温かみのある室内には、木目が綺麗に通っている収納棚や、小奇麗にされた蛇口やパイプがある。大事に使い続けてきた丸テーブルに置かれた、素朴な洋食器の上には、薄紫色をしたブドウ餅――ノイシュウィーン村と東流津雲村の新たな特産品が、大量に載せられている。
現在水色ローブを着る犬人間のクリスティーネは、木造りの椅子に座るビビの隣で、ブドウ餅を食べながら、微笑ましい自慢話を聞いてあげているところだ。
「――それでね、キツネちゃんにブドウをあげたら、毎日わたしの家に遊びに来るようになったの。わたしが頭をなでなでするとね、ワンちゃんみたいに伏せをするんだよ」
白いワンピースを着た兎人間のビビは、ウサギの人形を膝の上に乗せたまま言う。姉妹のように見えなくもない。
「わあ、良かったじゃないですか! ビビさん、お友達が増えましたねっ」
糸のように細い目をしたクリスティーネが、うんうんと頷きながら言った。
「キツネちゃんも一人ぼっちだから、わたしが遊んであげるの。わたしも一人ぼっちだから」
「優しいんですね、ビビさんは。きっとキツネさんも喜んでいますよ」
「うん。わたし、クリスティーネお姉ちゃんのように、一人ぼっちの人にも優しくなりたいの。将来は、お姉ちゃんのように、いつも笑顔な女の子になるの」
「うふふ、ありがとうございます。私、ビビさんのお手本になれるように、今まで以上に頑張りますね」
上目遣いのままコクリと頷いたビビは、ブトウ餅に手を伸ばした。小さな口で懸命に咀嚼する様子が、ニンジンをかじるウサギそのもので可愛らしい。
(……人に暴力を振るうことでお金を稼いでいる私は、ビビさんのお手本になる資格があるのでしょうか……?)
ふいにクリスティーネに、得体の知れない不安と恐怖が覆い被さる。殺戮ショーも同然のBASによって、クリスティーネが大金を得ている事実を、ビビは知っているのだろうか。まだ子どもだから、言葉で内容を説明してもピンとこないだろうが、万が一あの血生臭い現場を観せたりしたら……。
(……今の内に、包み隠さず告白した方が、罪が軽くなるかもしれません。しかし、真実を知ってしまったら、ビビさんはきっとショックを……)
餅を持たない方の手で、ウサギ人形の頭を撫でているビビに、哀しみを帯びた目を向けるクリスティーネ。ビビもいつか母親になって、人の温かさや暴力の冷たさを、子どもに教える時がくるだろう。クリスティーネの真似をするように。
そんなビビが、殺し合い紛いのことをするクリスティーネの本性を知られた時のことを考えると、身の毛がよだつ。「暴力を振るってはいけませんよ」と説くクリスティーネを、「ウソつき!」と罵倒するのだろうか。「どうして……」と泣き崩れてしまうのだろうか。いずれにしても、ビビが深く傷つき、ビビから嫌われてしまうことは確かだ。そうなったら、聖職者として、人間として失格だ。
「これ、美味しいね」
ブドウ餅を食べ終えたビビが言ったことで、クリスティーネは平常心を取り戻した。
「あっ……そ、そうですね! 健司さん、本当に何でもできて羨ましいですね!」
糸のように優しい目を作ったクリスティーネは、ブドウ餅に手を伸ばそうとした。
「ねぇ、クリスティーネお姉ちゃん。絵本読みたい」
人形を抱き締めながら、上目遣いでビビが言う。
「あっ、絵本ですね!今日はどの絵本を読みます?」
伸ばした手をさっと引っ込めて、クリスティーネが返答する。
「あれ読みたい。茶色のウサちゃんが、大きくてカラフルな卵を集める話」
「分かりましたっ!じゃあ、部屋から取ってきますから、少し待っててくださいね」
クリスティーネは立ち上がり、自室へと向かう。座ったまま、背中をじっと見詰めてくるビビに、何かしらの恐怖を抱きながら。罪を密告せんと監視してくる、神の御使いのように思われたのだ。
質素だが小綺麗で居心地の良いクリスティーネの私室。ドアを二回ノックしてから、クリスティーネが中に入った。パソコンで遊ぶと言った、クリストファーとピーターの邪魔をしてはいけないからと、そそくさと本棚の前に立つつもりだった。
「二人とも、どうしました?」
机の上に置いたノートパソコンを黙って見つめる、若草ローブの犬人間クリストファーと、緑半袖の狐人間ピーターを不審に思って、クリスティーネが声を掛けた。歯を食い縛り、顔を引き攣らせて一点を眺めている二人は、どれだけお風呂に潜っていられるかを競い合う幼稚園児のようだ。
「大丈夫ですか……?」
そう言いながら座っている二人の後ろに立ったクリスティーネは、画面に映っている動画を観て思わず吐きそうになった。どこか寂れた街の路地裏で、ロープに吊るされた子猫が、一人の男に嬲られ放題になっている……!
既に何度も殴られ、エアガンで撃たれ、ナイフで切り刻まれた猫は、内臓や骨の一部が露出している。それを見て面白おかしく笑う心ない男は、ポリタンクに入っていた液体を猫にぶち撒けると、残酷にもライターの火を猫の足にあてがう!
「な、何を観ているのですかっ!?」
クリスティーネが上擦った叫び声をあげると、ようやくクリストファーもピーターも我に返った。
「クリスティーネお姉ちゃん!? いつの間に!?」
慌てて振り返ったピーターは、その勢いで椅子ごと倒れてしまった。
「姉ちゃん!? 違うんだこれは! 普通に観てたら、勝手にこうなって――」
「消しなさい、早く!」
こういうのが子どもの教育によろしくないことは、インターネット超初心者のクリスティーネにも分かっている。二人の間に割って入ったクリスティーネは、ノートパソコンのマウスを握った。
素直に画面の右上にある『×』をクリックすればいいのだが、超初心者のクリスティーネは動画そのものを画面から消そうとしている。だが、動画を消す方法を知らないため、マウスのカーソルを画面上でぐるぐる回すばかり。
私室に響くのは、死にかけの猫の痛ましい絶叫と、それを見て笑う真性クズの笑い声。生きたまま火達磨と化した猫の姿など見たくもないが、クリストファーたちを助けるために直視せざるを得ない。すっかり気が動転しているクリスティーネを、「はやく消してよ!」とクリストファーが更に急かす。
猫の絶叫が絶えると同時に、クズ男の笑い声が一層大きくなった。画面には、黒焦げになって無惨に死んだ猫が映り、そこで動画が暗転して終了する。
(これの……何が面白いというのですかっ……!)
惨たらしい光景を観て真っ青になったクリスティーネは、ふつふつとクズ男への怒りが湧き上がり、今度は顔を真っ赤にさせた。胸糞悪くなる男の笑い声の代わりに、クリストファーとピーターの乱れた呼吸が大きくなると、見開いたまま目のまま振り返って言う。
「大丈夫ですか?」
「うん、何とか……」
クリストファーは顔を蒼白くさせているが、気はしっかり保っているようだ。一方ピーターは、両手で口を塞いだまま猛スピードで部屋から出ていった。多分トイレに駆け込むつもりなのだろう。
「普通に遊んでいたら、こうなったのですか?」
クリスティーネは机の上に両手を付いたまま、膝の上に拳を置いて座るクリストファーに問う。
「うん……」
自信のない返事だったが、純粋無垢なクリスティーネはそれを嘘偽りない、恐怖の証だと捉えた。
「本当ですよね?」
しかし、万が一クリストファーが嘘を付いていたら、正しく教え導くのが姉の役目だ。ネットに対する無知さを利用されているかもしれないとも考えて、何時にも増してクリスティーネは慎重だ。暴力の恐ろしさについて、ここ最近敏感になっている。
「本当だってば!」
強い口調は、図星を突かれたことの逆ギレなのか、姉の不信に対する真っ当な抗議なのか。クリスティーネには分からなかった。
「そうですか。……私の真似じゃないですよね?」
クリストファーは本来、残酷行為を好まない善良な人間であるはずだ。そんな願望があったからこそ、こんな言葉が出てきたのかもしれない。
「それは……」
姉ちゃんはどんなにやられても、果敢に敵に立ち向かうというのに、自分は暴力に塗れた家族から目を背けて、優勢の時だけ鼻高々に弟であることを誇る。ピーターから指摘されたように、臆病者という自覚はあったのかもしれない。クリストファーが言葉を濁したのは、残虐行為に憧れる本性を悟られたくないと言うよりは、姉の真似をしなければならないほど臆病者であることが、知られたくないからかもしれない。
「……分かりました」
弟が血塗れた道への一歩を踏み出した事実を突き付けられることを恐れ、むしろクリスティーネが追及することを止めた。本来背負うはずだった労働を、そして暴力を代わりに背負ってあげたはずなのに、自ら求めるようになったクリストファーの現実を。
「ブドウ餅がありますよ。ヒビさんと仲良く食べてくださいね」
クリストファーは無言で小さく頷く。いつもはぶっきらぼうにドアを開け閉めするクリストファーも、この時ばかりは行儀よくドアを閉め、キッチンへと歩いていくのであった。
(……何者なんですか、このお方は……!?)
人間のぬくもりを多分に浴びて成長したクリスティーネは、人一倍他のものの痛みに共感してしまう。人を傷付けて悦ぶ人種など、勧善懲悪の物語に出てくる悪役ばかりで、現実には存在しないと無意識下で思っていたのかもしれない。ある種のカルチャーショックは哀しみを通り越し、煮えたぎるような怒りとなっていた。
停止した猫の死体をなるべく見ないようにしながら、カッと見開いた目のままで、画面に映る文章をくまなく読み上げるクリスティーネ。道端で老衰死した猫を埋葬したこともあるし、村の平和を脅かす強盗などを倒すために、真正面から暴力と向き合ったこともある。だから、クリストファーたちよりはこういうグロテスクなものに耐性があるが、できる限り目に入れたくないのが本心だ。
(見逃してはなりません……私が教え導かなければ……!)
マウスのホイールを回してページをスクロールし、猫を虐待していた男の名を割り出そうとするクリスティーネ。何かしらの手段でこの男と通信できるだろうと、インターネット初心者特有の確信に突き動かされている。レイラのどこかで、このような悲劇が発生していると知った以上、みすみすと看過するのは聖職者としてあるべきではない。
(サルバドル=ペレス……)
この動画に対するコメントの一つに、加虐者と思わしき者の名が書かれてあった。その名を検索エンジンのフォームに入力し、しばらくマウスを動かしていると、とあるニュースサイトが画面に表示された。
サルバドル=ペレス、動物虐待や人身傷害の常習犯。過去幾度となく、動物への虐待やストリートファイトの動画を撮影し、それをインターネット上にアップしていた。動物が死に至り、人間が重傷を負う映像を面白がり、称賛するようなコメントが少なくなかったため、サルバドルは病み付きになったという。
当然の如く警察に逮捕され、少年院に収監されたらしい。その後の動向は不明。オリジナルの動画は残らず削除されたらしいが、一部のユーザーが許可なく配布したのが今尚ネット上に存在しており、クリストファーたちはその一つを開いたのだろう。
(酷すぎます……そんな理由で!)
骨を折られたり、何針も縫う怪我を負った被害者や、焼かれたり殴られたり刺されたりした挙句殺された動物のことを想うと、クリスティーネは居ても立ってもいられなかった。今すぐにでもサルバドルの居場所を突き止めて、徹底的に命の尊さについて教えてやりたい。暴力を振るうと、当事者だけではなく多くの人が悲しむから。他人を傷つけたその瞬間、人が生まれながらに持っている己の神性が悲鳴をあげているということを。
教え説くための文句が次々と頭に思い浮かぶと、クリスティーネはむしろ自分が説教されているような気分になり、意気消沈してしまう。他ならぬクリスティーネ自身が、BASで人に暴力を振るっているのだ。
絶対に死なないから大丈夫とか、敵も合意した上でステージに立っているとか、そんな言い逃れはできない気がして、罪悪感ばかりが胸を圧迫する。暴力を振るって観客を集めている自分は、サルバドルと何ら変わりがない、罪深い人間なのではないかと。
(……私が、教え導くだなんて、おこがましいですね……)
クリスティーネが呆然と座っていると、クリストファーが大声で呼んできた。
「お姉ちゃん! ビビが待ってるよ! はやくキッチンに来て!」
「あっ、はい! すみません!」
我に返ったクリスティーネは、律儀にもパソコンの電源を落とすと、本棚から絵本を取ってそそくさとキッチンへ向かうのであった。
同日の夜中、パルトメリス私立教会堂のキッチンにて。
数時間前に雑巾で拭かれた、丸テーブルの上に置かれているのは、家族共用のノートパソコン。並んで椅子に座っているのは、金髪刈り上げ黒長衣装のフェリックスと、緩やかな赤ベストに白ブラウスなヘディの夫婦。クリスティーネは私室に籠って、ロジータはじめラ・ラウニのストリートチルドレンのために編み物を頑張っていることだろう。クリストファーは、今頃夢の中だろう。
「閲覧注意! 猫の虐待動画、かぁ……」
ノートパソコンに残された履歴を辿って、今日の昼下がりにクリストファーが観た動画をチェックしているヘディ。子どもの監視が行き過ぎているかもしれないが、それはクリストファーと同意の上のこと。パソコンを自由に使ってもいいことと引き換えに、危ないことをしてないかヘディが毎晩チェックするという約束なのだ。
ずる賢いことに、クリストファーは不自然さを感じさせない程度に、閲覧したページや検索フォームに入力した単語の履歴を消去している。宿題の答えを丸写しして全問正解すると怪しまれるから、適度にわざと間違った回答をして信用を得るかのように。だが今日は色々あって、履歴の削除をすっかり忘れていたようだ。
「心が痛みますね……」
容赦なく殴られ、残酷にもエアガンで撃ち抜かれ、恐ろしいことにナイフで切り刻まれるばかりである猫を観て、フェリックスが息を漏らす。
「ごめん、私無理……」
そう言いながらマウスを動かし、子猫が火達磨になる寸前でページを閉じたヘディは、口元を両手で押さえた。吐き気を催すとまではいかないが、全身が頭痛と腹痛の二重苦に苛まれる。
「……今後は朝の稽古を利用して、クリストファーの道義心を養うことに注力しましょう。その際、この動画を観たことは言わないでおきますね」
ヘディの方に身を乗り出したフェリックスが、厳かな声で言う。
「きっぱり朝の稽古を止めた方が、効果的だと思うけど」
両手で頬を擦りながら、ヘディはやや棘のある調子で答えた。
「それはいけません。中途半端ななまくら刃に鍛えてしまえば、それこそ道から外れた行いの為に武術を利用してしまいます。それに、クリスティーネに肖りたいのか、クリストファーも最近は真面目に稽古に励むようになりました。私の方から稽古を放棄してしまっては、弟子に対して酷です」
目を閉じ、ゆっくりと首を横に振るフェリックス。優しい言い方とは裏腹に、硬い表情共々その意志は固い。
「中途半端だろうがなんだろうが、渡されたものを使いたがるのが子どもってもんでしょ。今回は運よく見つけることが出来たけど、このままじゃ私たちの知らぬところで、クリスティーネに肖るように、さっきの虐待犯に肖るかもしれないわ」
少しばかりの恨みを籠めた声で反論されると、フェリックスは顔の皺を増やして黙り込んだ。ノートパソコンを閉じたヘディは、机の上に寝そべってわざとらしく呟く。
「BASのせいとしか言いようがないわね~。よくもまあ、暴力が芸術だなんて公然と言えるわ。品性が疑われる」
「……クリスティーネには言ってはなりませんよ。絶対に」
いつも以上に乾いた声でフェリックスが咎めると、ヘディは顔を伏せたままややぶっきらぼうに答えた。
「分かってるわよ。はっきり言えば、あの子余計に傷ついちゃうし」
クリスティーネがもう少し図太い人間だったら――そんな風に避難しているようにも思える、意地悪な言い方だった。
かつてはギャングの温床と謳われた都市、バルティーリャ。過去幾度となくギャング同士の抗争が繰り広げられ、路地裏から死体と血痕が消える日は無かったという。誰かが銃で撃ち殺されるか、ナイフで刺し殺される度に、蔓延する暴力はより深みに嵌まっていった。
戦死による深刻な構成員不足に陥ったギャング団らは、致し方なく銃やナイフを捨て、スポーツを用いて
今やバルティーリャは、総合スポーツ都市としてその名をレイラ中に轟かせている。スタジアム、そしてテニスやバスケなどのコートが数多く建設されたこの都市は、様々なスポーツ選手たちにとっての聖地なのだ。未だにギャング団らの”抗争”は根深いが、この街では揉め事が起きると何かしらのスポーツでケリをつけることが伝統となっている。だから、ストリートバスケや草野球で争っている人々が、都市のそこかしこで日夜見られるのだ。
青空に浮かぶ太陽が眩しい、正午やや過ぎの屋外コート。金網フェンスと、ゴテゴテしたペイントが描かれた分厚い壁で囲われるこのコートは、普段はストリートバスケットで使われており、今回の出張ライブのステージでもある。
生活感あふれるダウンタウンの住民たちは、赤い壁のアパートの窓を開き、熱気溢れる屋外コートを見下ろしている。この町の住人ではない観客たちは、数あるアパートの屋上に陣取ったり、ビルの非常階段に腰掛けたりしているようだ。
地上から観戦する若者たちは、金網フェンスに張り付いたり、分厚い壁の上に登って腰を降ろす。屋外コートの内部では、見えない壁がサイドラインとエンドラインに沿って展開されており、出場するアーティスト両名と親しい人間らが所狭しと立っている。首や肩に打楽器を引っ提げた観客も少なくない。
どこからともなく、ブレイクダンスで使われるような疾走感抜群の音楽が聴こえてくる。早くも屋外コート近辺が騒々しくなる中、クリスティーネに先んじて、今回の対戦相手が瞬間移動で現れた。
筋肉質で肌は黒く、口の周りに髭を生やしていて、両の前腕に白い鳩のタトゥーがある、真っ黒なサングラスを掛けた男。上半身に着ているのは、鷹のような目つきで、雄々しく翼を広げた鳩がデザインされた黒シャツだ。下半身は、黒いカーゴパンツと黒いバスケシューズ。手首には、黒基調赤ラインのスウェットリストバンド。
ベリーショートな黒髪の頭頂部が、赤みがかった茶色になっている彼は、ゴリラから進化してきた人間なのだろう。
「さあ、まず現れましたのは、現在我々が目にするこの屋外コートの主! ケンカもシマ争いもBASも、ダンス一つでケリをつけるB-Boy! 人呼んでストロング=ピジョンッ! ご紹介しましょう、デニス=ダヴェンポートッ!」
観客たちは一瞬雄叫びにも似た大歓声をあげた。口笛が高鳴り、ハイテンションな手拍子も聞こえてくる。握ったタオルを振り回す者や、両手でバンザイして飛び跳ねる者もいるようだ。
「滅茶苦茶重たそうなラジカセ担いでんな、あいつ」
打楽器を携えた観客グループとは、ステージを挟んで対局の位置に立つピーターが呟いた。
「一体何キログラムあるんだろう?」
隣に立つクリストファーも呟く。デニスが担いでいるラジカセは、DVDデッキを四つほど束ねたかのように巨大だ。
「ウォーミングアップがてら、一曲踊ってみるか。何かリクエストはあるか?」
ラジカセを軽々と担いでいるデニスは、周囲を見回しながら力強くも渋い声で訊いた。
「Can I Kick Itに決まってんだろ!」
「I need your love――のreal hardcore mixをお願い!」
「Spitting In Ya Eyeを頼む!」
「Spitting In Ya Eye、いいぜ! その音源なら持ってる!」
デニスは地面にラジカセを置くと、メーションでどこからともなく現したCDを入れる。少しの合間一帯が静まり返り、再生のボタンが押されたラジカセから流れる音楽を待ったが、一向に曲が掛からない。
「叩けば直るんじゃねぇの?」
ファンの誰かが言うと、デニスはニヤリと笑ってからラジカセの中央辺りをチョップした。が、力が入り過ぎてしまったためか、ラジカセはグシャンと音を立てて見事に壊れた。
「Oh……手加減したってのに」
ネジやら何やらが辺りに飛び散ったのを見て、デニスは頭を抱える。見えない壁の中だから、いずれラジカセも元通りになるだろうが、マヌケなことをやらかしたので恥ずかしい。
「Haha! ナイスジョークだ、デニス! 仕方ねぇな、俺たちのリズムに合わせろよ!」
呆れたように笑うファンたちは、息を合わせて打楽器を打ち鳴らし始めた。それを聴いて気を取り直したデニスは、勢いよく腕を振りながら指を鳴らし、スリーポイントラインの内部で即興のブレイクダンスを始めた。
突如前に倒れ込んだかと思うと、両膝を地面から浮かせて両手だけを支えにし、ハイハイするような動きで高速回転する。緩急付けたそのムーブが少し続いた後、恐ろしいことにその体勢から下半身を持ち上げ、倒立状態となるデニス。片手だけを軸にし、両足を傾けたまま一回転。回転し切ると同時に、軸になる手をスイッチしてまた一回転。
右手左手を交互に地面に付きながら、倒立状態で力強い大旋風を巻き起こすデニスは、これがメインイベントだと思わせるほどの興奮を、屋外コート周囲に齎していた。
「ゴリラ人間であるのを差し引いても、あいつの筋肉やばくねぇか……!?」
手加減したチョップでラジカセを粉砕した事実と重ね合わせて、ピーターは今回の出張ライブに空恐ろしさを覚えていた。
「片手で逆立ちするだけでも、相当なテクニックが要るのに――待って、あそこからジャンプしたよっ!? 片手をバネにするようにして!」
隣に立つピーターの肩を触って叫ぶクリストファー。ちょっと地面から離れる程度ではない、文字通りの大ジャンプの最中に半回転して、二本足で着地したデニスが巻き起こす凄まじい熱狂。機械やメーションに頼らない、純粋な身体能力によるパフォーマンスだ。
「やべえな、あいつ! 重力を操るメーション使っているようにしか思えねえ! 実はこっそり使っているのかもしれねえけど、だとしてもそれはそれですげえ!」
高速ビートを刻む観客たちに合わせて、ピーターも高速の拍手でデニスを称えた。
「この部分だけでいいから、お母ちゃんも観に来て欲しかったな。全然殺戮ショーじゃないのに」
ヘディはここ数日、BASの観戦に行くのを止めるよう、遠回しに息子に言い聞かせていた。猫の虐待動画を観たことには触れず、「あれが芸術なんて思わないで」とか「真似するようになったら困る」などとチクチクと突っついてくるので、少なからずクリストファーは反発していた。
「殺戮ショー? ヘディおばちゃん、そんなこと言うのか? フェリックスさんなら聖職者だし、何となく分かるけど」
「なんかね、BASのことになると急にうるさくなるんだよ」
唇を尖らせて言ったクリストファーは、本気でヘディの心情が分からなかった。
クリスティーネの身が傷つき、それを見たクリストファーの心が傷つくのを、黙って見過ごすことが親としてできない。それによって、子どもたちが道を踏み外す恐れがあるなら、尚更だ。でも、子どもたちの意志はなるべく尊重したい。主人であるフェリックスが許したことを、はっきりと否定して家族に不和を広げたくないのもある。
この葛藤によって、ヘディがはっきりとBASが嫌いだと言えないことを悟るには、クリストファーは幼すぎるのだ。
会場がデニスコールを轟かせている中、クリスティーネが瞬間移動で入場し、デニスがガッツポーズしている側ではない、スリーポイントラインの内部に降り立つ。水色ローブと、両腰の鞘に納めた二本の可変短剣。いつもの姿でいつものように、観客に手を振って挨拶しようと思ったが、クリスティーネそっちのけで盛り上がる人々を観て少なからず困惑している。
(まるで既にライブが終わってしまったかのよう……。間違ったステージに転送されたとか、そういうのじゃありませんよね?)
僅かに口を開きながら、辺りをキョロキョロ見回すクリスティーネ。振り返ると、最前列に立っているクリストファーとピーターが、見えない壁越しに手を振っている。何か声援を送っているようだが、あまりにも騒然としていて二人の声が全く聞こえない。
「来たな。あんたの噂は聞いている。ネットの情報がファクトなら、随分と”優しい”戦い方をするそうだな」
観客が打ち鳴らす打楽器のリズムに合わせて、小刻みに身体を揺らしていたデニスが、突如止まってこちらを向いたので、クリスティーネはぎょっとした。サングラスを掛けたマッチョというその姿が、本人の意志とは無関係に、強者の風格を漂わせているからだ。
余談だが、BASのアーティストの能力や武器に関しては、ネット上においてはかなり錯綜しており、どれが真実なのか分からない。だから大半のアーティストは、次のライブで戦うアーティストのことを詳しく調査しない。かなりの有名どころになると、話はまた違ってくるが。
戦いの素人がライブを一目観て、その感想を電子の海に垂れ流すのだから、誤った情報ばかりが溢れても仕方がないというのが定説だ。しかし、各アーティストのファンが機密保持のために偽の情報を垂れ流しているからとも、初見さんにより強いインパクトを与えるため、BASスタッフが情報操作しているからとも言われている。
「は、はい。ディバイン=メルシィのことでしょうか?」
おずおずと答えたクリスティーネだが、両手を腰の近くにおいて油断なく構えている。デニスは凛々しく閉じていた唇を微かに緩めた。
「Mm……正直者なんだな、あんた。ブラフをかましているとも思えない。ダチが掴んだ情報は、アタリだったという訳だ」
「そうなんですか? なんだか……ありがとうございますっ」
自分が知らぬところで、BASの観客たちに何と言われているのか。クリスティーネは、陰口を叩かれていたらどうしようかと恐怖する一方、「優しい戦い方」という噂が広く流布していることに、心の底からほっとしていた。自分は嫌われ者ではないという、確かな証明だ。
「あんたのようなアーティストとバトルできる日を待っていた。デビューした時に言ったリクエストを憶えてくれた、BASのスタッフたちには感謝だな。――御託はこの辺にして、早速始めようぜ」
そう言ったデニスは両手を握り締め、開いた両足の片側に僅かに重心を寄せた。
「は、はい、分かりました。――よろしくお願いしますっ!」
訳が分からないままで話が終わってしまったが、クリスティーネもカッと目を見開いて、腰の鞘から二本の双剣を引き抜く。打楽器を携えた観客たちは揃ってビートを刻み始め、ステージに立つ二人と他の観客を煽動した。
「あんだけ力がやべえのに、素人のおれでもダンスのテクニックがやべえって分かる! いくらクリスティーネお姉ちゃんでも、取っ組み合いはやべえんじゃねえか!?」
やべえを連発しているピーターは、デニスのことをかつてない強敵だと認識し、クリスティーネの身を案じていた。
「でも、武術の構えみたいなものとってないよね。ダンスだけだと動きに無駄があり過ぎるから、そこまで格闘戦強くないんじゃないかな? 間合いが離れているから、構える必要ないだけかもしれないけど」
打ち鳴らされるドラムに支えられた、ライブ開始のゴングが轟くまでの僅かな間、クリストファーはデニスを不思議そうに見詰めているのであった。黒シャツにデザインされた、鷹のような目つきで、雄々しく翼を広げた白い鳩が、どうにも気になっていた。