ黒な全身から、雄々しい汽笛と共に黒煙を噴き上げる、四体の巨大な生き物だ。
 既にBASのスタッフによって、上下線に挟まれた細長いホームを囲うように、見えない壁が展開されている。構内のあらゆる場所に設置された、特殊な装置によるものだ。
 この中にいる者は、どれだけ傷ついても死ぬことがないし、負った怪我も瞬く間に治療される。四肢切断やら首の切断などといった、所謂放送禁止レベルのことは起こり得ない。この中に居る限りは不死身同然かのように思われるが、長時間見えない壁の内部に居ると、逆に生命の危機となる。医療などに応用されないのは、そのためだ。

 見えない壁の内部、細長いホームの中央付近で、唐突に黒煙が生じた。かと思えば一瞬の内に消失し、代わりに一人のバトル・アーティストが姿を現す。ドール・トリンド駅と一時的にリンクさせた、BASドーム内の控え室から、直接瞬間移動してきたのだ。
 駅の要所、主に見えない壁の外側や天井に設置されたスピーカーから、勢いのある実況の声が聞こえてきた。
「さぁ! まず入場したのは――ラッシング=スティーム、カリナ=ベタンコウルトッ!」
 カリナ=ベタンコウルト。その恰好は結構がさつで、上半身にはカーキ色のスポーツブラと、同じくカーキー色の肩パッドしか着けていない。鉄道線路のような形状をしたベルトで締められているのは、カーキ色の作業ズボンで、煤がこびり付いたのか所々が黒ずんでいる。これを着ることさえ面倒臭くなる時があるのか、黒スポーツブラ青ジーンズといった姿もよく見られる。
 藍色の髪型はポニーテール、顔つきはぶっきらぼうな性格が見て取れるワルい目つき。肌は日焼けしていて、腹筋が割れている。首や腕がもふもふの毛で覆われているのは、熊から進化を重ねてきた名残であり、これまた毛の所々が黒ずんでいる。
 肩パッドに担いだ、軽くて長い諸刃の機械大剣の名は『ボイト』。握りにあたる部分は、オートバイのアクセルグリップのようになっており、これを回すと刀身が高速振動を開始する。すると、刀身は赤くなって高熱を帯び、溶断された者は血液が蒸発してしまうのだ。サウナのような蒸気の放出することで、放熱しながら攻撃することも可能。
「待ちくたびれたぜ!」
「やったれー、カリナ!」
「おう、早くぶちかましてやれーや!」
 白い煙を昇らせる煙草を咥えているカリナに、ありったけの声援が送られる。ホーム全体を見下ろせる上層の回廊や階段の他、蒸気機関車の中やその上でさえも、観客たちで埋め尽くされているのだ。カリナに声援を送る観客の多くは、彼女と同じようにがさつな恰好をしていている者が多い。この駅の近隣に住む、カリナの知り合い達なのだろうか。

(ちょっとしたお祭り騒ぎですね……)
 後ろにいる観客が押し寄せてくるせいで、クリスティーネは回廊のフェンスに身体を押しつけていた。清貧一直線なクリスティーネは、こんな時でもいつもと同じ、スリットの入った十字架だらけの水色ローブだ。
 先日、直接教会堂まで迎えに来てくれたスタッフに同行して、ドーム内でオーディションを受けたところ、クリスティーネは無事に合格した。聖職者なのに武術の達人で、慈悲深いというチャーミングポイントがあって、タイガーマスクのような動機で戦うというキャラクター造形は、アーティストとして逸材であったに違いない。
 クリスティーネのデビュー戦は数日後のことだが、その前に一度、観客としてライブの雰囲気を確かめたかった。今日の午後はたまたま暇だったし、BASのことをよく知る機会だ。何度でも使えるテレポート・チケットで教会堂からBASドームに赴き、そこでライブ観戦用のチケットを買って、今度はドームからドール・トリンド駅へと装置で瞬間移動した。ここから遠く離れた場所に住む観客は、クリスティーネと同じように一度ドームを経由して来たし、近所の住民は入場料を払って直接入場している。
(それにしても、こんなに多くの方々がいらっしゃるんですね。とても息苦しいです……)
 ノイシュウィーン村のお祭りの十倍は優に超える大人数に、早くもクリスティーネは不安を感じていた。こんなに大勢の視線を一斉に浴びてしまったら、失敗して恥をかきたくないという気持ちばかりが先立ち、固まって動けなくなりそうだ。

 向こう側の回廊にいる観客たちが、目前に迫って来るような錯覚に陥っていたクリスティーネは、再び巻き起こった大歓声にハッとなってステージを見下ろした。陽光を鏡で反射したかのような光が、カリナからやや離れた位置に現れたのを見るに、今からもう一人のアーティストが入場するところらしい。
「続きましてはァー! ステージのナンパ師、マルツィオ=バッサーノッ!」
 延々と喋り続けている実況が、何を言っているのかクリスティーネには理解不能だったが、この時だけはしっかり聞き取れた。
 マルツィオ=バッサーノ。裸体の上にデニムシャツを着て、白黒のサーフパンツを履き、首には攻撃的なネックレス。サーフィンやナンパをしに来たのかと突っ込みたくなる。実際マルツィオの趣味はサーフィンやナンパなのだが。
 肌は浅黒く、身体はがっしりとしていて、顔つきはくどいが憎めない。髪型は金のウェーブ。水色のヒレが背骨に沿うように生えているが、先祖は魚だったのだろうか。
 特殊な鏡を用いた円形の大盾が、クリスティーネの注意を引いた。マルツィオの武装の一つ、『シーケーワン』だ。表面に無数の棘が付いていて、ガラスの屋根越しに射す陽光を照り返している。防御に有用なのは言うまでもなく、盾自体で殴っても痛そうだし、場所によっては目晦ましにも使えそうだ。
 もう片方の手に握られているのは、スタンロッドが取り付けられた深海色の拳銃だ。その名は、『サムライライト』。どちらかというと、銃弾は遠距離での牽制用で、クリーンヒットで敵を痺れさせるスタンロッドが本命。盾に隠れながら慎重に敵との間合いを詰め、ここぞという時に敵を麻痺させて勝利を掻っ攫う戦い方は、下心を紳士の仮面で隠したナンパ師のようだ。
「マルツィオくんのカッコいいとこ見てみた~い!」
「そーれ! マルツィオ! マルツィオ! マルツィオ!」
「ウェーイ!」
 手拍子と共にマルツィオを囃し立てる観客たち。完全に合コンのノリだ。やたらテンションの高いこの若者集団こそがマルツィオのファン。主にマルツィオがナンパした女性陣と、それを目当てに群がる男性陣で構成されている。グループ内での修羅場が引っ切り無しに勃発するのは、想像に難くない。

「ほぉー。こりゃ立派な機関車だな」
 ステージを挟む蒸気機関車の片方を眺めながら、マルツィオが話題を振る。人によってはうるさく感じるような声質だ。カリナが食い付けばしめたものだし、そうじゃなければ独り言で済まされる。
 マイクで拾われたように拡声されたので、クリスティーネは少し戸惑った。どうも見えない壁の内部で喋ると、その声は拡声器が使われたかのように遠くまで届くらしい。
 カリナは咥えていた煙草を、駅のホームに吐き捨てる。
「あン? 興味あンのか?」
 作業靴で踏みつけて煙草の火を消しつつ、強気そうな声でマルツィオに返す。潰れた煙草は、スタッフの操作によって消し去られた。瞬間移動で直接ゴミ箱行きになったのだろう。
「そりゃーな! 小さい頃からの憧れだったんだ! よくSLのプラレールで遊んでたんだよなー!」
 運よくカリナが食い付いて来たので、母性本能をくすぐるかのようにマルツィオが無邪気に言う。実際にプラレールで遊んでいたかどうかは不明。
「マジか! 見てくれがチャラい割には、意外といい趣味してンじゃねェか!」
 二カッと笑うカリナは、とても嬉しそうだった。
「カリナちゃんも、こーゆーのが好きなのか?」
「おうよ! オレの爺ちゃん、ベラボウに腕が立つ技術者でさ、コイツらも爺ちゃんが作った機関車なんだゼ! ちなみに、この武器も爺ちゃんが作ってくれたヤツだ!」
 カリナの趣味が鉄道なのも、江戸っ子のような話し方をするのも、全部爺ちゃんからの影響だ。「女らしくおしとやかになれ」とばかり言ってくるオヤジやオフクロと違い、爺ちゃんはカリナのありのままを可愛がってくれた。チマチマとした仕事や、女らしく生きるのが嫌いだからと言う理由で、バトル・アーティストになりたいとカリナが言った時も、爺ちゃんだけは全力でカリナを応援してくれた。
「うおー! マジで!? じゃあ、カリナちゃんも機関車とかに詳しいのか!?」
 金脈を掘り当てたかのように、小さく跳び上がりながらマルツィオが訊いた。
「ったりめーだ! 特にこのドール・トリンド駅は、オレの庭みてェなもんだ! 従業員や常連客にも見知りが多いしな! だろォ?」
「おうよ!」
 カリナが回廊を見上げると同時に、ワイルドな男たちが大声で答えた。彼らがここの従業員や常連客らしい。
「うっひょー! メンツがスゲーな! SLが好きなダチっていねーから、羨ましーぜ!」
 ニヤニヤが止まらないマルツィオは、気安くカリナに近づいてゆく。
「カリナちゃん、このライブが終わった後ヒマ? 良かったら、オレに機関車のこと色々教えてくれねーかな? そこにある売店で、魚介スープとか奢るからさ。あ、オレ魚人間だけど共食いじゃねーぜ。ダハハハ!」
 カリナを口説きに掛かるマルツィオに呼応して、「オーッ!?」とか「キャーッ!」とか発生する若者集団。「ヒューッ!」と口笛を吹いて囃し立てる若者も。
「本気で鉄道のこと知りてェなら、あそこにある資料館に行った方がはやいゼ」
 カリナはそう言いながら、大剣の切っ先で煉瓦造りの建物の一つを指し示した。デートに誘われていることに、本気で気が付いていないのかもしれない。
「一人で行くよりも、誰かと一緒に行った方が捗るじゃん! 見た感じ、カリナちゃん面倒見が良さそうだしさー! オレ勉強苦手なんだよー!」
「ンだよ、馴れ馴れしい」
 こっちに近付いてくるマルツィオのニヤニヤ顔を、手で押し返しながらカリナが答える。
「えー、いーじゃん! カリナちゃんカワイイから、メチャクチャサービスしちゃうぜー!」
 カリナに押し飛ばされたマルツィオは、めげずに言い連ねた。
「テメエ今なんつった!?」
 片足で地面を勢いよく踏んだカリナが怒号を発しても、マルツィオはニヤニヤと笑っている。ある意味で大物だ。
「カリナちゃん、とてもカワイイなーって言ったんだぜ!」
「てやんでェ! バカにしてンのか!? 気持ち悪ィんだよ! 女らしい、可愛らしいって! とっとと配置に着け! ぶった切ってやるゼ!」
 言うだけ言うと、カリナは踵を返してマルツィオと距離を取った。観客が盛り上がれば何をしても良いので、このタイミングなら不意打ちを仕掛けても良かっただろうが、そういう曲がったことをカリナは嫌う。
「あーぁ。照れなくてもいいのにさー……」
 ナンパが失敗に終わったマルツィオは肩を落とし、背中を丸めてトボトボと後戻りした。

「しょげんなって、マルツィオ! 元気だせよ!」
「アタシが付き合ってあげるよー!」
「ウェーイ!」
 俺って優しいんだぜアピールをしたり、どうにかしてマルツィオの気を惹こうとしたり、とりあえずよく分からない叫びをあげたりと、なかなか混沌とした状態になっているマルツィオのファンたち。
「つまんねェ試合したら承知しねェぞ!」
「一捻りにしちまいな!」
「さすがはあいつの孫だぜ!」
 一見ブーイングを飛ばしているように思えるが、その実しっかりと応援している、カリナのように鯔背な観客たち。
(なんだか、喧嘩を見て嗤っているみたいですね……)
 根っからの優等生であるクリスティーネは、駅の構内で騒いでいる観客たちに、僅かながら嫌悪感を示していた。

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