聖グブルバヌグ大聖堂の内部は、大規模な出張ライブによって興奮の坩堝と化していた。
階上廊を支える大アーケードの下では、大聖堂に仕える聖職者たちたちが、ロザリオを握って祈りを捧げている。二階と三階に分離された階上廊は、一般人用の観客席となっており、アーチ型の天井を見上げると、美しい青色を背景に瞬く無数の星々。計三つある大円のバラ窓からは、より一層輝きを増した陽光が射し込んでいる。
左右のアーケードに挟まれているのは、大聖堂の入口から祭壇へと真っ直ぐに向かう中央通路。無数に設置された長椅子を両断するように、青色のフロアーが伸びているのだ。
その果てにある、赤い絨毯が敷かれた七段の階段を登ったならば、そこは金で煌びやかに装飾された神聖なる祭壇。中央で一際光り輝く女神像の周囲には、豪華絢爛な服飾で装飾された天使像が並ぶ。永遠の生命を祝福するかのように。
水色ローブを着たクリスティーネは、倒れた状態から素早く転がってから立ち上がった。念入りに、そこから更に二、三歩退いてから見据えたのは、骨折した方の腕を押さえて痛がっている、つや消し黒のプロテクターを装着しているサルバドル。一瞬振り返って壊された二本の双剣を確認してみたが、完全に元通りになるにはもう少し時間が掛かりそうだ。
「ギャアアアァァァーーー！！！」
奇声とともに突っ込んできたサルバドルを前にして、考え込んでいる猶予はない。クリスティーネは自らサルバドルとの距離を詰め、槍よりもリーチが長い、見えないほど速いパンチを、スライディングキックを繰り出しながら避ける。
さすがに同じ手は通用しないのか、サルバドルは恐ろしく速いサイドステップで、青色フロアーを滑るクリスティーネの足底を回避。そのまま後ろに通り過ぎていったクリスティーネを追うように、サルバドルも身体を反転させた。
起き上がったところに、力任せのストレートを叩き込んでやろうと思っていたサルバドル。しかしながら、クリスティーネがこちらに両足を向けたまま、仰向き状態を維持していたので、動きを止めてしまう。
「プロレスラーがプロボクサーに立ち向かうならば、やはりあの手に限る」
階上廊を支えるアーチの下、ロザリオを持った聖職者たちが整然と並ぶ場所の最前列で、灰色のビジネススーツを着たジャスティンが自慢気に言う。連日の猛特訓の一環として、「スライディングキックを外したら、立ち上がらずに寝技に誘いこめ」と、クリスティーネに指導していたのだ。
防御の姿勢に徹するクリスティーネと、自慢のパンチをいつも通りに叩き込めず、立ち往生しているサルバドル。しばし、膠着状態に陥った。ガントレットに籠められた磁力のメーションで、クリスティーネを強引に引き寄せたりはしない。腕に引っ付いたことを逆利用されて、クリスティーネに腕の骨を折られたことが、相当なトラウマになっているらしい。
「キャアアアァァァーーー！！！」
お菓子を買って貰えない子どものように、高い声で鳴いたサルバドルは、片足を大きく上げる。体重をのせてクリスティーネの腹を踏みつけようとしたが、仰向けのまま器用に身体を動かされたので、ドム！ と青いフロアーを踏み鳴らすのみ。
クリスティーネは仰向けのまま、サルバドルの後ろ足の膝関節を、的確に蹴り飛ばす。サルバドルがバランスを崩して後方に倒れると、今度は踏み付けるために前に出された方の足を、両手両脚でホールドして膝の関節を極めた！ 力を一切加減されずに、可動域の反対方向に折り曲げられたサルバドルの膝は、ブチブチブチッ！ と音を立てて損傷してゆく！
「ホワ！？ ワ！？ ンワアアアァァァーーー！！！」
無理矢理逃げようとしてサルバドルがのた打ち回っても、しっかりとクリスティーネが関節を極めているために、より大きな損傷を被る自傷行為にしかならない。
「お見事な戦いぶりです！」
黒くて長い衣装を着ているフェリックスは、ひいきにしているサッカー選手がハットトリックを決めたかのように、熱く叫んだ。常に威厳と落ち着きを保っている、普段の聖職者像からは考えられない。娘の成長がよっぽど嬉しいのだろう。
「どうしてこんなことができるのよ！ サルバドルちゃんは嘘を付いたこともないのに！ 純粋でとってもいい子なのに！」
出入口側の観客席の最前列から、拡声器で喚き散らしているのは、ドギツイ色の服を着た年増のファビオラ。やはり手足をパタつかせながら、血相を変えて正当性を主張している。
と、ファビオラが片手で持っていた拡声器が、背後から伸びてきた白い手に掴まれ、取り上げられた。金魚のように口をパクパクさせながらファビオラが振り返ると同時に、白ブラウスの上に赤いエプロンを着たヘディが、奪った拡声器を用いて叫び始める。
「クリスティーネ！ こんな無責任な女の言うことを聞いてちゃダメ！ あなたが代わりに躾けてあげなさい！」
拡声器を使っているから、ライブ中でもファビオラの声は一際大きく響いていた。戦闘中のクリスティーネにも、はっきりと聞こえていただろう。母親のヘディは、誰の話にも耳を傾けるクリスティーネの優しさが、つねに葛藤や戸惑いを垂れ流す弱点でもあることを知っている。だから、クリスティーネが迷いなく戦えるように言い聞かせたのだ。
サルバドルの関節にかなりのダメージが蓄積した頃、クリスティーネは超大型の掃除機で吸引されるかのように、見えない壁へと吹き飛ばされた！ 逃れられないと悟ったサルバドルが、ガントレットの力を利用し、磁石の同極同士が反発する原理で彼女を吹き飛ばしたのだ。さっきまで、ガントレットで散々殴られていたクリスティーネの身体には、未だに強い磁力が残留している。
「立ってよ、お姉ちゃんっ！ お姉ちゃんなら勝てるって！」
背中から見えない壁に激突した後、尻餅をついて項垂れる姉の傷だらけの背中に、若草ローブを着たクリストファーが声援を送る。
「頑張れ、クリスティーネ姉ちゃん！ あんな野郎ぶっ倒せ！」
続いて、緑半袖を着た狐人間のピーターが、荒々しい声で振るい立てようとする。
「がんばれー」
ウサギ人形を抱き締めている、白ワンピースを着たウサギ人間、ビビの微かな声も確かに聞こえた。
肌が露出しているところが痣だらけになっているクリスティーネだが、歯を食いしばり、気力を振り絞って立ち上がる。やや遅れてサルバドルも立ち上がり、前のめりに倒れそうになりながらも、狂気じみた勢いで突進してきた！
「アアアァァァーーーッ！」
膝関節がやられたせいで、サルバドルの片足は非常に不安定で、先ほどまでの大型トラックのような勢いは失われていた。そしてクリスティーネは、右と左、どちらから見えないパンチが放たれるのかを見切っていた。サルバドルの片方の腕は折れているのだから。
（踏み込みが甘いですっ！）
サルバドルの見えないパンチが届く間合いまで詰められた瞬間、クリスティーネは姿勢を低くしながら自ら踏み込む。サルバドルのストレートが頭上を掠めた瞬間、クリスティーネのお手本のようなフックがカウンターヒット！
「クロスカウンター！ まさかあいつに決めちゃうなんて！」
ストリートチルドレンたちが詰め寄せる階上廊にて、継ぎ接ぎだらけのドレスを着た羊人間ロジータが、思わず身を震わせながら言う。
「パンチのリーチと速さが弱くなっとる！ さっきの関節技が効いてるで！」
反対側の階上廊では、白い手拭を巻いて青いオーバーオールを着た狸人間の健司が、大いに喜んでいる。
流石のサルバドルも、防御反応が不可能なカウンターを決められたことで、身体を大きく仰け反らせてしまう。そこからクリスティーネの、怒涛のコンビネーションが始まった。
ワン・ツー・スリーの左ストレート、右ストレート、左フック。ローキックで意識を逸らしてからの、脇腹へのボディーブロー、そして顎へのアッパーカット。怯んだところに金的への蹴り上げで更に追撃し、膝蹴りを腹部にモロに食らわせ、再び膝関節へのキックでバランスを崩し、トドメの踵落としで、モヒカンのように連なったサボテンの棘を粉砕する！
奇声をあげる暇もなくダウンするサルバドル。顔面が青いフロアーに衝突するその寸前、クリスティーネはまたもや磁力によって吹き飛ばされてしまった。
背中から見えない壁にぶつかった後、片膝立ちになって痛みを堪えるクリスティーネに、ありったけの声援を送るノイシュウィーン村人たち。善き隣人たちのみでなく、罵声で捲し立ててくる暴走族らの他は、ほぼ全員がクリスティーネの名を連呼しているのだ。
「アァーッ……！！」
それは怒りかはたまた苦痛か。声を震わせるとともに、サルバドルはのっそりと立ち上がった。見えない壁に片手を押しつけつつ、クリスティーネもゆっくりと立ち上がる。両者とも満身創痍だ。
苦し紛れにクリスティーネを磁力で吹き飛ばしているのは、サルバドルが逃げ腰になっている証だ。暴虐と恐怖の象徴が怖気づいている。ただそれだけの事実が、クリスティーネに大きな勇気を齎した。再びサルバドルが奇声をあげて、こっちに突っ込んで来るよりも速く、クリスティーネは自らダッシュし、敢然と立ち向かって行く！
ふいに、何かがパン！ と叩かれるような音が鳴った。サルバドルと激しい肉弾戦を演じているクリスティーネが、いつの間にか鞭を拾い直したのかと思いきや、どうも違うらしい。クリストファーは、姉の一挙一動を逃すまいと観察していたが、真横から聞こえてきた金切り声によって、ようやくすぐ傍で繰り広げられている惨状を理解した。
「この疫病神！ あなたが変なこと言ったせいよ！ お祓いしてあげるから我慢しなさいよ！」
どこからともなく現した洗濯たたきで、ファビオラがビビの頭を思いっきり打っているのだ！ 背後から既に何発か受けていたビビは、抱き締めていたウサギの人形を取り落とし、両手で頭を押さえている。
大人に手加減無しで叩かれた痛みもさることながら、突如襲来してきた予想外の恐怖によって、大きくて丸い目に涙を浮かべ――だが、決して一滴たりとも零しはせず、泣きだすのを一生懸命我慢している……！
「死ねよ、キチガイババア！」
これ以上なく如実な心情を口にしたピーターは、思いっ切りファビオラの足を踏み付けた！
「痛っ！？ 何するのよ！ 悪魔の子め！」
踏まれた方の足を持ち上げ、片足立ちのまま身体を上下させるファビオラが喚く。ヘディは床に転がった洗濯たたきを手に取ると、ビビがされたことと同じように、背後からファビオラの頭を全力で叩き付けた！ 一瞬屈みこみ、頭を両手で押さえたファビオラ。すぐに起立して振り返り、ヘディの胸倉に掴み掛ると、周囲を見渡しながら喚き散らす。
「虐待よ、虐待！ 皆たち！ 今この女が年寄りに暴力を振るったの見た！？」
「あんたねぇ……！ 分かってんの！？ あんたたちにサンドバッグにされた人や動物たちが、こんな気持ちになってたのを！ もっと叩かれないと、分からないかしらっ！？」
ファビオラが罪のないビビを打ったことで、ヘディの怒りは頂点に達していた。隣に立っていたクリストファーやフェリックスが、思わず後ずさりするほどの凄味を利かせつつ、ファビオラの胸倉を掴み返し、押し返してゆく。
「何調子に乗ってんだオラァ！」
ファビオラとともに襲来し、ビルンバウム家の背後に陣取っていた暴走族らは、一般人を殴り飛ばす口実ができたことに狂喜した。先頭の男が釘バッドを掲げながら走り出すと、周囲の観客たちは散り散りになって逃げだす。
荒々しい足音に反応したフェリックスは、素早く反転するとともに、ダッシュしてきた釘バッドの男の腹部に前蹴りを突き刺す！ 喰らった先頭の男はあえなくダウンし、後続の暴走族たちは、殺気に満ちた鋭いフェリックスの両目に射抜かれ、一瞬立ち止まった。
「願わくば避けたい事態でしたが、止むを得ませんか……！」
声だけは優しいフェリックスは、幾度も死線を潜り抜けた戦士としての余裕を見せ付けるようでいて、却って恐ろしい。暴走族らは、風格からして既に武術の達人の足元にも及ばない事実を認めまいとして、各々絶叫した後に捨て身で突撃を始めた！
（まずいっ……！ お父ちゃんがやられる！）
十を下らない数の暴走族らが押し寄せてくるのを見たクリストファーは、いくらフェリックスでも囲まれてサンドバッグにされるのではないかと、顔を真っ青にした。
自分でも訳が分からないまま、冷静に佇んでいるフェリックスの脇から飛び出したクリストファーは、姉がサルバドルに食らわせたのと同じようにして、二番手の男にスライディングキックをお見舞いする！ 低姿勢で滑り込んできたクリストファーに、脛を蹴られた暴走族は、段差に躓いたように盛大に転倒した。
「クリストファー！？」
驚愕したフェリックスは、ほんの一瞬だけ、仰向けになったクリストファーを見下ろす。三番手の男が火炎瓶を投げつけて来たので、クリストファーは丸太のように転がって回避する。ガシャン！ と音がした後、小規模な炎がクリストファーが元居たところに発生する。
直後、フェリックスが三番手の男の顔面に、鋭い跳び蹴りを浴びせた！ 呆気なくダウンした三番手の男の仇を取ろうと、残る暴走族らがフェリックスを取り囲んだが、彼らは次々とちぎっては投げられてゆく。子どもゆえの身体の小ささを活かした、クリストファーのスライディングキックや脛へのローキック、踏み付けなどの援護攻撃に助けられながら、フェリックスは無傷で暴走族らを制圧していった。
「今すぐあの騒乱を収めよ！ 手遅れになる前に！」
大聖堂に仕える高位の聖職者は、観客席の最後列などで待機している、ＢＡＳスタッフ一人ひとりを指差しながら叫ぶ。
「ハハハ。こんなこともあろうかと、大聖堂全体を囲うように、もう一つの見えない壁を展開しておいた。内部にいる人間たちは、誰一人とも死にやせんよ。見えない壁の副作用が懸念されるほど、奴らが長時間暴れていたら、その時は力づくで従わせてやる」
年季の入った聖職者の隣に立つジャスティンは、二人のアーティストが演じている死闘に勝るとも劣らない、一般人たちによる場外乱闘を見物しながら言った。
「聞いておらんぞ！？ どれほど聖地を犯せば気が済むのだ！？」
「そうカリカリするな。大切な信者に逃げられてしまうぞ。このジャスティン様による、至上の戦闘エンターテインメントを、心ゆくまで楽しんでゆくがよい。――いや、それにしても、これは期待以上だな」
堅物の聖職者のことは無視して、ジャスティンは悠々と乱闘騒ぎを眺めていた。
互いの顔を引っ掻き合ったり、洗濯たたきを奪い合っているヘディとファビオラ。複数人の暴走族らに大立ち回りを演じているフェリックスとクリストファー。大乱闘を遠巻きに眺めているビビは、ウサギの人形をギュッと抱き締めながら涙を堪え、庇うようにピーターが両手を広げて立っている。
一人、また一人と暴走族らの増援がやって来るが、ビルンバウム家の戦いぶりに闘志を刺激されたノイシュウィーン村の人々は、数人がかりで彼らを拘束したり、身を呈して凶器を取り上げている。腕っぷしに自信がない人たちも、手近なものを暴走族目掛けて投げつけたり、戦うこと自体ができない人たちは、必死に声を張り上げて応援していた。
ステージ内部の死闘も激しさを増し、一瞬の隙を突かれたサルバドルが投げ飛ばされたり、磁力のメーションによってクリスティーネが吹っ飛ばされる度に、場内のボルテージが上がってゆく。
「オラァ！ 金返せや！ サンドバッグ女！」
「調子こいてヒーローぶってんじゃねぇぞ、クソが！」
ライブではなく、サンドバッグにされた人間が殴られ放題になるのを観たい階上廊の暴走族たちが、不穏な空気を漂わせる。片腕と片足を機能不全にされて、大幅に弱体化されたサルバドルが、素人目で見ても不利だと理解できるほど押されているのだ。
突如、両側の階上廊それぞれの最前列にいた暴走族たちが、手すりを乗り越え、見えない壁を突破しようとした。強烈な向かい風に吹かれているかのように、その動作はゆっくりとしたものだ。放置しておけば、奴らは集団でクリスティーネに暴行を加えるに違いない……！
階上廊の片側、今にも見えない壁を突破してステージに飛び降り乱入しようとしていた暴走族たちは、何の前触れもなく手前に倒れてしまう。
「あぁん！？ あんだこれ！？」
彼らが揃って、違和感を感じた自分の足首を見ると、ジャンクで作られたカラフルな蔦が絡んでいた。
「ゴミ女かぁ！？」
誰かがそう叫んだ直後、密集していた暴走族全員が、身体中ジャンクの蔦に縛られてしまう。身動きができなくなった奴らを見下ろして、ロジータがくすくす笑う。
「予め、この辺にジャンクパウダーをばら撒いていたんだよねー。あんたちバカで助かっちゃった。埃っぽいくらいにしか思わなかったでしょ？」
向こう側の階上廊ては、暴走族たちが流砂に飲まれたように下半身が埋もれていた。ロジータに先駆けて、健司がシャベルにイメージを集中させて”地面”を操ったのだろう。
「
（まだ倒れませんかっ……！）
気力を気力で削り合うような、泥臭い殴り合いにひた向きになっていたクリスティーネは、スタミナが切れる寸前、大きく後退して一旦間合いを取った。フルマラソンを終えた時のように、息をするだけで精一杯なクリスティーネが見据えるのは、右に左にフラフラと身体を揺らしている、崖っぷちのサルバドルだ。
（これ以上打ち合ったら、先に倒れるのは私の方かもしれません）
ふと気になって振り返ってみると、祭壇へと続く七段階段がすぐ後ろにあった。意識をサルバドルのみに集中していたのと、睡魔のように圧し掛かる疲労のせいで、現在地を確認するどころではなかった。
クリスティーネは、迷わず全速力で階段を駆け登る。当然サルバドルも、前のめりに倒れそうなふらふらのダッシュで追いかける。先に階段を登り切ったクリスティーネは、大きくバック宙返りをした。
そのまま、階段を登っている最中のサルバドルの頭部を後ろから両足で挟み込み（肩車の体勢）、もう一度バック宙返りをするかのような要領で、変則的なフランケンシュタイナー。高低差を利用し、回転しつつサルバドルの脳天を地面へと突き刺す！
「あーぅー……」
頭部に甚大な衝撃が走ったサルバドルは、蚊の鳴くような声を漏らし、仰向けに地面に伸びてしまった。クリスティーネは投げた後の勢いを利用し、素早くサルバドルの片腕を両手両足で挟み込み、渾身の力を込めて骨を折った！
「ウガアアアァァァーーー！！！」
背中を宙に浮かせながら、物凄い悲鳴をあげるサルバドル。両腕の骨が折れ、片膝の関節が損傷し、頭部への衝撃で眩暈を催しているサルバドルは、もう立ち上がることすら叶わない。
（こんな私が、皆さんから祝福される資格があるのか、分かりませんが……）
軽やかに回転してから立ち上がったクリスティーネは、筆舌に尽くしがたいほどに盛り上がった観客席を見回した。
ノイシュウィーン村の人々の周りでは、数多くの暴走族らがぐったりと伸びていた。階上廊に陣取っていた暴走族らは、口をジャンクの蔦で封じられたり、砂を吸いこんだりして、罵声を飛ばすことがままならない。
ファビオラはヘディに羽交い締めさえた上で、口を無理矢理押さえられている。最早クリスティーネの応援に駆けつけた人々を阻むような、無粋者など存在しない。聞こえてくるのは、全身全霊をもって発せられた、クリスティーネへの応援だけだ。
（でも皆さんは、私が勝利を収める瞬間を観るために、ここに訪れたはずです）
サルバドルからやや離れた位置に立つクリスティーネは、神様に懇願しながら後ろを見る。細長い通路の中間辺りに放置されていたディバイン＝メルシィが、時間経過によって元通りになっていた――！
クリスティーネはサルバドルを見据えたまま、後ろ歩きで二振りの短剣へと近づいてゆく。サルバドルは一瞬だけ立ち上がったが、覚束ない足取りのせいで、すぐに後方へと倒れ、階段上で仰向けとなった。
足元のディバイン＝メルシィを拾い、自動的に手錠が掛けられた瞬間、クリスティーネは全力疾走を開始する。接近するクリスティーネを目撃しても、サルバドルは指一本だに動かせない。
（ですから私は、自己満足ではなく、皆さんが本当に望んでいることを叶える為に――）
クリスティーネが両手を頭上に掲げた状態で、天高く跳躍する。空中にて一回転する中途で、短剣の剣身を伸張させて双鞭へと変形した。
「おい！ 出たぜ、クリストファー！ あの流れは――！」
そう叫んだピーターは、隣にいるクリストファーに目を遣った。「おまえの姉ちゃんが元気になって良かったな」とでも言いたげな、誇らしげな顔だ。
「うんっ！ グランドクロス！」
大きな声で言ったクリストファーは、勝利を確信して満足そうな面持ちになっている。
（捧げますっ！ 完全なる勝利をっ！）
ジャンプの頂点に達したクリスティーネは、十分なエネルギーが発生した双鞭を、サルバドルの露出した腹部目掛け、交差するように鋭く打ち下ろした！
元々サルバドルの腹部は、前半の鞭の嵐でみみず傷だらけなり、後半に何度もキックを受けたせいで、紫色一色に染まっていた。その傷全てを、巨大な十字の裂傷が上塗りする！
「ガア……ァ……ッ！？」
痛みは全く感じなかったが、サルバドルの視界は真っ黒に塗り潰された。電気ショックを受けたかのように、身体がくの字になる。数秒後、サルバドルは七段階段の上で大の字になり、遂に意識を手放して白目となった。
祭壇に着地し、両手を全開に広げたまま、二本の鞭を縮小させるクリスティーネは、まるで十字架をその身で表しているかのよう。女神像と対面し、天窓から射し込む陽光を浴びるクリスティーネを観て、観客たちは最大級の叫び声をあげる。
これ以上の盛り上がりが起こり得るはずもなく、最高のタイミングでライブ終了のゴングが高鳴った。
ノイシュウィーン村人の祝福、東流津雲村人の囃子、ストリートチルドレンたちのはしゃぎ声、聖職者たちの静謐な呟き。それらを一身に受け、武器を鞘に収めて女神像を見上げるクリスティーネは、澄み切った気持ちで佇んでいた。分厚い雲の切れ目から神の後光を垣間見たかのような、深い安息を抱いている。
「ウアァー！ アアアァァァーーー！！」
時間経過とともに、ある程度クリスティーネの傷が癒えた頃、サルバドルは意識を取り戻すなり、両手両足をじたばたさせて泣き喚く。生贄を仕留めて、ヒーローとして大成する絶好の機会を逃したのが、相当悔しかったのだろうか。
「あらまあ、サルバドルちゃん！ 皆たちにいじめられて、怖かったわね～！」
拍手をしようとヘディが羽交い締めを解いた為に、自由になったファビオラは、見えない壁の外側から内側へと侵入していた。羽ばたくように両手を動かしながら、祭壇へと続く青いフロアーを走る。七段階段の上で大の字になっているサルバドルの、上半身を起こして抱えてやると、赤ん坊に対してそうするように頭を撫でてやる。
「おぉ～よちよちよち。いい子でしゅね～」
しまいにはサルバドルの傷らだけの額にキスをしてみせた。得も言われぬ気色悪さによって、勝利の美酒に酔っていた大勢の観客たちは、バケツの水をぶっ掛けられたかのように押し黙る。
「よし。クリスティーネ、そこのババアを君の鞭で裁いてやれ」
ジャスティンは見えない壁の外側から、野太い声で指示を出した。何とも言えない表情で、祭壇の上からファビオラを見下ろしていたクリスティーネは、ジャスティンに対して丸く見開いた目を向ける。
「えっ、ですが……」
サルバドルならまだしも、アーティストではないファビオラに危害を加えるのは、正義の味方としてあるべき姿ではない。サルバドルとともに積み重ねてきた悪行への義憤や、スネークターミナルでやられた際の私怨を捨て去った訳ではないが、感情に任せて
「案ずるな。ファビオラがサンドバッグにされる姿を、ここにいる全員が望んでいるのだ。全ての元凶に鉄槌を下した暁には、君は真のヒーローになれる」
ヒーローという言葉が聞こえた瞬間、サルバドルは唐突もなく泣き止んだ。
「あら～、サルバドルちゃん！ とても痛い痛いしているのに、私のことを守ってくれるの？ ありがとうね～！」
狂犬の上半身を抱きかかえたまま、ファビオラはギラついた笑い顔を浮かべた。
「ここでは暴力が全てなのだよ。観客を楽しませるためなら、どんな行為でも許される。仲間を裏切ろうが、実の親にパンチを叩きこんでもな。さあ、忌まわしき
ジャスティンが喋っている間、クリスティーネは拳を握り締めて俯いていた。場内の反応は賛否両論といったところで、「もう十分でしょ！」とクリスティーネが子どもの夢を壊すのを観たくない人もいれば、「あなたがやらなきゃ誰がやるの！？」と感情的に叫ぶ、あるいは理知的に知らしめている人もいる。
「いい子ね～、サルバドルちゃん！ 本当にいい子よ～！ サルバドルちゃんが仏様から授かったパワーで、これからも皆たちの”願い”を叶えてあげて頂戴ね～」
立ち上がったサルバドルを正面から抱き締めたまま、ファビオラが恍惚の表情で語った。
「エヘッ、エヘヘッヘッヘッヘ……！」
サルバドルは、気味の悪い笑い顔を顔に張り付けたまま、不気味に笑っている。
「君は欲しくないのかね？ 家族が一生遊んで暮らせるようなギャラと、数多の命を救済した英雄として永遠に称えられる栄誉が。さあ、やれ！ ヒーローになってこい！」
ジャスティンが言い終わると同時に、七段階段の下にいるファビオラが、祭壇の上で佇むクリスティーネを指差しながら言った。
「サルバドルちゃん！ 今度こそあの疫病神をやっつけなさい！ あの女は、あなたに祟りを振り撒く悪魔なのよ！」
「ホワアアアァァァーーー！！！」
奇声を発したサルバドルが、七段階段を駆け上がり、クリスティーネの顔面に見えないパンチを叩きこむ――はずだった。だが、えげつない音とともに吹き飛ばされたのはファビオラの方だった！ 老婆は蹴鞠のように何度も弾み、そして無様に転げ回る。
「サルバドルちゃん！？ どうしたの！？」
鼻の骨が砕かれた激痛に悶えながら、両手で顔を覆ったままファビオラが見上げたのは、だらしない笑い顔をしたサルバドル。
「ギャハハ！ ぶっ殺せー！」
主に暴走族らを中心とした大規模な歓声は、サルバドルを満足させて余りあるものだった。
「ヒャアアアァァァーーー！！！」
狂喜したサルバドルが凄まじい奇声をあげると、ガントレットで殴られたことで磁力を帯びたファビオラが、両膝立ちのまま吸い寄せられてゆく。
「サルバドルちゃん！ レイラ中の皆たちが観ているわよ！ 疫病神のお祓いをして、正義の味方になるチャンスよ！」
非力なファビオラが、両手を使って後ろに行こうとしても、吸い寄せられる力には勝てない。サルバドルの真下に来た後、顔面からガントレットにくっついてしまったファビオラは、すぐそばにあった木の長椅子に、力任せに叩きつけられた！
「キャーッ！」
赤ん坊のようなはしゃぎ声とともに、長椅子は木っ端微塵になった。尚もガントレットに引っ付いたままのファビオラは、顔中棘のような木屑が刺さって、瞬く間に潰れたジャムパンのような醜い姿に貶められる。
サルバドルは飼い主を片手に引っ提げたまま、見えない壁の前に立った。例の如く、空いた方の片腕で何度も見えない壁を殴りつけてから、ファビオラの身体を押し付けて磔にする。呆気にとられてクリスティーネや半数ほどの観客が立ち尽くす中、やっぱり場内に響いているのは「殺せー！」などといった、暴走族による原始的な叫び。
「やめなさい、サルバドルちゃん！ 私がどんな酷いことをしたって言うの！？ いつまでもサルバドルちゃんの味方をしてあげるって言ってたじゃない！」
再度熱を帯びてきた汚らしい歓声で、ファビオラの危機感が頂点に達したのだろう。宙に固定されたまま、両手両足をパタパタさせ、潰れたジャムパンのようになった顔は、両目が閉じていて皺だらけ。
「アー！ アー！ アー！ アー！」
サルバドルはバンザイをしたまま、ぐるぐるとその場で旋回を始めた。まるで自分こそがヒーローであることを誇るかのように。不毛の地、スネークターミナルのお山の大将ではなく、レイラ中の人々に恐怖を刷り込める地位にあり付いた事実を、観客たちの目に焼き付けるかのように。
「それとも私のやり方が悪かったの！？ だったらこれからは、もっと頑張るから許して！ サルバドルちゃんのことを、レイラで一番偉い人間にしてあげるから！ ねぇ！」
涎を垂らして惚けているサルバドルには、もうファビオラの命乞いは聞こえていない。ジャスティンの”真のヒーロー”という言葉が何度も脳内で木霊し、暴走族だけではなく、少なくない数の一般客の歓声が、心地良く耳を打つ。
「ンアアアァァァーーー！！！」
サルバドルは狂気じみた笑い顔を浮かべたまま、ファビオラの顔面にパンチを打ち込んだ！ 見えないほど速いパンチを、おおよそ三十発ほど叩きこまれている間、ファビオラは「ブワアアァァーー！」と聞くに堪えない喚き声を漏らしていた。クリスティーネがフィニッシュムーブを決めた時には及ばないが、かなり大きな歓声が轟く。
顔面への打撃に飽きたサルバドルは、磔のまま動かなくなったファビオラの全身をぶん殴り、あらゆる骨を次々と粉砕していった。ロープで縛りつけられた小動物や、今まで戦ってきたアーティストたちに対してそうするように。既にファビオラはサルバドルにとっての保護者などではなく、優越感を得るためのサンドバッグにしか過ぎない。
「アキャアーーー！！！」
心底嬉しそうな奇声をあげたサルバドルは、両手両足があらぬ方向に曲がり、身体の節々が腫れあがったファビオラを、ガントレットにくっ付けて引き剥がす。そのまま祭壇へと続く青フロアーの中央に立つと、これ見よがしにファビオラを地面に叩き付けた。
超高層ビルの屋上から投げ捨てられて、ガラクタになったマネキンも同然のファビオラは、ピクリとも動かない。主に暴走族らの大歓声を浴びるサルバドルは、狂気じみた笑い顔を張り付けたまま、その場でぐるぐる回っている。
「ハハ。真のヒーローは貴様だったという訳か。いいだろう、私は公平だ。ギャラと栄誉は貴様にくれてやる」
思いっ切り手を打ち鳴らしながら、野太い声で言い聞かせるジャスティンは、とても満足そうな表情だ。サルバドルはジャスティンの目の前まで駆け寄り、涎を垂らした笑い顔を見えない壁に張り付けた。
「貴様専用の最高級ホテルをあてがい、毎日たらふくのディナーを用意してやろう。これからはサンドバッグにも事欠かない。レイラ中のアーティストが、貴様に殴り飛ばされるのを待っている。今から貴様のボスは、このジャスティン様だ。いいな？」
ジャスティンが見えない壁越しに、指を差しながら強く言うと、サルバドルは故障した猿人形のように、物凄い速度で顔を上下に動かした。目を爛々と輝かせながら。
「よし、契約成立だな。まあ、今日の所はゆっくり休むがいい。控え室で私の部下が、首を長くして待っている。真のヒーローをエスコートするためにな」
「アアアァァァーーー！！！」
両手をあげてサルバドルが雄叫びを上げた瞬間、その身体は見えない光に包まれて消え去った。ＢＡＳドームの控え室へ瞬間移動したという訳だ。
ジャスティンは階上廊にて狂喜する暴走族らを見上げると、両手をおもむろに広げながら叫ぶ。
「サルバドルの勇姿を拝みたいなら、いつでもＢＡＳドームに来るがいい。このジャスティン様が、最高級のエンターテインメントを用意してやる。今回の興行のお詫びと言っては何だが、一回限りなら入場料をチャラにしてやらなくもない。あぁ、それとファビオラ、貴様はクビだ」
単細胞な暴走族たちは、「お詫びに」という下手な態度と、一回限りとはいえ、無料でサルバドルのライブを観戦できる機会を得たことで、大いに沸き立った。ステージ中央で無様に横たわるファビオラのことは、全く眼中にない。
無関係な人間に八つ当たりするほどの殺気はすっかり消え失せている。暴力と残虐性しか持ち得ない、暴走族らにとっての偶像の意に、全面的に賛同しているのだ。狂ったように笑う暴走族らは、一人、また一人と、満足げに観客席から立ち去ってゆく。
「あぁ……サルバドルの拘束は成功したのか？ ――そうか！ その飼い犬が人様に迷惑を掛けないよう、拘束具の状態は万全にしておけよ。最初の数戦以外は、どうせ噛ませ犬としてこき使うのだから、多少なら薬物を投与して黙らせても構わん。他の者には、『見事な働きぶりだ』と伝えておけ」
部下からの報告を受けたジャスティンは、携帯電話の電源を切ってポケットにしまうと、やり切った表情となった。
「実に不愉快である。数多の生命を殺めた救い難き悪魔に、大金と名誉を宛がう、その浅慮が。増長した悪魔が齎す惨禍と、贖罪無き悪魔が死後に行き着く場所を考えよ」
すぐ隣に立っていた高位の聖職者は、苦虫を噛み潰したかのような顔で呟いた。
「奴をムショにブチ込んだところで、潔く反省するとは思えんがな。どうせ野放しにしても粗相を起こすのだ。リードに繋がれている方がマシだろう？」
スーツのポケットに手を突っ込みながらジャスティンが言うと、聖職者は怒りで身を震わせるのであった。
「最初から、仲間割れを誘発して、事態を丸く収める魂胆だったのですか」
困惑して立ち尽くしていたクリスティーネを、険しい面持ちで見守っていたフェリックスが呟く。
「お姉ちゃんが優しいのは、皆わかっているもんね」
姉が手を汚さずに済んだので、クリストファーは胸を撫で下ろした。と、横から飛び出て来たヘディが、見えない壁を片手に突っこんでから、激しい吹雪の中を歩くかのような重い足取りで、少しずつステージ内部へと侵入してゆく。
「あれ、お母ちゃん？」
クリストファーがポカンと口を開く。フェリックスは目を丸くしたが、見えない壁を突破しつつあるヘディを、黙って見守ることにした。
大聖堂の出入り口へと向かう暴走族らの行列を、呆然と眺めていたクリスティーネは、徐々に歓声が鳴りを潜めつつあることを察する。何事かと思って、祭壇の上から観客席のあちらこちらを確認するが、何の変哲もない。
もしやファビオラが復活したのかと、クリスティーネが視線を下に落とした瞬間。捨て置かれたファビオラを、水溜りを避けるような足運びで迂回し、真っ直ぐに走ってくる母親のヘディと目が合った。
手の甲や頬にある切り傷などが、完全には塞がっていないため、クリスティーネは未だに少量の血を流し続けている。そんなことは厭わずに、ヘディは七段の階段を駆け登ると、クリスティーネを痛いくらいに抱き締めた。
「あぁ、クリスティーネ……！ あなたがこんなに痛い目見てると分かってたら、もっと優しい言い方ができたのに……！」
涙声で言ったヘディを、無意識に優しく抱きとめたクリスティーネ。クリスティーネの胸に顔を埋めているヘディの方が、むしろ抱き締められているかのようだ。
「私っておバカだから、言われないと分からないのよ。ごめんね……」
見えない壁の内部にいるせいで、すすり泣く声さえも大聖堂に響き渡ってしまう。しんみりとした空気が立ち込めて、観客たちは沈黙してしまった。
「今まで心配ばかり掛けて、本当にごめんなさい。――でも、もう大丈夫です。これからは、一人だけで背負わないように心掛けますっ」
天窓から射し込む神々しい光の下、母と娘は暫く抱き合っていた。血で汚れたクリスティーネの頬や両手が接触するせいで、徐々にヘディの白ブラウスも赤く染まってゆく。本能や高揚感に身を任せて叫び狂うのが、憚られる情景だった。
あれから一週間。正午を迎えたばかりの、パルトメリス私立教会堂のキッチンにて。
先日この部屋を念入りに掃除したばかりで、木目のフロアーやステンレスのシンクは、いつも以上にピカピカに輝いている。使い古しの丸テーブルの上には、ちょっとだけ贅沢して買ってみた、白と青のカントリーな花柄刺繍のテーブルクロス。丸テーブルの中央には、これまた新調された薔薇を模したガラス細工の花瓶があり、挿されているのは昨日咲いたばかりの新しい花。
とても平和で、ありふれていて、心安らぐ場所。現実世界にまで波及した、血を血で洗う争乱や、何もない空間にさえ亀裂が見えるほど、ギスギスしていた空気。全てが遠い昔の出来事のように思える。
「どこで買ってきたの？ あの服」
木椅子に座っている、白ブラウス赤エプロンのヘディが、頬杖をつきながら聞いた。テーブルを挟んで向かい合って座る、赤青チェックの襟が付いたブルーのシャツと、青色のジーンズを着こなした、ピーターに対して。何も言わないが、黒長い衣装を着たフェリックスも、木椅子に座っている。
「ＢＡＳドームのデパートエリアだよ。女の子っぽ過ぎる服屋さんだったから、恥ずかしかったけど」
今日は先のライブで、クリスティーネが華々しい勝利を飾ったことを、盛大に祝う日なのだ。無茶な命令に付き従わせたことへの謝辞もあってか、ジャスティンはクリスティーネに破格の報酬を支払ったのだ。クリスティーネは、応援してくれた人々にお礼をするために、自らの意思で今日のパーティを提案した。
ノイシュウィーン村の人々は勿論、東流津雲村人や、更にはラ・ラウニのストリートチルドレンたちまで来てくれるのだ。そんな一大イベントに、禁欲的な水色ローブを着て出席するなんて、ちょっと勿体ない。だからクリストファーは、密かに貯金していたお金を使って、クリスティーネに服をプレゼントしたのだ。
「なるほどねぇ～。結構高そうに見えたけど納得。この辺にはああいう垢抜けたの売ってないし。よくあんたの小遣いで買えたわね」
今頃クリスティーネは私室に籠って、慣れない私服を着るのに骨を折っていることだろう。クリストファーの、「その服を着たお姉ちゃんを最初に見るのは、ぼくたちだからね！」というワガママによって、他の三人はリビングで待機せざるを得ない。思ったより時間が掛かっているようなので、暇潰しに他愛もない話をしている。
「半分くらいはぼくのお金だけど、ピーターやビビも出してくれたんだ。ちょっとだけお金が余っちゃったから、ポケットに特別な刺繍をしてもらった。お姉ちゃんらしいのを」
意気揚々と語るクリストファーを見て、フェリックスは厳かに微笑んだ。
「あなたも大人になりましたね。如何でしたか？ 愛する人に物を捧げる行為は」
「あんんまり損した気分じゃないかも」
もう自分も一人前の男なんだぞと、澄ましたような顔で、しかし口元が緩んでしまうのは我慢できないクリストファーが答える。
「クリスティーネも、同じような気持ちだったのでしょうね。きっと至福の内に在ったのでしょう」
何かに付けて説教臭くなってしまうのは、生真面目な聖職者故の性なのだろうか。
それから数秒とも経たずに、キッチンの扉がゆっくりと開かれた。父と母と弟が、一斉に注目してきたので、僅かな隙間から顔だけを出しているクリスティーネは、頬を染めて立ち止まっている。
――いつもは糸のように細めているクリスティーネの目が、ぱっちりと開かれているだけでも、かなり異なった印象を受ける。頭巾で隠されている、クリーム色の天然パーマと犬耳が露わになっていて、ふんわりとした雰囲気だ。小恥ずかしくなりながらも、クリスティーネは横向き歩きで隙間を通り抜け、身体の全てをキッチンに入れ込んだ。
「あぁ～！ クリスティーネが女の子デビューしてる～！」
その晴れ姿を見て真っ先に声を上げたのは、性別が一緒のヘディだった。
明るい色の縞模様シャツの上に、愛らしいクリーム色のフード付きパーカー。襟元から垂れている、二本の紐の先端には、ファンシーな花のボタンが付いている。
腰回りにある二つあるポケットの表面には、クリストファーが言った”特別な刺繍”である、可憐なブドウの刺繍が施されていた。ブドウと言えば、クリスティーネの大好物。確かにクリスティーネらしい刺繍だなと、ヘディは心の中で笑う。
下半身は、もこもこな小さな茶色の球がいくつも付いた、ブラウンベースのスカートだ。そこはかとなくカントリーな彩りは、ノイシュウィーン村の村娘としても違和感ないし、凝ったディティールに着目すれば、”自由都市メネスト”のような大都会でも通用するファッショナブルさであることが分かる。
「変じゃないですよね、私……？」
男性二人組が何も言わないので、クリスティーネは不安がった。ヘディが子どものようにはしゃいでいるから、フェリックスやクリストファーが口を挟む余地がない。
「似合う似合う～！ 服がもこもこ、髪ももこもこで可愛いわね～！」
ヘディは嬉々とした声を投げ掛けながら、両手でクリスティーネの天然パーマをくしゃくしゃ触った。
「くすぐったいです」
むず痒そうに目を細めたクリスティーネは、飼い主に頭を撫でられた子犬のようだった。嫌そうに犬耳をピクピクとさせているが、満更でもなさそう。
「女の子デビューですか。クリスティーネもそろそろ、花嫁修業を始めるべきかもしれませんね」
フェリックスは感慨深そうにため息をついた。髪を触るのを止めてヘディが遠ざかると、クリスティーネが困惑した面持ちで聞き返す。
「花嫁……？」
「そうですとも。すぐにとは言いませんが、いずれは良き婿を迎え入れなければなりません。子孫を残すためにも」
別段、色恋沙汰を禁じられている訳ではなかったが、クリスティーネはそういう青春のことを他人事のように思っていた。だというのに、ある日目が覚めたら誰かと身体が入れ替わったかのように、自分の領域へと急接近してきたものだから、心の準備ができてない。真面目なクリスティーネは、まずは恋愛についての指南書を買うべきなのだろうかと悩む。
「ちょっとやだ～フェリックス～。セクハラ発言じゃないのそれ～」
ヘディは笑いながら、木椅子でくつろいでいるフェリックスに近付くと、冗談っぽくその肩をペシッと叩いた。目を丸くし、しきりに瞬きをしたフェリックスは、生真面目さ故に何がセクハラに該当したのか分からない。ヘディの心が汚れているだけかもしれないが。
「良き婿って、具体的にはどのような……？ 私には、どのようなお方が相応しいのでしょうか？」
誰に対しても平等に接するよう心掛けてきたクリスティーネは、無意識に人を好きになる衝動を抑えていたのかもしれない。付き合いたい、一緒に居たいという男性が、家族以外には思い当たらないのだ。
「クリスティーネが好きになった人で大丈夫よ～。深く考える必要なんてないわ。赤い糸で繋がった運命の人こそが、神さまの思し召しなんだから。ね？」
ヘディはフェリックスの顔を横から覗きこんだ。束の間、フェリックスが再度しきりに瞬きをした後、クリスティーネの方を向いておもむろに頷いた。
「お姉ちゃんとお付き合いしてみたいって言う人、紹介してあげよっか？」
姉の前に立ったクリストファーは、得意げな顔をしてみせた。村のヒーローのお姉ちゃんにも分からないことがあるんだぞと、細やかな対抗心を燃やしているのが見て取れる。
「えっ、誰ですか！？」
当然クリスティーネは目を見開き、ドキッとした心臓を胸の上から押さえ付けた。
「なになに誰それ！？ 教えてクリストファー！ 年上！？ 年下！？」
感情豊かなヘディは、娘以上に驚いてしまったようで、後ろからクリストファーの両肩を掴んで早口でまくしたてる。
「いやーもう、秘密だってば。言ったらお母ちゃん、本人に直接聞きに行くから、ぼくが喋ったってことバレるじゃん」
うんざりとした様子で親に反抗するクリストファー。身体を揺すられるのに合わせて、さり気なく背中とお尻でヘディを突き飛ばそうとしている。
「言い当ててみましょうか。東流津雲村の方々ですね。事あるごとにクリスティーネを娶りたいと、仰っていられますから」
東流津雲村の人々がノイシュウィーン村を訪れる度、「いつも愚女がお世話になっております」と頭を下げに出迎えているフェリックスが言った。彼らは決まり文句のように「クリスちゃんが嫁に来てくれりゃーな！」と言っているのだろう。
「あんなの九割方社交辞令に決まっているじゃない！ クリストファーがわざわざ言うからには、ノイシュウィーン村の子どもたちが怪しいわね～！」
クリストファーを押さえ付けながら、呆れたように言い放つヘディ。前を向いたり、後ろを向いたりで忙しそうだ。
「だからうるさいってばっ！ 離せよ！」
割と本気で嫌がっているクリストファーは、反抗期に入っていてもおかしくない年頃だろうし、この戦いはきっと長引くことだろう。
（なんだか、昔に戻ったみたいです）
バトル・アーティストになってから、クリスティーネはあらゆる面で変貌を遂げた。無垢を保ってきた手が血に塗れたこともそうだし、私生活においても今まで以上に交友関係が広がった。救いようのない悪人に自ら裁きを下す日のことは、空想世界の出来事としか思っていなかったが、このような可愛い服を自分が着る姿は、そもそも想像すらできなかった。
家族が貧困に喘ぐ姿を見たくない――つまり、昔と同じままでいて欲しいという一心で、アーティストになったクリスティーネは、危うく生まれ育った場所まで変貌させてしまうところだった。こうして他愛もないやり取りができる家族を、守り抜くことができたのは、神の慈悲によるものなのか。それとも、他でもない家族や隣人の愛によるものなのか。
未だに悪魔の、あるいはジャスティンの術中に嵌まっているのではないかと、密かに恐れていたクリスティーネ。見慣れた光景を目の当たりにした今、遂に心の底からほっとすることができたのだ。慈愛に満ちた糸のように細い目が、取り戻されてゆく。
緑生い茂る山々の遥か向こうを目指して、穏やかに雲が流れてゆく。陽光は柔らかく、穏やかな風にそよぐのは大切に育てられた色とりどりの花木。
黄緑色の芝生に囲まれた、パルトメリス私立教会堂の噴水広場。ノイシュウィーン村のささやかな憩いの場は、かつてない程の大人数で溢れ返っていた。子ども六人がドッジボールをしていれば、ヘディが「騒がしい」とうんざりするというのに、百人近くのバーベキューときたら、それはもう目が回るほど賑やかさ。
噴水を囲うように設置されたベンチの前に、東流津雲村やラ・ラウニから持ち寄られたテーブルが設置されている。紙皿の上には、焼き鳥やトウモロコシなどが載せられていて、生まれも育ちも違う人間たちが、楽しそうに会話しながらそれらを頬張る。
こんな賑やかな光景は、クリスティーネだけに限らず、ノイシュウィーン村の誰もが思いもしなかったであろう。少しばかり誇張が行き過ぎていたが、大聖堂の財政難を守るために戦うというクリスティーネの望みは、ようやく成就されたのだと誰もが実感している。大聖堂を守るどころか、村の生活が更に豊かになっている。そのきっかけを作ってくれたクリスティーネは、疑いようもなくこの村のヒーローだ。
「お、クリスティーネ？」
甘酸っぱいのに優しい食感のブドウ餅を、ここぞとばかりに次々と口の中に放り込んでいた、花柄のエプロンドレスを着ているロジータ。
「ロジータさん、お待たせしましたっ」
もこもこパーカー姿のクリスティーネが、微笑みながら隣に座ると、物珍しげな視線を送ってきた。
「なんか一気に都会派っぽくなっちゃったね。誰からのおさがりなの？」
清貧一直線で、使い古された物を大切に扱うクリスティーネが、自分のお金で贅沢をするとはロジータには思えない。
「失礼なっ。クリストファーはじめ、村の子どもたちが買って下さったのですよ」
今日だけでも女性らしく、服のことを褒められたかったのだろう。心外なことを言われたクリスティーネは、滅多にないことに、僅かながら眉を顰めた。
「あーそうなんだ。ヒヒヒ！ ごめんごめん。これあげちゃうから許して」
友人の意外な一面があまりにも滑稽だったのか、ロジータは大笑いしてしまった。声を出して笑いながらも、簡易椅子に置いてあった白い液体入りの細長い瓶を差し出した。
「これは……生クリームですか？」
差し出された瓶を受け取ったクリスティーネは、それをくるくると回転させながら、まじまじと見つめている。
「違う、違う。エクストラヴァージンココナッツオイルだっての。食べてよし、塗ってよし、髪の毛のお手入れにもよしの優れもの。ラ・ラウニの特産品さ。今までくれたセーターの代金ってことで、”家族”たちで少しずつお金を出して買ったんだ」
言い終わると同時に、ちゃっかりブドウ餅を口の中に入れるロジータ。
「ストリートチルドレンの皆さんに、ありがとうございますとお伝えください。髪の毛のお手入れですかっ……！」
座ったまま軽く頭を下げたクリスティーネは、ラベルに書かれている使用方法についての文章を読み進めた。早くも花嫁修業に取り組んでいる。
「あー、でも身体に合う合わないがあるらしいから、変な感じしちゃったら言ってね。あたしが責任もって回収するから」
狡猾で強かなロジータのことだから、わざとクリスティーネの体質に合わないプレゼントを寄越して、結局は自分の物としてお預かりする作戦なのかもしれない。素直でいい子だったクリスティーネも、ロジータと行動するうちに、スラム街でも生き抜けるようなずる賢さを、それとなく培っていた。
「そうなったら多分、お母さんにあげると思います」
「ちょっと、そりゃないって！ 色んな意味でさ！」
まさか反撃されるとは思っていなかったロジータは、簡易テーブルの上に顎を乗せると、半目でクリスティーネを見上げるのであった。
しばらく、美味しい食べ物をつまみながら二人で雑談した。初対面はラ・ラウニおける出張ライブで殴り合い、以降このように親睦を深めながらも、時々トレーニングエリアで斬ったり突いたり投げ飛ばしたりしている。時には行き違いで精神的にも傷つけ合ったが、傷口が塞がると何事もなかったかのように平和が訪れるのが、クリスティーネは未だに不思議でならないのだ。
「クリスティーネお姉ちゃーん」
聞き慣れた小さな声は、確かにクリスティーネの耳に届いた。時間が短く感じられるような楽しい雑談を中断して、クリスティーネが振り返ったので、つられてロジータも振り返る。
ウサギの人形を大事そうに抱えている、白いワンピースを着たウサギ人間のビビ。伏し目がちのまま、物言いたげにまん丸おめめで見上げてくるが、黙りこくっている。
「……ほら、言えって！ おまえが作ったプレゼントなんだろ！」
ビビの背後に突っ立っていた狐人間のピーターが、偉そうに言ってのけた。大聖堂における一件以来、先輩風を吹かせるための子分を欲しがっていたピーターと、密かにクリスティーネお姉ちゃん以外の遊び相手を探していたビビは、意気投合して親しい仲に。ちょっと乱暴者だけど頼れるお兄ちゃんと、引っ込み思案だけど優しい妹といった風に、周囲からは見做されている。
「これあげる」
ウサギ人形の背中にあるオープンファスナーを開け、中から真新しい十字架のネックレスを取り出したビビ。やはりウサギを模した大きなカバンのように思えるが、ビビは断固として「お人形さん」だと言い張っている。
「まあ！ ビビさんが作って下さったのですか？」
ビビの小さな手にのせられたアクセサリーを、手に取りながら言ったクリスティーネ。よく見ると、十字架の中心には絵本に出てくるようなウサギの顔がある。ビビが抱き締めているウサギ人形と同じような、点のような両目と罰点のような口がある、何とも微笑ましいウサギの顔だ。
「クリスティーネお姉ちゃんが負けないようにって、村の銀細工師と一緒に作ったんだぜ。今度戦うバイストフィリアとかいうやつ、サルバドル以上に頭おかしくてヤバいんだろ？」
妹分が言えずにいることを代弁したピーターは、ビビの背中を押してやりながら、二人一緒にクリスティーネの方へと近づいてゆく。
「いつの間にそれを……？ あっ、クリストファーですね」
今度のライブで戦う相手を、クリストファー以外の人間には言った覚えがない。大金星の余韻と安息の日々に浸りたくて、自分からＢＡＳに関する話題を振りたくなかったのだ。村一番のヒーローに関する最新情報を、誰よりも早くお届けすることに使命感を燃やしているクリストファーが、しつこく次の対戦相手の情報開示を迫って来たので、仕方なく打ち明けた結果がこれだ。
「出世コースじゃん、それ！ かなり稼げるよ！」
既にノイシュウィーン村人の大半は知っている情報だろうが、色々ドタバタしていてクリスティーネの近事情を知らずにいたロジータは、身を乗り出してそう言った。
「怖い？」
至近距離から、赤くてまん丸の両目で上目遣いをしてくるビビ。吸い寄せられるように魅入ったクリスティーネは、自然と笑みが零れてしまった。
「怖くて泣きそうになった時は、ビビさんの笑顔を思い出しますよ」
今後もクリスティーネは、よほどの優勢でない限りは、ライブ中に笑っていられることはないだろう。そうでなくても、何かと自分を責めてしまうクリスティーネは、ふとした瞬間に笑顔を忘れがちだ。
そういう時、誰かが代わりに笑ってくれることを思い出すのが、とても効果的だと教えてもらった。自分が受けている苦痛は、誰かが受けるはずだった苦痛を代わりに背負っているからだと考えればいい。聖職者なりの処世術だ。
「今度のライブは、村の子ども連れて応援に行くからな！ おれが応援団長だ！」
クリストファーに次ぐ、クリスティーネ親衛隊と自負しているピーターは、自信満々にそう言った。
「絶対怖くて泣いちゃう子とか出てくるよ。あたしはどうでもいいけど」
ラ・ラウニでの一戦の際、割と生々しい戦闘シーンにピーターたちが思わずビビったことを、観戦していたストリートチルドレンから聞いているロジータ。温室育ちが背伸びしているのがおかしくて、からかわずにはいられない。
「なんだと！？」
臆病者だと言われたことを根に持っているピーターは、一歩踏み出してロジータを睨み付けた。
「みんなー！ 手羽先ちゃんできたでー！」
小競り合いが勃発するかのように思われた瞬間、バーベキューコンロの前に立つ健司の逞しい声が響いてきたので、一同は一斉に噴水の方に視線を移した。
「行きましょうか」
楽しそうに言ったクリスティーネが先陣を切ると、他の人間も弾むような足取りで、手を振っている健司の方に歩いて行くのであった。