Sublimation of My Heart Part11

 時刻は夜九時頃。BASドーム、オフィシャルエリアの社長室にて。
 机やボスチェアや、ソファーに至るまで一級品の物を取り揃え、壁にはプロレスベルトをはじめとし、往年の栄光が飾り付けられている。社長が鎮座する黒椅子の背後には、巨大なBASドームの派手な夜景が広がっている。

 ジャスティン=クック。元は小さなプロレス団体の社長兼オーナー兼トップレスラー。今はBASの社長兼オーナー兼悪役アーティストだ。いかにもな初老の白人らしい肌には、無数の傷跡があり、幾度となくハードコア・レスリングによる死闘を潜り抜けてきたことを窺わせる。
 灰色のビジネススーツに、赤いネクタイと黒い革靴。かなり耐久性に優れ、かつ機能が多彩な、銀色のデジタル腕時計。ほうれい線が目立つが目は若々しく、白髪交じりの黒髪をオールバックにしており、髪の量も決して少なくない。尻尾も獣耳も持たない猿人間、隣の世界における『人間』と非常に近しい。そして、高身長で筋骨隆々。とても五十路越えとは思えない。

「――以上で報告を終わります。ジュリアナは私邸で内輪と前倒しの祝賀会を開催しており、出張ライブの準備は私たちが整えております。現状、ジュリアナの意向に従って、工作活動は一切行っておりません」
 机越しに立つ部下の報告を、黙って聞いていたジャスティン。両手を組み、息を吐きながら背伸びをした後で、威厳に満ちた野太い声を漏らす。
「分かった。君たちの残業代は、後でまとめて支払おう。奴のホームステージでライブを開催するとは、いよいよ以って決着戦らしいな。最大限の屈辱を与えるのならば、これ以上ない機会だ」
「はい。我々スタッフが、水面下でマルツィオ様に有利になるよう状況を操作致します。出来うる限りライブ時間を引き伸ばし、ジュリアナが決定打を浴びれば、すかさずゴングを鳴らします。本ライブは、ジュリアナに従って、PPV(番組単位で課金して視聴するシステム)を採用した衛星放送による生中継を致しますから、敗北時の屈辱たるや想像を絶するものでしょう」
「マルツィオ君には悪いが、彼はジュリアナの贄には相応しくない。明日になって、急遽出場アーティストが変わるだろう」
 ジャスティンが組んだ手を机に置くと、部下はしきりに瞬きをした。

「お言葉ですが、ジャスティン様。なぜそのように思われるのです?」
 自信たっぷりに「ふっ……」と笑ったジャスティンは、ボスチェアから腰を上げると、窓の前に立って派手な夜景を眺める。
「一流のヒールは、ヒールとしてのギミックを貫き通すが、三流のヒールは、あろうことかベビーフェイスになりたがる。ヒールとしての何たるかが、分かっていないのだ。分かるかね?」
「ジュリアナは、正義の味方に成りたがっている、と」
 姿勢を正したまま、部下が凛とした声で答える。
「素晴らしい、模範解答だよ。奴の作ったブックは、明らかにベビーフェイス向きの筋書きだ。その結末は、悪名高き一流ヒールを、奴自身の手で倒すことにあるだろう。となると、マルツィオ君に近しいヒール、つまりブルーノ君が奴の本命だろう」
「把握いたしました。だから本日の昼間、ブルーノ様をお呼びして、我々が獅子身中の虫であることをお伝えしたのですね。ブルーノ様のみをお呼びすると、ジュリアナが怪しみますから、他の悪役アーティストを召集することで気取られぬようにした、と」
 部下に背中を見せたまま、ジャスティンは深く頷いた。

「予定通り、明日は私が現場に赴いて指揮を執る。私のために『特等席』を用意してくれよ。ステージの死角になっていて、照明の当たらない場所が良い。ステージから離れていれば、尚安全だな」
 ジャスティンがボスチェアに座り直しながら言う。
「私の計画は完璧だよ。ブルーノ君の勝利はほぼ確実だろう」
 そうしてジャスティンは、ホラー映画に出てくる殺人鬼のような、気味の悪い笑顔を浮かべるのであった。

 

 ピンクのネオンがそこかしこで光る歓楽街ナポラーンの、とある飲食店の敷地内。
 屋外テーブルの上にジャンクフードを並べ立て、通りを歩く人々を観察している男たちは、客引きやダンサーの女たちの品定めをしていた。男たちはわざとらしく咀嚼音を立てつつ、視線をあちこちに泳がせる。
 が、どこからともなく、左目周りに大きな茶斑を持つトレンチコートの女性が現れると、状況は一変。テーブルの一席に座る太った警官の前に立ち、必死に何かを訴えているグロリアに、男たちの卑俗な視線が集まった。

「ねぇ~おまわりさん。うだうだ言わずに、早くあたしについて来て。人が襲われているのよ? あなたの出番よ?」
「ガハハ! 酔っぱらいどものいざこざなんざ、ナポラーンでは日常茶飯事だぜ! いちいち出張ってたらキリがねぇ! 働きに見合う給料をくれやがれってんだ!」
 ナポラーンの警察がアテにならないことは、グロリアもよく知っている。だが、少なくとも拳銃を持っていることと、その辺のチンピラよりは遥かに頼りになることから、ダメ元で交渉を続けているのだ。
「あらあら、お礼ならちゃんと支払うわよ~。さぁ、行きましょう?」
「そりゃあいい! 近くにサービスが良いホテルがあるんだ! 今の時間ならまだ空いているし、早いとこ行こうぜ!」
「も~う、がっつく男は嫌われるわよ? あたし、男の人のカッコいい所観て興奮するタイプなのよ。おまわりさんのカッコいい所見せて? ね!?」
 そう言って谷間を見せつけるグロリアは、挑発的な笑みたっぷりだが、内心かなり焦っている。何とかマルツィオを助けてあげたいと、藁にも縋る思いだ。

「グロリア! ちょっといいかな?」
 聞き慣れた清涼感のある声がしたので、グロリアは振り向く。落ち着いた色のカーディガンを着たブルーノと、水玉ワンピースのドロテアが走って来たのだ。
「ブルーノさん!? いいタイミングに来たわ! マルツィオくんが襲われているのよ! 助けて!」
「おい!?」と怒鳴った肥満警官のことは無視して、グロリアはブルーノの両肩に手を当てながら懇願する。
(マルツィオは、グロリアと遊んでいたわけね。ここにいる可能性が高いってブルーノが言うから、一軒ずつ聞き込み調査をしていたけど、最初からグロリアに電話すれば良かったわ……)
 もう手遅れではないかと鳥肌が立ったが、はやる気持ちを抑えるドロテア。
「マルツィオと一緒にいたのか!? すぐ行こう、どこにいる!?」
「こっちよ! ついて来て!」
 すぐさま駆けだすグロリアとブルーノ。
「こんちきしょう! 止まれ! この尻軽女が!」
 大声で罵りながら、テーブルに置いてあった灰皿を持ち上げる肥満警官。腕を振り降ろそうとしたその直前、灰皿に蒼白い火の玉が命中して燃え上がる!
「あっち! 何だ!? まだタバコに火が付いてたか!?」
 ドロテアは、片手をブンブン振り回す肥満警官を睨みつけながら、触媒である動物の骨をメーションで消失させた。他の男たちは見ないフリして飲み食いする中、今度は歯が生えたクチバシを片手に出現させるドロテア。
 数瞬の後、ドロテアの隣で、奇怪な本のヴィジョンが輝くや否や、体毛のない巨大なコウモリが出現。その両足でドロテアを掴んだコウモリは、グロリアたちの後を追いかけるように飛び去って行った。
 ちなみに、ブルーノとドロテアをナポラーンまで運んだのは、他ならぬこのイメージ=サーヴァントだったりする。足で物を掴む力が非常に強いので、二人を掴んだまま長時間飛行することは、巨大コウモリにとって朝飯前というわけだ。

 

 マルツィオは大盾を構えたまま、デルフィーヌの攻撃にひたすら耐えていた。デルフィーヌの溶けた両手から、身体の一部が弾丸となって次々と飛来してくるが、マルツィオの大盾自体はびくともしない、が……。
 路地裏の両側を塞ぐ細長い壁に当たった弾丸は、一瞬だけ溶けてから、ピンポン玉のように跳ね返る。そうして『跳弾』を繰り返す一部の弾丸が、マルツィオの両脇から襲い来るのだ。
 大盾で防げずに食らってしまった弾丸は、一発一発は大したことはない。だが、傷口から流れ出る血の量は増える一方で、最悪失血死の可能性すらある。

(なんかあの子、どんどん痩せてってねーか? つーことは、幻覚でも変身系のメーションでもなく、本当に自分の身体の一部を撃っているのか!?)
 肩や脇腹、太腿に走る痛みもさることながら、平然と捨て身の攻撃を行う名も知らぬ少女が、心底気味悪いとマルツィオは感じる。薄幸な瞳を持つロココの少女の真意が、ますます気になってくる。
 拒絶するかのように、マルツィオに集中砲火を浴びせているデルフィーヌだが、両腕から放つ弾丸の数は徐々に減少していた。ついに極限まで痩せ細り、骨と皮だけのような姿となったデルフィーヌは、息も絶え絶え。これ以上、身体の一部を切り離すことができないのだ。
(やべーぞ! 色んな意味でやべー! 早くケリをつけねーと、オレより先にあの子の方が死ぬんじゃねーか!?)
 マルツィオは大盾を構えたまま、全速力でデルフィーヌに突っ込む。
 細長い路地裏の半分辺りまで進んだ時だった。突如マルツィオの片足は、地面のコンクリートの中へスポンと沈んでしまったのだ!
(なんだ!? 地面が『溶けて』いるじゃねーか!? 罠を張ってたのか!?)
 流砂に沈んでゆくかのような前の足を、何とか引き抜こうとするマルツィオ。その間、デルフィーヌの周囲にある様々な物質が、溶けたチーズのように化してゆく。空き瓶が、ボロ布が、紙コップが、錆びた自転車が、大海原に行き着く無数の川のようになって、デルフィーヌの足元に集う。柔らかくした物質を纏い、再度硬くすることで、身体を修復しているのだ。
 片足をようやく引き抜いた頃には、デルフィーヌは元通りの体型になっていた。物質を取り込んで身体を修復する少女を目の当たりにして、改めて生身の人間ではないことを確信するマルツィオ。

(まだ落とし穴がありそうだな……。こんなにビビりながらでもメーションを使えるってことは、驚かせても落とし穴は消えねーと思うし。壁を走ればイケるか?)
 後退しつつ、再び展開された弾幕を大盾で凌ぐマルツィオは、猛攻が止まる瞬間を窺っていた。鋭い角度で跳弾する一部の弾丸をモロに受けるが、ただひたすら耐える。今更背中を見せたら、かえって危険な間合いだ。
 跳弾でじわじわ削る作戦に徹しているのか、それとも恐怖故に闇雲に撃つことしかできないのか。とにかく、デルフィーヌは弾丸を乱れ撃つばかりで、地味ながら着実にマルツィオを追い詰めてる。
(まーたあんなになるまで、メーション使うのかよ。いくら罠を張っているとはいえ、隙が大きすぎだろ。戦い慣れてねー感じだぜ)
 再び、痩せ細った身体に、溶かした物質を纏い始めるデルフィーヌ。届かぬ星に救いを乞うように、両手を広げてイメージを研ぎ澄ませる。
 好機とみたマルツィオは、その場に置いた大盾に乗ると、壁に向かってサーフィンを始めた。水上スキーの要領で、溶けゆく地面の上を強引に突破するのも一つの手だが、より堅実な方法として、波乗りの要領で壁を走るべきと判断したのだ。
 大盾の表面に付いた無数の棘によって、建物の壁に放物線の傷跡が引かれてゆく。先ほど足を拘束された地点を真上を通過した時だった。
(うわ!? 壁にも罠かよ!?)
 なんと、壁の表面が広範囲に渡って溶けだして、地滑りを起こしたのだ! 砂塵もろともマルツィオは落下し、大盾で防ぐ間もなく瓦礫が降り注ぐ!
 物質自体はメーションで柔らかくなっていた為、思ったよりは痛くなかったが、マルツィオは全身に無数の打ち身を負ってしまった。跳弾によって負ったダメージも合わさって、とても立ち上がることができない。
(オレの動きを熟知してやがる……! ジュリアナが教えやがったんだな……!)
 上体だけを起こしたマルツィオは、取り落とした拳銃を探すため、手をあちこちに動かしていた。だが、瓦礫と砂塵に埋もれてしまったのか、拳銃は見当たらない。一際大きい瓦礫の下敷きになった大盾は目視できるが、今のマルツィオにはそれを引き抜くだけの体力がない。

(やった……これで……ジュリアナ様もちょっとは……)
 身体の修復が完了したデルフィーヌは、片手を胸に当てて呼吸を整えていた。仕事に失敗した罰を受けなくて済んだと、少しだけ気持ちが解れたのだ。
(やべーやべー……! マジで殺される……!)
 頭の中が真っ白になったマルツィオは、無意識に手頃な瓦礫を掴んで、それをデルフィーヌに向かって投擲する。しかしデルフィーヌは、未だ呼吸を荒げながらも、路地裏の奥の方へと歩き出す。カン、と瓦礫が壁に衝突した音が、あっけらかんと響く。
(あ……殺しはしねーんだな……? 安心していいんだよな……?)
 無意識に二つ目の瓦礫を握り締めていたマルツィオは、ナポラーンの闇へと消えゆく少女の背を目で追う。油断させておいて、いきなり振り向いて、トドメの一発を撃つのではないかとヒヤヒヤしている。

 目の前に蒼白い火の玉が落下したため、「ひぃ!?」とデルフィーヌが悲鳴をあげた時は、マルツィオまで「うおっ!?」と悲鳴をあげてしまった。行く手を塞ぐように蒼白い炎が炎上しているため、デルフィーヌは立ち尽くしたまま小刻みに震えだす。
(蒼白い炎……ドロテアちゃんか!?)
 ゆっくりと、デルフィーヌの真上に視線を移すマルツィオ。暗くてよく見えないが、建物の屋上では、トカゲの尻尾を持つ低身長な人間が、何かを握り締めている。
「ステージの外で人を傷つけると、取り返しがつかない事態になるかもしれないけど……!」
 頼れる相棒の声が聞こえた瞬間、マルツィオは涙が出そうになった。デルフィーヌと同時に振り返り、目に映ったのは、両の掌から血の針を突き出しているブルーノの姿。
(すげーな……! いつも模擬戦で戦っている時とは、比べ物にならねーくらいのプレッシャーだぜ……!)
 ブルーノと戦い慣れてるマルツィオでさえも竦み上がったプレッシャーだから、ただでさえ臆病なデルフィーヌは凍りついてしまう。
(ど、ど、どうして!? マルツィオ様に重傷を負わせたら、誰も追って来る人はいないから、ゆっくり帰って来ても大丈夫だって言われたのに!)
 任務を遂行したデルフィーヌが、素直に帰路についたことを、ブルーノは知る由もない。
「……そうだね。だからと言ってやられっぱなしだと、それこそ取り返しがつかなくなる……!」
 いつしかカリナに言われたことを、自分に言い聞かせるようにしたブルーノは、二本の針から大量の血液を発射する! 全身に力が入らないデルフィーヌは、その衝撃によって転倒してしまった。強酸性の特性を活かした殺傷力重視ではなく、衝撃力を重視した一撃なのだ。
 無言のまま仰向けになったデルフィーヌの両脚を、地面から突き出す血塗れの針で串刺しにするブルーノ。これでもう、這いずって逃げることすらできない。デルフィーヌの目は虚ろになり、挙句の果てには、嗚咽交じりに泣き出してしまった。

 

(とりあえず、動きを封じることには成功したか)
 名前も知らぬ少女が倒れた瞬間を確認したブルーノは、すかさずマルツィオの傍に駆け寄って、打ち身だらけの手を握りながら叫ぶ。
「しっかりして、マルツィオ! 今すぐ救急車を呼ぶから! もう少しの辛抱だから!」
 ブルーノは、(強酸性の)血液を操るメーションを得意としており、それがバイストフィリアとしてのアイデンティティー。実はその裏腹、出血を抑えたり、血行を促進させて自然治癒力を高めるなど、傷を癒すことも可能なのだ。医学の心得はないし、治療系のメーションに関しては訓練不足なため、専門家には鼻で笑われそうな効力だが、応急処置としてなら十分だ。バイストフィリアとしてのキャラクターが崩壊するため、ライブ中は封印しているメーションなのだが。
「だーいじょうぶだって……死にはしねーよ……。つーか、ハナからナポラーンの救急車には期待してねーしな……」
 喋るたびに身体が痛むのか、マルツィオは休み休みに答える。
「マルツィオくん、無事!?」
 どこからか応急箱を調達してきたグロリアが、マルツィオの前で屈みながら問う。刺客が地に伏しているのを確認して、もう物陰に隠れなくても大丈夫だと判断したのだろう。
 グロリアは、打ち身にコールドスプレーを吹き掛けたり、切り傷に消毒液を含ませたガーゼを当てたりする。ブルーノのメーションのみでは若干不安が残るから、非メーションの手段も取り入れて、より確実に応急処置を行うのだ。
「おっほー……! グロリアちゃんに手当てされるとはなー……! マジラッキー……今日はツイてるぜ……!」
 消毒時にくる痛みで目を瞑りながらも、マルツィオはリビドーに素直だった。
「……もう、絶倫ね~」
「そうだね」
 グロリアとブルーノは安心して、ほぼ同じタイミングでため息をついた。

 巨大コウモリに運ばれて、デルフィーヌの頭のそばに降り立つドロテア。イメージ=サーヴァントを霧消させるなり、不意打ちを警戒しつつ、ゆっくりとデルフィーヌの顔を覗き込む。
(気絶したの? ……まさかね。目も開いているし)
 ブルーノやケヴィンと話し合った結果、可能ならばジュリアナからの刺客を取り押さえることに決まったのだ。ジュリアナの弱点を訊きだせば、ライブで優位に立てるだろう。相手が場外襲撃までしてくる以上、こちらも一線を超えた対応をしなければ太刀打ちできない。
(ブルーノも手加減しているし、両脚が無くなることは無いと思うけど……)
 ドロテアは、虚ろな目から涙を流しているデルフィーヌの顔を、じっと見下ろしていた。――よく見ると、涙と思わしきものは、きらきら光る得体の知れない物質だ。デルフィーヌは、体内の物質を溶かすことで、それを涙代わりにしているのだ。正体が人形であることを知らないドロテアは、「こんな人間見たことない」と不思議がる。
「アンタ、何から進化した人間なの?」
 いつでも後ろに跳べるように身構えながら、ドロテアが聞いた。デルフィーヌからの返答は無く、しゃくりあげながら溶けた物質を流すのみ。
「ねぇ、聞いてるの? どうしてそんなに泣いてるの? アンタ、マルツィオを倒すために寄越されたんでしょ。そんな人間が、いくらあのプレッシャーに曝されたとは言え、簡単に泣きだすものなの?」
 ドロテアが更に問いただすが、以前デルフィーヌは咽び泣くばかり。

 か弱いすすり泣きが木霊する最中、ドロテアはとある経験が脳裏をよぎる。
 学校でいじめられっ子だったドロテアは、授業には参加せず、保健室に通う日々を過ごしていた。保健室に通う生徒はドロテア一人ではなく、「クソみたいな農耕の村」には、似たような境遇の生徒が少なからずいた。
 その中の一人に、保健室の先生以外の大人を、異様に怖がっている女の子がいた。同じ保健室通いの女の子同士、当時のドロテアは仲良くなるため奮闘していた。保健室の先生が橋渡しになってくれて、隙あらば答えやすい質問を女の子に投げかけたものだが、学校内での話題はともかく、プライベートな話題には一切答えてくれなかった。たまに答えてくれたと思ったら、それらは全て虚言ばかり。
 ある日突然、その女の子は村から出て行った。まさか死んだのではないかと、保健室の先生に不安をぶつけたところ、他言無用という条件付きでドロテアには話してくれた。
 その女の子は、母親から虐待を受けていたらしい。親が子どもを虐待している確かな証拠を掴んだため、保健室の先生の知り合いによって、村の外の人間に保護されたというわけだ。
 押し黙っていたのは、「お母さんが怖い」という本音が知られないようにする為で、例えばお弁当を作って貰えなくても、「忘れてきた私が悪い」と言って事実を隠していた。親から虐待を受けている子どもは、「親から嫌われたらおしまいだ」と考えるようになると、保健室の先生は教えてくれた。
 クソみたいな村から出て行きたい。もっと色んな世界を知りたい。ドロテアがそう考えるようになった要因の一つだった。今でも、固く口を閉ざしたり、極度に臆病な子どもを観ると、その女の子のことが想起されてしまう。
 名も知らぬロココの少女と出会ったばかりで、裏にある複雑な経緯は推測できないが……。だからこそ、ドロテアはこの刺客のことをよく知りたいと強く思う。

 いつの間にか、デルフィーヌの両脚を固定していた針は霧消していた。正確には、デルフィーヌの体内に取り込まれたのだが。
「ちょっとごめん……」
 ドロテアは、デルフィーヌの服を脱がそうと手を伸ばした。虐待されている者は、服を着れば隠れる部分、例えば背中に痣や火傷を負っていることが多いからだ。人前で服を脱がせるなんて失礼極まりないが、状況が状況だ。
 余談だが、デルフィーヌは受けた傷をすぐ修復できるため、虐待を受けていることは事実だが、その物的証拠は刻まれていない。
「ひぃ!? や、やめて! 来ないでぇ!」
 デルフィーヌは慌てて立ち上がり、一瞬よろめいた後に、全速力で逃げ出した。
「なっ、待って! ねぇ!」
 ドロテアの叫びで、マルツィオの治療に専念していたブルーノが立ち上がる。
「あれ? イメージを途切れさせた覚えはないのに……?」
 ブルーノは怪訝になりながらも、掌から繰り出した針を、目の前まで走って来たデルフィーヌの鼻先に突きつける。
「そうか、やられた振りをしてたのか……!」
「ち、違うんです! こ、怖かったんです! ごめんなさい! 許して下さい! ごめんなさいぃ!」
 完全に取り乱しているデルフィーヌは、ブルーノの目の前で土下座する。プレッシャーに曝されて小刻みに震えており、文字通り袋の鼠だ。
「ここまでしないと、駄目かなぁ……!?」
 ブルーノの掌から連射された、小さな血塗れの針らは、デルフィーヌの身体に掠り恐怖を刷り込む。とうとうデルフィーヌは、「うわあぁぁ!」と大声で泣きだしてしまった。

「ねぇ、ブルーノ。この子のこと、私に任せてもらえる?」
 デルフィーヌの傍に立ったドロテアは、緊張して心臓を高鳴らせながら言う。
「気持ちはありがたいけど、僕がやるよ。尋問するなら、僕が一番適している」
 ブルーノは掌から出した針の冷たい先端を、デルフィーヌの首筋に当てている。
「そうじゃなくて、その……話し合ってみたいの。この子がどうして、こんなことをしたのかを」
「……できればそうしたいけど、また逃げられるかもよ?」
 心なしかブルーノは目を細めた。
「ドロテアちゃん。この子は、女の涙を武器にするジュリアナの部下なのよ? あまり言いたくないけど、この子の涙も演技かもしれないわ」
 包帯を巻く手を止めたグロリアが、振り返って答える。
「……もっともだわ。私もそういう、弱い人ぶったクソ女をたくさん見てきたし。でもね、……この子の前で言ったら傷つくけど、虐待を受けて育った子どものように思えるのよ」
「あー、なるほどな……。だから、意地張って嫌われたくないって言ってたのか……。逆らったらオシマイだもんな……」
 壁に背を預けて座るマルツィオがそう告げたおかげで、ドロテアは勇気を振り絞ることができた。
「虐待された人ほど、虐待する人に嫌われたくないって考えるものだわ! お願い、ブルーノ。この子をちゃんと知った上で、ジュリアナのことについて聞きたいの」
「でも、もし暴れ出したら、ドロテアが傷つく……」
 ブルーノは依然として、デルフィーヌの首筋に針を突きつけたまま離さない。
「吐き出せば大人しくなるものだわ。話を聞いてあげれば、きっと暴れないから……」

 しばしの間、沈黙が流れる。ドロテアは、自分の心臓の鼓動を聞きながら、蝙蝠の翼をゆらゆらと揺らすブルーノの返答を待っていた。
 数十秒後にブルーノは、掌から繰り出した血の針を、霧消させた。
(ドロテアちゃんが、弱い人の味方をする番なのね)
 土下座したまま咽び泣くデルフィーヌの前で屈んで、手を差し伸べたドロテアを観て、グロリアは心の内で呟いた。

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