【空想旅行】銀世界の果てに Part4

PARU+さんの『空想旅行』シリーズ、最終章です!
振り返ってみると、私自身かなり空想旅行を楽しんでいました。
PARU+さん、素敵なイメージを広げて下さるイラストと設定、重ね重ね本当にありがとうございました……!

PARU+さん Twitter:@paruDevelop tumlbr:paru-develop


◆   ◆   ◆


 やがて銀世界に夜の帳が降り、凛とした風は安らかな子守唄へと変貌する。

 夕陽の残滓が焼き付いた紺色の天蓋。吊り下げられた無数の燭台は、天空で渦を巻く風に煽られる刹那、一際輝きを増す。
 白銀の大地が、不覚にも柔らかいベッドに思えた。雪原と抱擁を交わせば、あらゆる邪念から解き放たれて、至福のまま永劫の時を過ごせるかもしれない。それが覚めることのない眠りを意味すると分かっていても。
 皮膚感覚が凍り付き、生きものの声が静まっている。自分が魂だけの存在になったかのよう。何もかも捨て去り、純麗な世界に還るのも悪くない。人間として生を受ける前の記憶を、取り戻したかのようだった。

「ここからジョイくんが入っていったのね~」
 アーシェは氷の壁に開かれた小さな穴を、松明で指し示しながら言う。雪原で走り回っていたジョイを追いかけて来たが、この辺りで見失った。空から地上を見下ろす鳥たちにも、ジョイを見つけられないならば、恐らくはこの氷の洞窟に入ったのだろう。
「皆さん、私たちを心配してますよね」
 シャロルはソリで来た道を振り返り、緊張と寒さで震え上がっている。ソリに繋がれた母コルクが、頭を突き出しシャロルの身体を擦っている。「怖がらないで」と慰めているみたいだ。
「さっき村に鳥を飛ばしたから、一先ず大丈夫だ。ジョイを皆で探していると分かれば、きっと許してくれる」
 ディルはゆっくりと言い聞かせた。飛ばした鳥の身体には、異なる色の布が複数枚、結び付けられていた。意味合いとしては「三人で、ジョイを、探す、遅くなる」と言ったところか。
 すぐ近くに止めたコルクソリを、守るように父コルクが座っている。ソリの上では、疲れたプティたちが身を寄せ合って眠っている。

 唐突に、ブオォーンと、得体のしれない音が聞こえた。地鳴りにも雪崩にも似た音は、穴の向こう側から反響して来たらしい。
「今、何か聞こえなかった?」
 穴から一番近い所に居たアーシェは、思わずピクリと引き下がる。
「ああ、聞こえた。生きもの声……なのか?」
 ディルは屈んで、持っている松明を穴に突っこみ、中の様子を伺う。
「なんだか怖い音です……」
 シャロルは目を大きく開いて、母コルクにぎゅっとしがみついた。

 三人が訝しがっていると今度は、ゴロゴロゴロゴロ、と不気味な音が響いてきた。生きものの声にしては硬質過ぎる、地鳴りのような不穏な音。
「あら、何か崩れたかしら?」
 アーシェは辺りを見回した。氷の壁が崩れた形跡は見当たらない。
「雪崩ですか!?」
 しがみつく腕に一層の力を込めながら、シャロルは後ろを見た。暗闇だから、松明で照らされた範囲までしか分からないが、雪原は静寂に包まれているばかり。
「洞窟の中が崩れたのか?」
ディルはそう言うと、姿勢をより低くし、松明をより奥深く挿し込む。アーシェは不安に駆られ、小さな穴に顔を突っ込んだ。
「お~い! ジョイく~ん!」
 ジョイく~ん……ジョイく~ん……ジョイく~ん……アーシェの声は、山彦のように洞窟内で反響を繰り返すのみ。少し待ったが、何も返ってこない。アーシェは不安を募らせる。


 アーシェは物も言わずに、這って洞窟の中に入ろうとした。「ア、アーシェさん!?」と驚いたシャロルは、アーシェの足首に掴み掛ろうとした。
「私、中を見てくるわ」
 アーシェは一瞬だけ這い移動を中断して言った。
「待て! 氷河の洞窟はとても崩れやすい」
 ディルもアーシェを引き留めようと、強い口調で言う。
「もし洞窟の崩落が始まっていたら、アーシェさんも巻き込まれる可能性が――」
「例えば雪崩に巻き込まれたら、一刻も早く助けないと危ないのは、ディルくんも知っているでしょ?」
 それだけ言い残したアーシェは、二人を振り切るように洞窟の中に消えてしまった。「ちょっと待てよ!」「待ってください!」と、二人の声が虚しく響く。

 穴を潜り抜けたアーシェは、立ち上がるや否や氷の洞窟を駆けだした。頼りない松明は、手が届く範囲を照らすのがやっとで、暗闇はどこに続くとも知れない。反響する自分の足音が、それこそ雪崩が襲来する音に聞こえる。
 突然目の前に現れた氷の壁に、驚いて思わず転びそうになる。不自然な出っ張りや陥没がある、魚鱗のような凹凸が犇めく氷の壁。邪悪な精霊が悪戯したかのようだ。
 ――ドドドドドと、地響きが聞こえて来る。怯んだアーシェが立ち止まった直後、暗闇の中から白い塊が押し寄せてきた。「きゃあ!?」と叫んだアーシェは、”雪崩”を避けるように片膝を上げる。だがよく見ると、白い塊はフェルネの群れだった。逃げるように洞窟の出口に向かうフェルネたちに、一体何が起こったと言うのか。
 いよいよ恐怖で心臓が高鳴るが、それでもアーシェは突き進んだ。不気味な足音がすぐ近くで響いている。天井が低く、細長い通路を通っているらしい。二度と外には出られないかもしれないと、一抹の不安を抱きながらも、よからぬ予感がアーシェを突き動かしていた。


 いきなり深い穴が闇から飛び出してきた。慌てて後ろに歩こうとして、そのまま滑って尻餅をつく。松明で照らすと、穴には折り返し階段のような斜面があると分かった。微かに砂や小石が滑り落ちているのを見ると、ここが崩落して間もない穴だと推測できる。
「ジョイくん、いる!?」
 アーシェは片手を地面につき、穴を覗き込みながら叫ぶ。
「アーシェお姉ちゃん!?」
 ――ジョイの声だ! 氷の壁に反響してくぐもっているが、紛れもなくジョイの声だ。
「大丈夫!? 雪に埋まっていない!?」
 返事ができるならば、少なくとも呼吸は可能であるから幸いだ。とはいえ、雪に埋もれてしまった場合、低体温症を来たす前に、一刻も早く救助しなければならない。
「動けるけど、暗くてよく分からない!」
「じゃあ、雪に埋もれてはいないのね!?」
 直後、安心する暇もなく、「ブオォーン!」と金属を激しく打ち鳴らすような、不気味な音が再び響いた。今度ははっきりと聞こえた。真下からだ。
「何の音!?」
 アーシェは金切り声を上げた。
「分からない!」
 ジョイは泣き出す寸前の、切羽詰まった叫びを返す。音の正体は、大規模な崩落の凶兆しなのか、それとも人間に敵対的な生きもの――外来種とでも言うのか?

 アーシェは迷わず斜面を滑りだした。少し間を置いて身体が横に傾き、今度は後方へと滑りだす。折り返し階段の”踊り場”を通過したらしい。
 それからすぐに、身体がピタリと止まった。背後から「アーシェお姉ちゃん!」と呼び掛けられ、立ち上りすかさず振り返る。
「良かった。無事だったのね」
 アーシェは、飛び込んできたジョイを片腕で迎えた。松明で照らされたジョイに、目立った外傷はないようで、ホッと胸を撫で下ろす。
「ちょっと怖かった」
 決まり悪そうに、アーシェの胸に埋めた顔を遠ざけたジョイは、一粒の涙を流す。流石のジョイも、今回は危機感を覚えたらしい。


 その時、コォーンと甲高い音が聞こえた。教会で打ち鳴らされる鐘の音にも似ているが、幾分か静かでオクターブが高い、さながら小さな鐘のような音だ。
 ハッとして、アーシェは松明を高く掲げた。ジョイのことで頭がいっぱいだったが、穴の底は昼間のように明るい。上層と比べ、よりきめ細かい氷の壁によって、松明の光が乱反射を繰り返したせいなのだろうか。真相は不明だが、自然の奇跡に圧倒される。
 そして、広間の中央に佇む生きものと目が合う。
「……フェルネちゃん?」
 特徴的な大きな耳に、雪に紛れるような体毛。しかし、襟巻きのように靡く長い尻尾は、ダイヤモンドダストのような煌めきを帯び、碧色の目は射貫くように鋭い。一般的なフェルネと比して、より厳かな空気を纏っている。


 広間全体を見回せば、所狭しと子どものフェルネたちがいる。四、五十匹くらいの子フェルネが、円陣を組んで頭を押し付け合っているかと思えば、一匹が唐突に走り出し、他の子フェルネが後を追う。追いかけられているフェルネの口には、丸い石が咥えられていた。
 村の人口と同じ数だけは居るかもしれない、子フェルネたちの遊び場。壁際には、大量の食べ物が積み上げられて、山となっていた。大人のフェルネが――雪原でジョイと追いかけっこしていたフェルネが、山の”すそ”に咥えていた食べ物を置いた。どうやら群れで共有している食糧庫らしい。
「ここはフェルネの巣みたいね」
「うん」
 アーシェが呟き、ジョイは思いっきり首を縦に振る。
 決して広くはない洞窟の奥底で、子フェルネが遊び道具を奪い合って、縦横無尽に駆け回っている。それはまるで、無邪気に舞い踊る雪の精霊のよう。奪い合っている遊び道具は、片手で数えるほどしかないから、余計にそう見える。


「あっ! ボクのボール!」
 ジョイは、四、五十匹が縺れ合っている、子フェルネの塊の中央に、自分が失くしたと思っていた皮のボールを発見した。たったさっきまで、暗がりの中で怖がっていたのをケロッと忘れて、子フェルネの塊に向かって一直線に走りだす。
 と、神秘的なフェルネが、羽毛が舞うように軽やかに跳ねて、ジョイの前に立ちはだかった。睨まれたジョイは硬直する。その鋭い眼光は、カンカンに怒ったお父さんの目付きよりも怖いと、ジョイは思った。
 コォーンと神秘的なフェルネが鳴いた。声が反響したのか、上層でブオォーンと不気味な音が響く。少し間を置いて、雹が屋根を打つように、ガタガタという音が近付いてきた。天井が崩れるのではないかと、思わず後ずさるジョイ。
 今度は背後から、トツトツと地面を踏み鳴らす音が聞こえた。ジョイが振り返ると、先ほど逃げだしたフェルネの群れが、斜面を滑り落ちて来た。長老らしきフェルネの呼び掛けに応じたのだろう。


 そうして大人フェルネたちは、子フェルネを前足で壁の方に押しやったり、首を咥えて運んで行ったり。大人に連れて行かれる子どもの一匹が、長老と擦れ違う瞬間、「コオォーン……」と悲しげに鳴いた。置き去りにしてしまったジョイの皮ボールを、切なそうに眺めながら。
 全ての子フェルネが、食べ物の山近辺に追いやられると、大人フェルネは城壁のように整列した。長老と思わしきフェルネは、余所者の人間二人を威圧し続ける。閉じこめられた子フェルネたちは、「コーン、コーン……」と、寂しげに鳴くのを繰り返し、あわよくば大人フェルネの包囲網から脱走しようとしている。
 フェルネたちは警戒心が強くて、すぐに逃げる生きものだ。それなのに、見たこともない姿の――あるいは本当の姿の神秘的なフェルネに率いられ、群れは子を守るために微動だにしない。
 アーシェとジョイは、侵してはならない聖域を侵した気がして、後ろめたさが生じた。人間が相手なら、迷わず頭を下げて「ごめんなさい」と言っていただろう。瞬きをしない長老の碧眼に釘を刺され、氷の像と化したように動けないまま、時間が過ぎてゆく。


「二人とも、大丈夫か!?」
 上層から垂らしたロープを利用して、洞窟の底に降り立ったディルが言う。
「や……やっぱり私も行きます!」
 続いてシャロルが、斜面を滑り落ちてきた。一人暗闇に取り残されるのが不安で、ついて来たのだとか。
「お怪我はありませんか!?」
 夢中で駆け寄ったシャロルが、脇からアーシェとジョイの顔を覗き込む。しかし二人は、フェルネの群れと向き合ったまま、返事がない。
「あの、どうしました?」
 冷静になって、二人が目を向ける先に視線を移す。鋭い目つきをした神秘的なフェルネと、背後で整列する大勢のフェルネ。目が合ってしまったシャロルは、悲鳴を上げることすらなく、同じように氷の像となってしまった。
「なんだ、あのフェルネは?」
 ディルは長老と思わしきフェルネに目を見張った。数多くの生きものと交流しているディルにとっても、神秘的に輝くフェルネは珍しかった。
「君たちは一体……」


 ディルは恐れることなく、厳かに佇んでいるフェルネの長老の下へ歩を進める。


◆   ◆   ◆


「――なるほど。つまり君たちは、子育ての為に食べ物を貯蔵していたんだな」
 フェルネの長老との対話を通して、合点がいったディルが深く頷く。
「フェルネは夜行性だ。夜の内に食べ物集めをするから、他の生きものは突然食べ物が消えたように思うのだろう。匂いに過敏だから、もしかしたらコルクよりも食べ物探しが上手いかもね。加えて今年は、子どもが大量に産まれたときた」
 他の三人は、身を寄せ合っているフェルネの子どもたちを見渡した。
「数が多くて、普通の巣穴だと狭苦しいから、この大きな洞窟は都合が良かった。君は群れを代表して番を努め、子どもが目覚める時間などに合わせて、召集の声を発していたんだな。教会が鐘を鳴らすように」
 長老は微動だにしない。二度、三度瞬きをするのみであった。たとえ生きものとの意思疎通が得意な人間であっても、威風堂々たるこのフェルネの眼に射抜かれれば、足が竦んでしまうことは想像に難くない。
「やむを得ない事情は分かったよ。だけどさ――」
 しかし、生意気なことで村の大人たちに可愛がられているディルは、大胆にも言ってのける。
「おかげでコルクたちが食べる分が不足しているんだ。少し分けて貰えないか?」
(怒られますって!)
 シャロルはアーシェの陰に隠れた。ああして佇んでいる長老は、生意気言ったディルに飛び掛かってもおかしくない。


 緊迫した空気が、洞窟の奥底に張り詰めた。長老は、ゆっくりと瞬きを繰り返している。壁を作っているフェルネはディルを睨み付け、その後ろから子どものフェルネが興味津々に身を乗り出している。
「人間たちが貯蔵している分も、少なくなってきてさ。君たちの協力が必要だ」
 恐れ知らずにも、一歩踏み出しながらディルが言う。長老は厳かに佇んだまま、目を瞑った。下手なことができない三人は、恐るおそる成り行きを見守っている。
「分かるよな? この銀世界で暮らす生きものは、フェルネだけじゃないんだ」
 静かに目を開き、長老は「クルル……」と静かに鳴いた。最早、砂が流れ落ちる音さえ凍結した。緊張が極限にまで達し、固唾を飲むことすらできない。血液まで凍て付くような悪寒に襲われた、次の瞬間――!


 タスタスタス……何かが斜面を転がり落ちて来た。大量の大きな雪玉。上層が崩落してしまったのだろうか? 四人やフェルネの群れは、転がって来た雪玉に注目する。
 それらは転がるのを止めた順に、ピョイと長い耳を立ててピョンピョコ跳ねるのを始めた。プティだった。さっきまでコルクソリで寝ていたはずの、仕立て屋『プレイシル』からやって来たまるい生きもの。
「プティちゃん? どうしてこんな所まで」
 アーシェは呆然と呟いた。
 大人の後ろに隠れていた子どもフェルネたちは、やけに興奮している。二足立ちになって、コロコロ転がって来たプティを眺め、思い思いにその場で飛び跳ねている。子どもたちを押さえ付けようと、大人フェルネの列が徐々に乱れ始める。
 重々しい雰囲気が圧し掛かり、四人もフェルネたちも静止していた洞窟の奥底にて。動くものに興味を惹かれるプティが、真っ先に目を向けた先は、落ち着きがない子フェルネたちだ。荘厳な聖域に乱入した生きものは、厳格なフェルネの長老を全く意に介さず、空気を読まずにピョンピョコ飛び跳ねながら雪崩れ込む!


 当然大人フェルネたちは、外敵から子どもを守ろうとして、跳び込んできたプティを、胴体や前足で順々に弾き返している。しかし、弾き飛ばされるプティたちはそれを楽しんでいるのか、何度も何度も大人フェルネを飛び越えようと、ピョイと飛び跳ねる。またもや大人フェルネが弾き返し、プティが面白がって飛び跳ねる、いたちごっこだ。
 その様子は、子フェルネたちにしてみれば、楽しそうな遊びに思えたのだろう。必死にプティをブロックしている大人たちの上から、前足を伸ばしてプティを掴もうとする。警戒心は強いものの、フェルネは好奇心旺盛な性格でもあるのだ。ましてや、洞窟で退屈に過ごしていた子どもたちなら。
「なぜかフェルネは、丸い物が好きなんだ。食べ物を採る練習のために……なのか?」
 予想外の出来事に、流石のディルも立ち尽くしていた。
「ボクのボールも、フェルネにとられた!」
 ジョイは少し恨みがましく叫んだ。ボールをフェルネに盗られたのが、相当悔しかったらしい。
 長老フェルネは振り返ったまま、騒ぎを起こしている群れを見つめたまま動かない。
「あのフェルネさん、どうしたんでしょうか……?」
 シャロルが小声でアーシェに耳打ちする。
「子どもたちが喜んでいるから、強く叱れないのかしらね~?」
 アーシェは口元に指をあてがいながら答えた。

「う~ん……そうだわ!」
 何かを閃き、自分の手をポンと叩くアーシェ。ジョイとシャロルは、歩きだしたアーシェを不可解な面持ちで眺めている。マイペースにも斜面付近で、天井を見上げていた一匹のプティを拾い上げると、子ども二人の所まで戻って来た。「ジョイくん、シャロルちゃん。プティちゃんにブラシをかけてくれるかしら~?」
 アーシェはその場に座り込み、膝の上にプティを乗せると、懐から二本のブラシを取り出した。プティと共に過ごすことが多いアーシェは、いつもこれを持ち歩いている。プティをブラシで優しくとかすと、衣装などにも使われる非常に軽い毛玉が取れるからだ。
「やる! ボクやる!」
「は、はい! お手伝いします!」
 二人は同時にブラシを受け取り、ブラッシングを始めた。思いっ切りゴシゴシ擦るジョイと、恐るおそる撫でているシャロルに挟まれて、プティはむず痒そうに身体を震わせる。
 ブラシに大量の毛が絡まって来た。プティの身体を擦る内に、その表面で毛が転がって丸まり、やがて毛玉となって落ちる。アーシェは、ジョイが落とした大きな毛玉と、シャロルが落とした小さな毛玉を拾い上げ、上手く捏ね合わせ、更に大きな毛玉を作る。こうした器用な行動は、人間以外の生きものには難しいだろう。

 プティをその場に置いたアーシェは、出来上がった大きな毛玉を持ち、ディルの隣に立った。そしてアーシェは、プティの毛玉を長老フェルネに差し出しながら申し出る。
「プティちゃんの毛玉と、食べ物を交換するのはどうかしら~?」
 ディルが食べ物を探している訳を――なぜジョイに食べ物を集めるおつかいを頼んだのかは、コルクソリで移動している最中に聞いていた。既に子フェルネたちは、アーシェが持つ毛玉に好奇の眼差しを向けている。
 ディルが翻訳せずとも、長老にはアーシェの意図が分かった。これがたくさんあれば、氷河の洞窟に隠れながら暮らしていても、子フェルネたちはボール遊びで退屈せずに済むだろう。数少ない遊び道具を奪い合う必要もなくなる。
 長老の鋭い眼差しに射抜かれても、アーシェは柔らかい笑みを湛え続けた。恐れを為して逃げ出すことは、芯の強い女性がやるべきことではないからだ。子フェルネたちは、「コーン! コーン!」と甘えるような、元気な声で捲し立てている。長老がアーシェを見据えている間、ディルもジョイもシャロルも、戦々恐々と動向を見守っていた。


 やがて、長老が「クルル」と厳かに鳴いた。
「よかろう、だってさ」
 ディルに言われたアーシェは、「ありがとうね~!」と軽く頭を下げた。長老の向こう側では、子フェルネたちがその場ジャンプを繰り返してアピールしている。
 アーシェは笑顔のまま、力一杯プティの毛玉を投げた。それを大人フェルネがブロックすることはなく、プティたちに見送られながら、毛玉は子フェルネの群れの中に落ちた。数十匹のフェルネたちが、我先にと毛玉を咥えようとして、結果おしくらまんじゅう状態になる。気に入って貰えたようだ。
「まさかアーシェさんに助けられるなんてね」
 ディルは脇目でアーシェを見ながら、不貞腐れたように言った。
「たまには大人っぽいところも見せないとね~」
 ディルの捻くれた言い方に慣れているアーシェは、ふふんと得意気な笑顔を見せ付けた。


「ボクもやる! ボクも投げたい!」
 ジョイは手当たり次第にプティをひっとらえては、ガリガリとブラシを掛ける。毛玉が零れ落ちるとすかさず拾い上げ、子フェルネたちを目掛けて全力投球。自分が作ったお宝に群がる子どもたちを見て、ご満悦の様子。
 次々とプティを捕まえては、猛スピードで毛玉を採取するジョイ。足が速いことで有名だが、手を動かすのも速いらしい。あっという間に子フェルネの遊び道具を作り上げては、ポイポイと放り込んでゆく。
 一方シャロルは、ゆっくり丁寧にブラシを掛けていた。どういう訳か、シャロルの周りにだけ子フェルネたちが寄ってきて、人間という生きものの器用な動きに見入っている。
「ま、待ってください! 今やってますから!」
 無数の碧眼に囲まれたシャロルは、緊張して身体を震わせている。
「シャロルちゃん、一緒にやりましょうね~」
 そう言ってアーシェは、シャロルから渡されたプティを膝の上に乗せた。アーシェの慣れた手つきで、適度な強さでブラッシングされるプティは、マッサージされているかのようにうっとりして目を瞑る。それがとても可愛らしくって、シャロルは少し遠慮がちにもプティに手を伸ばして、優しく撫でてあげた。


 一つ、また一つプティの毛玉が増えるたび、無邪気に飛び跳ねるフェルネの数が増えていった。いつの間にやら大人フェルネも、やや遠慮がちに遊びに加わっている。今まで食べ物探しで、マトモに子どもと触れ合えなかった反動なのだろうか。咥えたボールを遠くまで運んだり、前足で子どもと取り合いっこする大人たち。
 キャンキャンという、嬉しそうなフェルネの鳴き声に、長老は薄目で耳を澄ませていた。
「本当は、誰に気を遣ってくれたんだい?」
 ゆっくりと目を開いた長老の真意は、ディルのみぞ知る。


◆   ◆   ◆


 ジョイが言うには「100個くらい!」のプティ毛玉を作った末に、フェルネの群れが洞窟の外まで食べ物を運んでくれた。満杯になった数個の大きな袋を、コルクソリに取り付けると、ディルは座席に座って手綱を握り、松明を掲げた。
「これだけあれば、冬の間は大丈夫そうだな」
「やっと帰れますね」
 安心したシャロルは、急に眠たくなってきた。今度こそ大人しくなったプティたちに囲まれているが、体温の温かさで暖炉の前にいるような心地だ。
「ディルお兄ちゃん! 帰ったらコルク毛を下さい!」
 疲れ知らずのジョイは、元気に言った。小樽いっぱいどころではない、大量の食べ物を調達できたのは、一応ジョイの手柄でもある。ジョイの膝の上には、フェルネの群れから返してもらった、皮のボールが置かれている。冒険の果てに見つけた、宝物だ。
「分かってるって。アーシェさんに直接渡せばいいんだろ?」
「えっ。あ~、そうね~」
 アーシェはぎょっとした。確かにコルク毛がないと騒いでいたが、ジョイが一人でディルの家まで出かけた直後に、無くしたと思ったコルク毛をシャロルに発見してもらった。だから別に貰う必要なんてないのだが、今になって「いらない」なんて言ったら、ジョイやディルはどんな顔をするのだろう。困った顔をしたアーシェを、シャロルが覗き込む。


 何はともあれ、ようやく村に帰ることができる。四人と、プティたちと、大量の食べ物の重みで、ソリを引く夫婦コルクはいつも以上に大変そうだ。二頭は同時にゆっくりと歩きだした。冷たい風に揺らめく、松明の炎を頼りに――と思いきや、突如の火が消えてしまう。
「しまった! 寿命か?」
 ディルは視点を少しずらして、松明の先を見ようとした。
「古い松明を持って来てしまったか……慌てて出るとロクなことがない」
 ソリを引くコルクは歩みを止める。視界が明瞭でなければ、何かに躓いて転倒したり、最悪崖から落ちてしまう可能性さえある。
「もう一度火を点けられないの?」
 ジョイは疑問を投げかけた。暗闇の中、顔ははっきりと見えないが、恐らくは呆然とした表情でいることだろう。
「いや。多分布の部分がダメになったから、火の点けようがない」
「じゃあ、ほかの松明!」
「他の松明も寿命だ。燃え移すことができなかったの、さっき洞窟の中で見ただろ。数本持って来たけど、これが最後の松明だ」
 手触りを頼りに、松明の先端を確認しながらディルが言う。


「そんな! 帰れないんですか!?」
 シャロルが目に涙をためていることは、容易に想像できる。
「待ってくれ。今火種を起こす方法を考えている」
 そうは言うものの、手元すらマトモに見えない状況では、仮に発火法があるにせよ実行は非常に難しい。月や星の光があるとは言え、限界がある。
「もう、洞窟の中に泊まっちゃう?」
 宥めるようにアーシェが言う。
「それじゃあ、明日の露天市にも、アーシェさんがブーツを作るのも間に合わないですよ」
「それもそうよね……」
 銀世界の果てに取り残された一同は、呼吸まで凍り付いてしまうようだった。音もない暗闇の中、体温は奪われる一方で、心まで闇に蝕まれてゆく。


 ブオォーンと、氷河の洞窟から音が反響してきた。不気味な音だと怯える必要はない。フェルネの長老の澄んだ声が、くぐもって聴こえるだけだ。
 やや間を置いて、四人は暗闇の中、雪を軽く踏み均す音を聴いた。サクサク、サクサクと。人間で喩えるなら、爪先からそっと泉に浸かるように、憚るような優雅な足取り。それが、そこかしこから聴こえるのだ。
「フェルネちゃんだわ」
 確信したアーシェが呟く。ほどなくして足音は止まったが、周囲でフェルネたちが佇んでいることは、それとなく分かった。


 コオォーン――銀世界を祝福するような声が響き渡る。静寂な雪原で木霊するそれは、幾度となく鐘を打ち鳴らすかのように。人間にとっては、帰路につく時刻を知らせたり、村のすぐ近くまで来たことを実感させる、心安らぐ音色だった。
「長老!?」
 そう言ってジョイは目を凝らした。段々と目が暗闇に順応してきたこともあって、コルクソリの正面で佇む、長老フェルネらしき影を捉えた。
 雪原の彼方から、オォーン……と、微かな遠吠えが返ってきた。長老の声に反応した、遠くにいるフェルネたちのものだろう。
 長老はもう一度、コオォーンと鐘のような声を響かせた。おもむろに歩きだすと、四方八方から再び優雅な足音が聴こえてきた。


「なるほど」
 ディルはニヤリと笑って手綱を引く。
「長老の後を追って進んでくれ」
 すかさず二頭のコルクは歩きだす。長老フェルネの影と声を頼りにすれば、暗闇を恐れる必要はないはずだ。
「火、点いてないよ?」
 ジョイは不思議に思って、小さな声で言った。
「夜目が利くフェルネに導いて貰えば安心さ」
 ディルが説明した直後、もう一度フェルネの遠吠えが返ってきた。
「なんとなく分かるんだ。今の遠吠えは、村の近くにいるフェルネたちによるもの。長老は遠吠えを頼りにして、村を目指しているのだろう」
「遅くなっちゃったけど、帰れそうで良かったわね~」
 アーシェはシャロルの、プティのような耳をさわさわしながら喋った。
「本当に帰れますよね……?」
 やはりシャロルは、自分の意思で同行したとはいえ、別世界から無事に帰ることができるか不安で堪らなかった。
「問題ないさ。時間はかかるけどね」
 ディルが宥めても、不安は解消されなかった。


 長老の高らかな鳴き声と、村近くのフェルネたちの微かな遠吠えが、幾度繰り返されたのだろう。ジョイを追い掛けた時より、随分と静かではあるものの、揺れ動くコルクソリは不慣れなもの。村にたどり着くまで、うたた寝する気分にはなれなかった。
 疲れがどっと出たのか、アーシェもディルもジョイも喋らない。行けども行けども似たような景色で、変わらぬ暗黒ばかりが広がる雪原は、温室育ちの子には相当恐ろしいものに違いない。もうすぐ帰れると分かっていても、教会のベッドや家族の顔が恋しくて、泣きたくなってくる。
 ふと、ディルの言葉が頭を過ぎる。
『……精霊歌ヨイクか。たった一人でコルクソリに乗る人間が、孤独を癒すためにも歌われるね』

 コオォーンと、清らかな鐘の音が鳴った直後。
「コーン……コオォーン……コーン……コオォーン……」
 可愛らしく密やかな声で、抑揚を付けて、木霊するようにシャロルが歌いだす。
「あれ? 今のシャロル?」
 ジョイはシャロルに顔を近づけた。フェルネの鳴き声にとても似ていたから、シャロルの声かどうか怪しかったのだ。コーン……コオォーン……と、確かにその声はシャロルの口元から聞こえた。
 何度かシャロルが鳴き真似を繰り返した後、決まったようにフェルネたちの遠吠えが返ってきた。数瞬の後に、長老がまた鐘の音を発することだろう。
 しかし、今度は違った。逆にシャロルの真似をして、クウゥーン――コオォーン――と、抑揚を付けて歌いだす。コルクソリを護るように歩いていたフェルネたちも、輪唱するように歌いだす。


 フェルネたちの輪唱が終わり、束の間の沈黙が訪れる。そして、どちらともなく、シャロルと長老は歌い始めた。打って変わって、シャロルの声は長老にも負けないくらい力強かった。さらに、その場にいる全てのフェルネが、息を合わせて合唱に加わる。
「コーン! コーン!」
 ジョイが大きな声で叫んだのを皮切りに、アーシェとディルも歌いだした。日頃お世話になっている生きものへの感謝を籠めて。
 ソリを引くコルクも歌いだした。別の地方では、草笛にも喩えられる音は、生きものたちの合唱に華を添える。
 遂にはプティたちも歌いだす。不規則に、思い思いのままに発せられる鳴き声は、むしろありのままの自然音を切り取ったように、賑やかで命の力強さを感じさせる。
 この合唱は、村近くにいるフェルネたちにも聴こえたのだろう。遠吠えが、抑揚を付けた合唱へと変わった。耳を澄ませると、フェルネではない生きものの声が交じっている。村で帰りを待つ人間か、コルクか、それとも――。


 銀世界の果ては生きものたちの声で満ちていた。
 暗黒の空で、無数の星々が輝くように、白銀の大地では、数多の生きものが生を謳歌している。生きものの姿が見えないとしても、生命の息吹が途絶えることは決してない。この聖域で、一人きり取り残されることなどない。いつも生きものたちが一緒にいる。
 いつの間にか、シャロルの緊張は解きほぐれていた。長老フェルネの鳴き真似に、本能的に反応したからか、小さなフェルネが膝に飛び乗って来た。シャロルはその子の頭を、優しく撫でてあげながら、楽しそうに鳴き真似を繰り返していた。そうして幸せ心地のままに、ソリで引かれてゆく。
 あたたかな家までの道のりを。


◆   ◆   ◆


 翌日、昼前。村外れの空き地にて。

 どういうわけか、子フェルネたちが駆け回っている。太陽が高く昇っているというのに、夜行性のフェルネは参ったりしないのだろうか?
 横一列になって伏せていたフェルネたちの上を、皮のボールが放物線を描いて飛び越えた。それがやや遠くに着地した瞬間、子フェルネたちは一斉に走りだす!
 一番速いフェルネは、僅かにジャンプしてボールに飛びついた。一等賞を取ったフェルネは、遅れて群がって来た他のフェルネにボールを奪われまいと、大の字になってボールを地面に押さえ付けている。
「もう一回やるよ! やるよ!?」
 ボールを投げた本人、ジョイもボールの取り合いに参加した。群がって出来たフェルネの山に両腕を突っ込む。フェルネたちの手足と縺れ合って、身動きがとれなくなる。
「ひとりじめしないで!」
 ジョイの叫びと、子フェルネたちの「クォン! クォン!」という鳴き声で、空き地が騒々しくなる。


「ジョイ! いつまで遊んでいるんだ! 迎えに来たぞ!」
 コルクソリの上からディルが叫ぶ。
「あっ、ディルお兄ちゃん!」
 すかさず返したジョイよりも速く、子フェルネたちは取り合いを止めて走りだし、ソリの上に飛び乗った。ジョイは大切な宝物を拾い上げてから、一足遅れてソリに乗りこむ。
「まったく。フェルネを無理に遊びに付き合わせるなよ。夜行性なんだぞ」
 ディルはそう言いながら手綱を操り、コルクをゆっくり歩かせた。
「ヤコウセイって?」
「つまり、夜に起きて昼に眠る生きもののことさ」
「でも、こいつら全然寝ないよ」
 ジョイは身を寄せ合っているフェルネたちを指差した。いつの間にか、ソリに座っているフェルネたちは、居眠りをしている。
「あれ、寝ちゃった」
 ジョイは納得いかなそうな面持ちになった。これじゃ自分がウソつきみたいだ。
「さっきまで元気だったのに」
「君だって、家に帰ったらすぐに暖炉の前で、居眠りするらしいじゃないか。遊び疲れたせいで」
 ディルは冷ややかな視線をジョイに向ける。
「体力の限界まで遊び倒す子どもの習性は、人間もフェルネも一緒か」


 ソリが村の中心、つまり教会に近付くにつれて、知らない人がちらほら見られるようになった。雪山の奥地にあるこの村を、訪れる人は滅多にいないが、物珍しい品物が揃う冬市場を目当てに観光に来る人々は少なくない。
「ワクワクしてきちゃった!」
 ジョイは座った体勢から、僅かにお尻を浮かせたり、座席に着けたりを繰り返して、落ち着きがない。
「なに買おっかなぁ!?」
「行商人が来るらしい。玩具も売っているぞ」
「ほんと!? じゃあ、新しいボール買っちゃお!」
 早く到着しないかなと、ジョイは前のめりになった。
「ディルお兄ちゃんはなに買うの?」
「コルクやフェルネの食べ物や、ちょっとした建築の本とか。あとは、煉瓦か何かかな」
「レンガ? なんで?」
「昨日、フェルネの長老から別れ際に、一つ頼まれてね。ほら、氷河の洞窟は崩れやすかっただろ。氷や雪が落ちてきたら、子どもたちが危ないからって、小屋を建てて欲しいんだって」
「あそこから引っ越せばいいじゃん」
「そういう訳にもいかないらしい。フェルネは警戒心が強いから、隠れるように暮らす。ましてや、あんな大所帯を匿える場所ともなるとね」


 二人が話していると、道端で立ち止まっている人間たちと目が合った。遠くから観光に来た彼らは、ソリを引くコルク、ソリの上で蹲るフェルネに興味津々だ。「すごいな」とか「かわいい!」などといった声が上がっている。
 ディルは微かな笑みを浮かべ、手を上げて旅行者たちに挨拶をした。ジョイは立ち上がって「ヤッホー!」と叫びながら両手を振った。
 はにかみながら手を振り返す旅行者たちに、ソリを引く二頭のコルクが近づいて行く。厳めしく首を縦に振る父コルクに、撫でて下さいと言わんばかりに頭を下げる母コルク。「撫でていいですか?」と訊かれたディルが頷く。最初の一人が、恐るおそる手を近づけた末に撫でてあげると、残りの人々も生きものとの交流を始めたのだった。



 中央広場は賑わっていた。

 てんやわんやのお祭り騒ぎではなく、美術館を遊歩するように静かに、穏やかに。しかし確かに、談笑や感動の声が絶え間なく聞こえてくる。その活気は大きな焚き火のようになって、長旅に疲れた来訪者の心を温めている。
 家屋に沿うように展開された露店の数々。コルク毛を始め、乾燥キノコや果物ジャムなどと言った、雪山から授かった物が並べられている。木で作られた食器や、刺繍テープで彩られた帽子、手作りの揺り篭なども、お土産として人気な模様。
 少し開けたところでは、ソリを引くコルクたちが待機している。観光客を送迎する役目を担った村人たちのものだ。コルクと触れ合ってみたいからと、待機しているコルクに食べものをあげたりする人も少なくない。ソリの上で一服している村人は、愉快そうに眺めている。
 プティの毛玉採り体験は、子どもを中心に人気だ。能天気に転がっているプティたちに、代わる代わるブラシを掛けては、嬉しそうに毛玉を手に取る。あらかじめ用意していた、大量の毛玉も売りに出されており、こちらは商人や仕立て屋を中心に人気だ。
 真昼だからか、キノコスープ売りの屋台に行列ができている。クリームチーズの濃厚かつまろやかな香りが、とても食欲をそそる。スープを作る村人曰く、「観光客向けにいつもより濃いめに作ったぜ!」とのこと。
 蕩けるように甘い白色に包まれた玉ねぎやキノコが、舌の上で微かな酸味を踊らせてクセになる。中心に、細かく刻まれたパセリが乗せられていて、吟遊詩人はこれを「雪や森と共に生きるこの村の素朴な美しさのよう」と謳った。


「あったかぁい!」
 ジョイは、店主から二つの器を受け取りながら言った。
「こぼすなよ」
 ディルも同じく、二つの器を両手で持つと、ジョイと共に踵を返した。
「僕はコルクの夫婦にスープを持って行くから、ジョイは先にアーシェさんの所に行ってくれ」
 歩きながら言ったディルは、徐々にジョイから離れてゆく。
「コルクもスープ食べるの?」
 ジョイは素朴な疑問をぶつける。
「食べるさ、あの夫婦はね。大好物なんだ。ソリを引いてもらっているお礼に、いつも持って行く」
 ディルは振り向かずにスタスタと歩いて行った。ジョイもそのまま、アーシェの所に向かって歩く。


 雪を被った石造りの教会――人工物というよりは、長い年月を経て自然形成された鍾乳洞のような、天然物的な素朴な神秘さに溢れた教会。その前には、丸太を切った素朴な椅子が多く設置され、村人や観光客の休憩スペースとなっていた。
「アーシェお姉ちゃん、お待たせ!」
 ジョイはアーシェに器を手渡す。
「あらジョイくん、ありがとう~」
 アーシェがキノコスープを受け取るなり、ジョイも隣の席に座った。
「何買ったの?」
 丸太椅子に立て掛けたアーシェの荷物を指差して、ジョイが言う。
「ブーツの材料よ~」
 木製のスプーンで一口飲んだアーシェは、美味しさで頬に手を当てた。
「誰の?」
「ジョイくんの!」
「えっ! なんで?」
 驚いたジョイは、危うくキノコスープをこぼしかける。
「だって、昨日あんなに頑張ってくれたじゃないの~」
 自分の勘違いでジョイに無駄な”お使い”をさせてしまったのだ。彼が手に入れたコルク毛は、彼の為に使われるべきだとアーシェは考えたのだ。
「わぁい!」
 ジョイはスプーンを持つ方の手を、空に向かって伸ばした。微笑ましく思い、アーシェはニコリと笑う。
「後でジョイくんの足のサイズとか測りたいから、『プレイシル』にいらっしゃいね~」
それから二人は少しの間、無言でキノコスープを堪能していた。


「ねぇ、アーシェお姉ちゃん」
 にわかにジョイは、いつになく真剣な眼差しを、アーシェに向けて来る。
「ブーツをもらったら、ボクもアーシェお姉ちゃんと一緒に、隣街まで付いていっていい?」
「あら、急にどうしたの?」
 アーシェはキラキラ輝くジョイの両目を見つめ返した。
「ボク、隣街が本当にあるのか見てみたい!」
「あるに決まっているじゃないの、もう」
 アーシェは苦笑いした。ジョイがまた姿をくらませる前兆だ。こうなったら、要求を呑んでジョイを傍に居させた方が安全かもしれない。
「そうね。じゃあ次に卸しに行く時は、ジョイくんに荷物運びを頼んじゃおうかな~」
「やったー!」
 今度はスプーンと、空になった器を放り投げる勢いで、ジョイはバンザイした。
「隣街まで、どれくらい走ったら着くのかなぁ?」
 昨日、丘の上から銀世界を見回した限りでは、隣街の影も見当たらなかった。だからジョイは、銀世界を一生懸命、いつまでもどこまでも走るしかないと信じている。それはとても楽しいことだ。
「う~ん、ジョイくんの足だと……どれくらいかしらね?」
 目を細めて考え込んだアーシェの隣で、ジョイは身体を揺すってワクワクしていた。


 と、周囲から暖かい拍手が巻き起こる。二人は教会の正門の方を向く。大人たちに連れられて、シャロルが登場したのだ。
 オーロラが輝くように厳かな紺のワンピースに、命を燃やすかのように暖かな赤のショートケープ。宝石細工さながらに、精密な刺繍があしらわれた裾が、そよ風に靡いている。ふわふわとした帽子から、プティのような長い耳が飛び出していて、「プティの王女さま?」と本気で考えてしまう観光客も。
 シャロルはとてもミステリアスだった。精霊に憑り付かれているかのように。
「おーい! シャロルちゃーん!」
 ジョイは椅子の上に立って両手を振っている。
「シャロルちゃ~ん! とっても可愛い~!」
 アーシェも口元で手を広げて激励する。
「なんだ、丁度か」
 夫婦コルクを引き連れて、ディルもやって来た。昨日、ソリの上で歌われたシャロルのヨイクにすっかり夢中で、わざわざディルに「聴きに行きたい」と夫婦は願い出たという。


 赤面したシャロルが、恭しくお辞儀すると、広場は鎮まりかえる。大勢の人の視線を一身に浴び、緊張が頂点に達した。そばに立っている大人は、何も喋ってくれない。
(歌わなきゃ……)
 そう思って息を吸おうにも、鼓動と共に呼吸が勝手に早まって、上手く深呼吸できない。胸に手を当て、身体を震わせているシャロルにつられて、徐々に観光客たちの表情も硬くなってゆく。ついにはクシャミまでしてしまったシャロルを、観客たちは不安そうな面持ちで眺めていた。
「緊張しているのかな?」
 一向にヨイクが始まらないので、ジョイは椅子に座り直してキョトンとした。
「そうみたいね」
 アーシェは心配そうにシャロルを見つめながらも、始まるまで静かに待つことにした。
「大丈夫なのか?」
 ディルは腕組みして、遠間から成り行きを見守っている。背後では、夫婦コルクが互いに顔を近づけ、何やらヒソヒソと鳴いている。
「ん、どうした?」
 夫婦コルクが前に出てきたので、ディルは目を丸くした。


 突如響いた二重奏に、広場の全員が振り返る。コルクの夫婦が歌い始めたのだ。シャロルを勇気付けるためかと、合点がいったディルが静かに頷く。
 ある者は、「雄大な山脈を見上げているかのよう」と雄コルクの声を喩え、またある者は「泉に滴り落ちた滴の波紋を見つめるよう」と雌コルクの声を喩えた。打楽器の如く力強く震える声に支えられた、囁くみたいに微かに通り抜けてゆく歌声。まさしく、銀世界の律動そのものだ。
 夫婦コルクの歌を聴いて、シャロルは思いだした。昨日、銀世界の生きものたちと合唱したことを。決して一人きりではないことを。
(できます、よね)
 呼吸は、いつの間にか落ち着いていた。すぅー、と息を細くゆっくり吸い、そして歌いだす。ヘララ、ヘララ、ヘララ……太陽や月が昇り沈みを繰り返すように、抑揚を付けた透明な音が、広場に染み渡る。生きものたちはシャロルの周りに、儚げなダイヤモンドダストが舞い落ちているような気がした。


 シャロルは咄嗟の思い付きで、コーン、コーンと鈴を鳴らすかのような声を発した。スプーンでスープを掬う音すら消失して、幻想の世界と化した中央広場。複数の、足早な足音が押し寄せてくる音すら、雷鳴が轟くようにけたたましく思えた。
「……何だ?」
 コルクとシャロルの三重奏に聴き惚れていたディルは、微かに眉を顰めたまま背後を見た。なんと、ソリの上で眠っていたはずの子フェルネたちが、一挙に広場に押し寄せてくるではないか。夜行性だというのに、警戒するべき対象が沢山あるにも関わらず。呆気に取られた人々は、「うわっ」と軽く驚いたりしながら、シャロルを取り囲みつつある子フェルネらを眺めていた。
 遠くから見ていたプティたちは、きっと仲間に入りたかったのだろう。毛玉採り体験でお勤めしていた彼らは、ピョンピョン飛び跳ねながら広場に押しかけた。生きものたちが続々と集合する不思議な光景。二度目ともなると、驚く代わりに静かな溜め息が出てしまった。
 やがて、ソリに繋がれたまま待機しているコルクたちの、合唱までもが聴こえて来た。そうなると、フェルネもプティも歌いだすし、遂には広場の人間までヨイクに加わった。ヨイクは詞のない歌であるから、リズムに合わせれば誰でも思い思いに歌うことができる。憧憬する大自然の声を真似て、大きな一つになってゆく。


 シャロルは無我夢中で、声が出なくなるまで歌い続けていた。身体が勝手に歌を中断させてしまったが、魂は疲れを全く感じていなかった。結晶が溶けるようにシャロルの歌が途切れて、夢から醒めるように生きものたちの合唱が終わる。
 生きものたちが、沈みゆく夕陽を見送るように、長い余韻に浸った後。人間たちは、穏やかで暖かい拍手を巻き起こした。コルクは人間の真似をして頷いたり、勢いよく後脚二本で立ち上がったりする。プティもその場でピョンピョン元気に跳んでいるし、フェルネは尻尾を激しく振り回していた。
「シャロルちゃん、すごい!」
「とっても綺麗だったわよ~!」
 ジョイやアーシェは、拍手しながらシャロルを讃える。
「こんな美しいヨイク、聴いたことがない!」
 満面の笑みを浮かべたディルも、盛大な拍手を送っていた。
 天から降り注ぐ光に祝福されたシャロルは、深々と頭を下げる。

 「皆さん、本当にありがとうございます!」

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。