聖華行進

 都会の喧騒からは遠く隔てられた、自由都市メネストの高級住宅街にて。

 機能美を感じる質の良いカーペットが敷かれ、カーテンは洗練されたデザインのピンクベージュ。最先端の大型テレビに向かい合うように、冗談抜きで人をダメにするほど座り心地の良い、でっかくて丸っこいソファーがある。
 それなりに広い女の子の部屋の隅には、流行のマンガ本や、格闘技の参考書が沢山収納された、シンプルかつガーリーな本棚。愛らしい人形や小物に囲まれた作業机の上には、最新鋭のノートパソコンや、携帯ゲーム機が置かれている。

 シーツが薄ピンク色の、ふかふかとした巨大なベッドの上に、クローディア=クックは横たわっていた。ピンクが基調で、明るい色のラインでチェックを構成した、上下ワンセットの厚手のパジャマを着ている。
(なんか風邪っぽくて調子悪いし、大人しく寝とこーっと)
 パワースナッチで瞬発力を鍛え、ロープスピッキングでスタミナを強化。炎を操るメーションで、腕や脚に華焔かえんを纏った状態で、高品質な抗メーション物質AMMが含まれたサンドバッグにひたすら打ち込み。
 そのまま、投げ技や関節技の練習も兼ねて、いつものようにスパーリングをしようとした頃合に、異変を感じた。流れる汗の感触がいつもより不快で、身体に帯びた熱は昂揚感よりも気怠さをもたらす。仲間からは、パンチやキックのキレの鈍さや、顔色の悪さを、嫌というほど指摘された。

(最低限のことはやったし、ちょっとくらいトレーニングサボっても文句ないでしょ。試合ライブ本番に風邪でぶっ倒れるよりはさ)
 クローディアは、臨時休暇が貰えたことをハッピーに思いながら、仲間から言われるがままに帰宅したのだ。とはいえ、ズル休みした小学生のように遊び惚けるには、体調がイマイチ優れないため、素直に昼寝することにした。
 ちょっと寝ればすぐに元気になるだろうし、後は家でゆっくり、録り溜めしたテレビ番組やらアニメやらを消化していこう。そう楽観的に考えながら。

 
「クローディア、ちょっと頼み事があるんだけど」
 扉越しに聞こえてきたのは、落ち着いた女性の声。
「な~に? 母さん」
 数十分ほど意識を手放していたクローディアは、無理矢理襟を引っ張り上げられたように、瞼を擦りながら上半身を起こした。
「今晩あなたたちが食べる分の肉がないのよ。私は家事で忙しいし、あなた頼まれて頂戴」
 部屋に入る否やそう告げたのは、エリシャ=クック。紅色の竜鱗に覆われた尻尾の他に、娘にはない威厳漂う双角を持った、生粋の竜人間。
 無地の黒ズボンと白シャツ、そしてベージュ色のエプロンという、普遍的かつ主婦的な服装。だが、ブランド物のスキンケア化粧品を使い、栄養価が高い高級食材をいつも口にしていることが、その美貌からは見て取れる。

「え~っ。仕方ないな……」
 たまには親孝行をするのもいいかも知れないと、自分に言い聞かせながらベッドから降りるクローディア。寝起きで感覚が麻痺しているせいかもしれないが、ちょっとだけ体調が良くなったし、サボりだと思われないために頑張ってみよう。
「それと、これを着ていくこと」
 エリシャはメーションで何もない空間から、ハンガーに掛けられた衣服を両手に現し、クローディアに示した。緑色をした薄手の上着に、マフラーとマントが一体化したかのような灰色の外套。橙色のロングスカートの腰周りには、中東産の絨毯のような豪華な布が巻かれている。間髪入れず、エリシャの足元に現れたのは、革のブーツだ。
「うわっ、でた」
 ただでさえ、渋々といった感じの面持ちだったクローディアは、あからさまに目を見開いて、嫌そうな顔をした。
「これ着てくの嫌なんだけど。今日外超寒いし、その服意味もなく通気性良いし」
 竜人間の威厳を示すためという理由で、クローディアは母親から、幾度となくこの服を着せられている。別にこれを着ること自体は、新しい自分に出会えたかのように気分転換になるし、自ら進んでライブ用のコスチュームにしたこともある。が、身体を冷やして風邪を悪化させたくないため、今日はどうも着用する気になれない。

「自慢の華焔で何とかなさい。その身に纏って出歩けば、良いパフォーマンスになるでしょう」
「お腹減るし、具合悪いし……」
「いいから、行きなさい。誇り高き竜人間としての使命です」
「そんなに可愛い娘の病気を悪化させたい?」
 エリシャは片手で民族衣装を保持したまま、目を閉じ、しかし毅然としたままこう答える。
「仕方がないでしょう。あなたがBASドームから早退したのを見ていた、目付け役の竜人間に、玄関で色々と言われたばっかりなんだから」
「うわっ、またストーカーされてた!? あいつらが来そうなオフィシャルエリアとかは、避けて通ったんだけど」
 お尻の方からベッドに落ちていったクローディア。立場上、目付け役の竜人間に言われたら、母親が反論できないことは、クローディアも小さい頃からよく知っている。
 古来より、優れた能力を誇示するように、下界と隔絶された地域で閉鎖社会を築いてきた、プライドの高い竜人間たち。ここ数十年になって、少子高齢化社会が深刻になってきたらしく、下界の人間と交流をするという屈辱を耐え忍んで、仕方なく交流を図っているのだ。
 下界の人間と結婚した同胞は、竜人間としての威厳を損なわないよう、定期的に視察、指導を受ける義務がある。エリシャがクローディアに民族衣装を着せたがるのは、目付け役に対する予防線だ。目付け役の機嫌を損ねれば、彼らはエリシャの結婚相手であるジャスティンにすら、文句を言ってくる。愛する夫がたたでさえ多忙なのに、下らないいざこざに巻き込んでしまったら、妻として立つ瀬がない。
 一応言っておくと、自由都市メネストの人々を見下すような竜人間は、エリシャが生まれた地域に住む一族に限定した話であり、レイラ中の竜人間全体が高慢ちきな性格というわけではない。

「ドームに”視察”に訪れたお目付け役の二人が、たまたまあなたと擦れ違ったという話よ。本当に風邪で早退したのに、『我らの目を盗んで堕落するため』だと言って聞かなかったわ。お互い今日は運に恵まれないわね」
「散々言われたんだ。母さんの故郷の人って、偏屈な人ばっかりだよね」
「心遣いだけは感謝するわ。彼らは視野が狭いから偏屈になるのよ。かくいう私も、婚前はそのような節があったことを認めるけれども」
 声は優しくなったが、エリシャは民族衣装を持ったまま、彫像のように動かない。何が何でも、クローディアにこれを着させるつもりだ。
「そんな人たちと付き合わなきゃいけないなんて、母さんも大変だねー」
「仰る通り、偏屈な小言に耐え忍んでいますとも」
「適度にストレス解消してね。私で良かったら、愚痴に乗ってあげるよ」
 そう言いながら、ちゃっかり布団を掛け直すクローディア。直後、エリシャは掛かっていた布団を掴み、思いっ切り放り投げてから言った。
「そうね。まずは親孝行だと思って、この服でお使いに行ってくれないかしら?」
「はーい……」

 クローディアは、わざとらしく猫背になって、スローペースでパジャマから民族衣装へと着替え始めた。
「これは我が一族の問題です。あまり言いたくないけれども、目付け役らの言葉を借りれば、竜人間全体の評判が下がります。生まれつき幸福な人生が約束された代償と考え、優良種として辛抱なさい。例え愛しい配偶者であろうとも、外の一族に頼るべきではありません」
 やる気なさそうに着替えているクローディアを監視しながら、エリシャが言い聞かせる。
「その配偶者の血が半分ほど、私の身体にはあるんだけどな~」
「何か言いましたか?」
「いや、なんでも」
 僅かに反抗心を見せつけた後のクローディアは、母さんも色々言われて大変だからとか、これ以上余計なことを言うと面倒臭くなるからとか、自分自身を無理にでも納得させることに徹していた。

 

 巨大な繁華街の中心点に位置しているのは、自由都市メネストで最も平均乗降者数が多い、”ルミーネ駅”。レイラの中で最も広大かつ複雑な駅で、人口の巨大な迷宮とさえ言われている。絶えず人々が行き来するその場所は、客商売する者にしてみれば、これ以上ない絶好の拠点。複数のデパートが、まるで一つの建物のように連なって、巨大な”シティ”を形成するのは、当然の成り行きであった。
 ここは若者御用のレストラン街。何度でも、しつこいほどにテレビで特集が組まれるほどの”聖地”であり、広く途方もない通路を埋め尽くすかのように、長蛇の列が点在している。
 カフェ、蕎麦、ラーメン、焼肉屋、パン屋さん、フルーツバー、ケーキショップ、スムージーショップ、スープ専門店、立ち食い寿司、最高級酒店……あらゆる店舗の入り口から、雑談や携帯電話いじり、読書などに興じて暇をつぶす、人々の行列が伸びているのだ。デパート内部のように、自動ドアや窓で外の空気を遮断していないエリアのため、皆が寒さに打ち震えながら。

 
「どーよ! 夏休みシーズンなら、所要時間20分の行列店が、ほぼ速攻で食べれるんだぜ!」
 そのレストラン街の中の一つ。今日のような寒い日には、どうしても客足が遠のいてしまう高級アイスクリームショップの中から、マルツィオ=バッサーノが出てきた。
 こんな寒い日に、派手なタンクトップとダメージジーンズというファッションだったら、また一つバカのレベルが上がってしまう所だったが、さすがに今日は違うらしい。髑髏がプリントされた黒シャツの上に、オリーブ色のモッズコート。魚人間だからこそ持ち得る、自慢の水色のヒレを露出させるため、重ね着の背面全てにスリットが入っている。

「確かにアイスクリーム屋さんっていったら、夏のイメージが強いよネー」
 遅れてアイスクリーム屋さんから出て来たのは、ステージガールの一人、スキャルパ=クッツェー。
 白い癖毛で肌が黒い彼女は、赤フレームの眼鏡を掛けていて、白衣のように見えなくもないジャケットとブラウススカートを着用している。目立ちにくいタイツを穿き、タマゴ型という変わった形状の赤いパンプスを履いているが、それはスキャルパの人種は馬人間だから。足底が蹄になっているため、ちょっと特殊な靴を履く必要があるのだ。
 スキャルパは生物学者であり、”Mトランスレーション”の達人でもある。本来Mトランスレーションは、異言語間のやり取りを可能にするためのメーション技術。例えば、日本語を全く知らない、英語圏の人間に対して、Mトランスレーションを駆使しながら日本語を話せば、相手はまるで英語を聞いているのように言葉を理解できる。逆に、英語を全く知らなくても、まるで日本語を聞いているかのように理解することも可能。
 このMトランスレーションを極限まで鍛え上げたスキャルパは、イルカやイヌなどといった、ある程度以上の知能を持つ動物と”会話”ができるのだ。非常勤のステージガールとしてスカウトされたのは、このMトランスレーションの腕を見込まれてのこと。
 スキャルパは、海洋生物との対話を目的として、マルツィオが住んでいる港町”アヴァラジーナ”にしばしば訪れている。その上、ステージガールとバトル・アーティストという、切っても切れない関係にあるのだから、これはナンパしない訳がない。学者特有の無精さなのか、スキャルパは特に警戒心を抱かなかったため、いつしかこうしてデートするほどの仲にまで進展していた。

「だからこその、ホットクレープ作戦なんだろーな。今年始めたばっかだから、オレのような情報通じゃねーと知らない、今一番の穴場スポットだぜ」
 そう言ったマルツィオが勧めてきた、ミカンのホットクレープを、スキャルパは片手で持っている。マルツィオが、よく自由都市メネストをデートスポットに選ぶのは、若い女の子が好むものが沢山あることも理由の一つだが、BASドームの最寄りの都市であることも大きい。
「そこまで言っておいてサー、なんで普通のアイスクリームを頼んじゃったの?」
 きっと喜ぶからとホットクレープを勧めた割に、マルツィオが手に持っているのは、真夏に食べるようなアイスクリーム。コーンにのせられたバニラ、チョコ、ストロベリーのトリプルジャンボサイズ。
「オレは春夏秋冬、どんな時でもゲキアツな海の男だぜー! 北風なんかに負けてたまるかよ!」
 どうやら寒い日にアイスクリームをイッキすることによって、女の子にカッコいいところを見せたいらしい。
「バカは風邪を引かないって本当かもネ……」
 早速ホットクレープを味わいながら、スキャルパがそう言う。
「もっと勉強して、賢くなっときゃ良かったかもなー。そうすりゃ風邪ひいた時、スキャルパちゃんに看病してもらえるからなー。口移しとか」
「んもう! そんなムネアカオオアリみたいな!」
 マルツィオが、くどくてウザったい顔を近づけると、スキャルパはパンプスで軽くローキックをかました。マルツィオがスキャルパの、とんちんかんな返答を理解しているかは怪しい。きっとマルツィオ以外でも理解するのは苦しい。

「よっしゃー! イッキに行くぜー!」
 マルツィオは傍迷惑なことに、レストラン街の通路の真ん中に躍り出た。一人でも多くのギャルに見てもらいたいらしい。そうして、子どもの「一口だけちょうだい!」さながらに、最上段のアイスクリームに齧り付こうとした瞬間だった。
「ありゃー!?」
 妙に構内が暖かくなってきたなと思ったら、まさかドライヤーの熱風を当てられた雪だるまみたいに、急激にトリプルジャンボサイズが溶け始めるとは。
「ヤベーヤベー! たれてきてる!」
 コーンを覆うペーパーの最下部から、晴天の氷柱のように甘い汁が滴り落ちている。マルツィオは慌ててそこに吸い付いた。

「あれれ、クローディア?」
 マルツィオがバカやって自滅しているのは、特に珍しくとも何ともなかったが、BASドーム以外でクローディアを目にするのは珍しかった。ホットクレープをもぐもぐ食べながら、スキャルパは前に出て、見慣れない服を着たクローディアの背中を見る。
(ここを通れば近道にもなるし、もしかしたらヒーターが効いているかなと思ったんだけど、さむっ! まさか自動ドアが壊れていたり!?)
 鮮やかな赤と黄色のイメージが強いクローディアが、落ち着いた緑色の民族衣装を着て歩いている。田舎からやって来たそっくりさんのなのではないかと、一瞬疑ってしまったが、全身に纏っているのは、紛れもなく不死鳥のように豪華絢爛な華焔。
「マジで!? クローディアちゃん!?」
 滴り落ちる溶けたアイスを口にしながら、マルツィオが脇目でクローディアの背中を見る。二人以外にも、クローディアという名前と、どこかで見たことがあるような顔にハッとして、次々と華焔を纏う竜人間の背中に視線を移していった。

「なんか沢山のイエネコやハト科が、クローディアの方に歩いて行くネ。逆アニマル・トラッキング? 興味深い……」
 視線を下に移すと、多数の野良猫やハトが、クローディアの後に続いていることが分かった。昨今、捨て猫問題が大きく取り上げられている時勢だし、ハトに関しても、この駅周辺で人慣れしたハトの群れが、食べかすなどを探し回っている。しかし、牧羊犬に誘導された羊の群れみたいに、野生動物がこのレストラン街まで入り込むことは、異常事態だ。
「単純に寒いから、暖かいところに行くんじゃねーの? クローディアちゃんと擦れ違った時、すげー暑かったし」
 華焔を纏ったクローディアと擦れ違ったから、持っていたアイスクリームが溶けたのだと、マルツィオは気付いていた。
「だとしても、こんな人混みの中まで深入りする? 絶対他に何かあるはず」
 スキャルパは無意識の内に、最後尾にいる猫の尻尾を、歩いて追い掛けていた。
「ほー、生物学者としての血が騒ぐのか。どーよ、行っちゃう?」
 女の子の興味には付き従うのが基本テクニック。上を向きっぱなしにも疲れて来たので、マルツィオはコーンの先端に口をつけ、イッキに吸い出そうとしている。
「うん、いこ!」
 スキャルパはホットクレープを残らず口に含んだ後で、マルツィオは相変わらずコーンの先端に吸い付いたまま、動物の群れに続いて歩いて行った。

 
「あ~! クローディア様じゃん!」
「マジ!? 社長の娘さん!?」
 レストラン街に居合わせた人々も、古風な民族衣装を着た竜人間が、あのクローディア=クックであることに気付いてきた。目的の食べ物を味わったりして、この後の予定が決まっていなかった女子高生などは、興味本位でゲリラ的なパレードに飛び入り参加する。

「うおぉー、あったけー!」
「これ、モノホンの華焔かよ!」
 華焔を纏っているクローディアが接近して来ると、焚き火にあたっているかのように、第三者たちも身体が温まる。この日の自由都市メネストは、折れ線グラフにカミソリのような谷ができるくらいに、異例なほどの寒さ。”いつも通り”のちょっとした厚着が意味を為さないため、震える少年たちはこぞってクローディアに押し寄せていった。

「ありがてぇ……! ありがてぇ……!」
「お天道様じゃあ……!」
 やがてレストラン街を抜け、クローディアが駅の外部に出てきた頃合。痩せこけた身体をボロ布で包み、物陰で凍える風から避難していたホームレスたちが、大規模な行進に加わった。暖房をつけた建物に入ることを拒否された彼らにとって、華焔を纏った不死鳥は、まさに救世主のようであった。

「久方振りに、クローディアが竜人間らしく在るな」
「エリシャの奮励だけは認めてやろう」
 目付け役の竜人間二人は、クローディアが家を出た直後から、ずっと遠巻きに彼女を監視していた。一匹、一人、また一人と増えてゆくその聖華行進を、さも高貴な竜人間全体の手柄として受け止め、傲慢な笑みを浮かべている老人コンビ。彼らも行進に加わり、野次馬心理で次々と人が増えてゆく様を眺め、心から愉しんでいた。

 

 駅を抜けてもう暫く歩くと、少し寂れた雰囲気を醸し出す商店街だ。日夜真新しいものを創り出し続けるという、メネストのイメージを抱いてやって来た若者が、この人通りの少ない商店街に訪れると、少なからず衝撃を受ける。錆付いた看板や、人目憚るように閉じられたシャッターの数々に。
 夜になると、仕事や育児疲れのおっさんおばさんが常連になるような、水商売の広告看板が怪しい光で誘うのだが……。昼下がりにこの商店街を歩いているのは、長い夜勤明けから帰路についているサラリーマンか、手持ち無沙汰なご年配の方々ばかり。

「らっしゃい、らっしゃい! 腹が減ったら肉を食え! 揚げたてアッツアツなから揚げを用意してやらぁ!」
 威勢のいい呼び込み声をあげながら、上質な肉をスライスしているのは、グラバー精肉店を取り仕切るおっちゃん、その名もアレン=グラバー。牛人間特有の巨体に見合わぬ繊細な包丁捌きで肉を加工して、手頃な価格で売り捌く、この商店街におけるヒーローだ。育ち盛りの少年少女は、部活帰りにグラバー精肉店で、特大串刺しから揚げを買って食すべし。

「お~い、おっちゃん」
 見慣れない服を着た、見慣れた顔の女の子が、冷蔵ショーケースの前に立って手を振っている。
「おう、クローディアちゃんか! 妙に汗が出てきたと思ったらよぉ!」
 そう言われたクローディアは、さり気なく纏った華焔の火勢を弱めた。
「相変わらず、すげぇ人だかりだな! 今日は一段と多いんじゃねぇか?」
 グラバーのおっちゃんは背伸びして、クローディアに付いてきた多様な人種、多様な生物の集団を確認した。クローディアが出歩けば、ほぼ必ず集団ストーカーに遭うことは、グラバーも知っての通りだが、だからこそ今回の人混み具合が平時以上だということが分かる。
「別にいつものことだし、一々気にしないようにしているんだ」
 恐らくクローディア本人も、いつも以上に集客していることを悟っているはずだが、どうせ珍しい服を着ているからだろうと思って気にしていない。群衆のひそひそ声に耳を傾けていたら、キリがない。

「冷てぇな! サインや握手の一つでもしてやったらどうでぇ?」
 などと憎まれ口を叩きながら、クローディアの注文を受けずとも、いつものやつを用意し始めるグラバーのおっちゃん。いつものやつとは、コスパ重視で保存が利くステーキ肉を、ジャスティンやクローディアの基準で三食分。
 エリシャはクローディアが小さな頃から、立派なアーティストに育てるために、特大の肉を毎日ここで買って、食べさせていたという。大抵はエリシャがここに買い出しに来るが、たまにクローディアがお使いに来る時もある。
「してあげたいのは山々だけど、熱狂的な宗徒同士の抗争が勃発しちゃうし、迂闊にやらないでって父さんに言われてるんだ」
 ショーケースの上で身を乗り出したクローディアが、小声で言う。
「贅沢な悩みだこった!」
「時に暴力沙汰にもなるから、結構深刻なんだよ~」

「ところでよぉ、その恰好はなんだ? 次のイベントでの専用コスチュームかい?」
 大抵クローディアがこの店に訪れる時は、特注品のお洒落なジャージか、自由都市メネストで流行っているような私服を着ている。民族衣装を着てここに訪れるなんて、仕事熱心のクローディアのことだから、宣伝の一環だと思うわけだ。
「ううん。母さんの故郷の民族衣装。着ないと目付け役に怒られるから、着ろって母さんがうるさいんだよねー」
 これまた小声でクローディアが告げると、グラバーのおっちゃんは豪快に笑いだす。
「はは! 寒そうだな」
「寒い寒い! メーションのおかげで、今は暖かいけど、風邪気味だからちょっと感覚がおかしいかも。変な汗出てきちゃう」
「風邪ひいてんのに、お使い行かせたのか!? ひでぇ親御さんだな! 前からキツそうな性格だと思ってたけどよぉ!」
「まあ、今この瞬間だって監視されているかもしれないし、ある程度は仕方ないんだけど」

 
 そうこうしている内に、いつものやつが出来上がって、グラバーのおっちゃんはそれをビニール袋に入れながら言う。
「ほらよ、いつもの一丁、毎度あり!」
「ありがと、おっちゃん! またねー!」
 世間話もそこそこに、クローディアはくるっと身体を反転させた。
「クシュン!」
 と、目を瞑ったかと思いきや、大きなクシャミを一つ。
「おう、本格的にやべぇな」
 肘の辺りで口を押さえたクローディアの背中を見て、ふざけ半分に笑っているグラバーのおっちゃん。
「さっきから鼻水が止まらないんだよ」
 そう言って纏っている華焔を、より激しく燃やし始めるクローディア。
「お大事にな! つまみ食いすんじゃねぇぞ!」
「生肉食べるわけないじゃん!」
 一度だけグラバーのおっちゃんを振り返ったクローディアは、取り囲む群衆をものともせず、平然と来た道を歩いて行った。より一層激しくなった華焔に近付きすぎると、さすがに火傷しそうで怖いので、クローディアの通り道にいる野次馬たちは、自ら道を譲るのだ。肉が焼けた時の、香ばしい匂いを感じながら。

「もしかして、焼き肉買ったのか?」
 マルツィオは人や野生動物の群れに遮られて、おっちゃんとやり取りしているクローディアがよく見えなかった。だが、激しい華焔によって身体が温められるとともに、焼き肉の匂いが強くなったことから、彼女が焼き肉を買ったことは間違いないだろう。
「野生動物にエサを与え続けると、人慣れして、下手すれば人間を襲うようになるのは、有名な話だよネー。もしかしてクローディア、日頃から野生動物にエサを与え分けていたんじゃ……?」
「いやー、さすがに話を難しくし過ぎじゃねーの?」
「あのお肉、ちょっと実際に食べて確かめてみないと」
 珍しくマルツィオがマトモなことを言ったかと思えば、クローディアと同じ商品を買うために、スキャルパはずしずしと前に出ていった。
「食うのかよ! まー、でも賛成だな!」
 焼き肉の匂いにやられたマルツィオも、食うためならとスキャルパの後を追って行く。

「クローディア様の行きつけ!?」
「あそこの焼き肉、そんなに美味しいの!?」
「強くなれる秘訣かもな!」
 やがてクローディアが、自然発生した花道を通過すると、最前列にいた人々からグラバー精肉店に殺到した。クローディアの後を追っていた野次馬の大半が、そのままグレバー精肉店に並ぶ行列へと変貌したのだ。
「商売繁盛と来たもんだ!? さっすがクローディア様だぜ!」
 クローディアを幼少期の頃より知るグラバーは、今一度、彼女がどこにでもいるスポーティー女子ではなく、神聖な不死鳥であることを再認識したのであった。

 

 無駄を省き、住み心地と利便性を追求した、幾つものライトが天井で優しく輝くダイニングキッチン。その食事室側の中央で佇んでるのは、贅沢にも真っ白なクロスが掛けられた丸テーブル、クック家の食卓なのだ。その上には、エリシャお手製の料理が、これでもかと並べられている。
 料理や掃除などと言った家事全般を、エリシャは超ベテランの家政婦のように、或いは一流のシェフのようにこなすのだ。この家で大規模なパーティなどを催すならばともかく、基本的にこの家では家事ヘルパーを雇ったりはせず、全てエリシャが完璧にこなす。プライドが高く、閉鎖社会でありながら、下界の人間より優れた文化水準を、長年の間保ってきた竜人間の末裔だけはある。

 食卓の上ですし詰めになっているのも、当然高級ホテルで用意されるような、ジェノベーゼ、羊肉ステーキ、シーフードサラダ、ワインにチーズ、その他諸々――というフルコースは、エリシャだけである。父親ジャスティンと、娘のクローディアに作られたのは、新人プロレスラーが身体作りの為に無理矢理食べさせられるような、暴力的に大量な肉の山盛り。
 当然、それだけでは栄養バランスが偏ってしまうので、三人前のサラダが塔のように盛られていたり、リンゴやトマトが丸ごとぶった切られたものが、豪快にボウルの中に放り込まれている。ご丁寧に、お代わり用の白米が大量に入った炊飯器が、ジャスティンとクローディアが座る椅子の間に置かれている。小食の少女にこの食事風景を見せ付けたら、きっと吐き気を催してしまうに違いない。
 ちなみに、ジャスティンの孫や、歳が離れたクローディアの兄弟などは、今日の所は不在のようだ。

「エリシャよ。お前がもし、サプライズプレゼントで喜ばせようと考えていたのなら、私の戯言は無視してもらっても構わんが……」
 仕事帰りのジャスティンは、ネクタイだけを外して、灰色のビジネススーツのままで席に着いている。
「いくらなんでも、この焼肉の量は多すぎると思わんかね?」
 毎日400グラムのステーキを食べていると豪語するジャスティンであっても、いつもの三倍の量を出されたら困惑するらしい。クローディアが先ほど持って帰って来た肉の全てが、食卓の上に並べられているのだ。
「クローディアが買ってきた肉類が、全てこんがり焼き上がっていたから、致し方ないわ」
 目を細めたエリシャが抑揚のない声で言う。悪あがきとして、細かく切ってサイコロステーキチックにメニュー変更したが、大して意味は無かった。
「あー、えっとねー、いつも父さん頑張っているから、ちょっと感謝の印にーってなわけで……。あ、それと! トレーニングちょっと早退しちゃったから、代わりに肉をいつも以上に食べて、身体作りに励もうかなーって思って……」
 冷や汗をかいて言い訳を連ねるクローディア。変な笑いが込み上げてくる。

「聞く限り、華焔を纏いながら買い出しに行ったそうだな。だとすると、よくビニール袋が燃えずに済んだな」
 クローディアが華焔を纏った状態でお使いに行ったことは、食卓に料理を並べている最中のエリシャから説明された。全身が燃え上がっている状態で、ステーキ肉入りのビニール袋を手提げれば、それごと黒こげになるのが自然の理だ。
「だってぇ……身体の調子悪かったし、皆が私の華焔を焚き付けるんだし……悪寒してたし」
 様々な要因が重なって、メーションを上手く制御できないから、不自然な現象が起きたらしい。あまりにも強大な力を与えられると、有り余って自滅してしまうのはよくある話ではあるが……。
「すまんが、三日分の肉を一日で食い切るのは、流石に無理がある」
「あなたたち基準の三日分だから、凡人の私にとっては、ざっと見積もって一、二週間の分量なの」
 何とも言えない目をした両親に見つめられると、服従を表現する子犬のように、小さく万歳をした。
「あーはいはい、分かった! 私が責任もって食べ尽くします! 食べた分だけメーションで燃焼すれば、全っ然問題ないもんねー!」
 がつがつ、むしゃむしゃ、ばくばくと、すごい勢いで肉に食らい付くクローディア。
「余計体調を崩さないでよ」
 呆れ半分で言い聞かせるエリシャ。クローディアは、既に常人なら吐き戻すくらいの量を腹に収めても尚、飢えた狼のように自ら焼いた肉を食らう。

 両親が静かに食事をしているそばで、クローディアの面持ちが少しずつ苦しそうになる。やはりと言うべきか、遂にクローディアは両手で顔を多い、貧血によって倒れる人間かのように、椅子の背凭れに勢いよく背中を押し付けた。
「もうマジ無理……ギブアップ」
「……どうしてクローディアを使いにやったのだ? 体調不良は知ってのことだろう?」
 色々と不可解そうにしているジャスティンは、黙ってワインを呑んでいるエリシャに問う。
「不運にも、目付け役が早退したクローディアを見つけたのです。わざわざ我が家にお邪魔してきて、暇ならクローディアに竜人間らしいことをさせろと言うから」
「それならば、私に連絡を寄越せば、追い払ってやったのだがな」
「これは、クローディアを含む竜人間たちにおけるいざこざなの。貴方の業務を妨害するようなことがあっては、社長夫人として失格よ」
「ううむ……」
 首を傾げたジャスティンは、プライドの高いエリシャなりに、自身を気遣ってくれているのは理解している。しかし、愛する妻や娘が、手の届かぬところで監視され、病気を悪化させ、そして暴食によって倒れるかもしれないという不安が、フォークを持つ手を止めるのであった。

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