Bearing the Cross Part1

 自動車やスマートフォンが普及しながら、魔法や超能力などと呼ばれることもある『メーション』すらもありふれている世界。その名はレイラ。大昔より、アメリカや日本という国家が存在する『隣の世界』から、文化的に多大な影響を受けてきた。

 そのレイラのとある地方に、緑生い茂る美しい山々に囲まれたノイシュウィーン村がある。点在する緩やかな傾斜のレンガ屋根の数々は、黄緑色の草原と共に、柔らかな朝の陽射しを照り返している。この村一番の早起きであるパンおじさんは、古きよきパン工房の煙突から昇らせている。
 ノイシュウィーン村の近隣では観光業が盛んで、夏はハイキング、冬はスキー場の名スポットとして有名。観光客の多くは、村から離れたリゾートエリアで休暇を堪能するため、村中余所者でごった返して騒々しくなることは滅多にない。
 今日も平和なノイシュウィーン村では、小さな木のバスケットを片手に持つ赤緑チェックスカートの少女や、大きな木の籠を両手に持つ白ブラウス黒エプロンの主婦が、パンの煙突から立ち昇る『狼煙』を目指して通りを行く。窓のそばで欠伸と背伸びをしている少年と目が合えば、お使い中の少女が楽しそうに手を振ってくれるし、知り合いが同じように家の中から木の籠を持って出てくれば、軽い挨拶の後に並んでお喋りしながらパン屋を目指す。
 女性だけではない、男性だって早起きでは負けていない。畜産業が盛んなノイシュウィーン村の男たちは、乳牛や馬を世話するために日の出前から働いている。小麦やリンゴ、ブドウなどを育てる農夫たちも同様だ。
 学校はある程度日が昇ってから始まるが、大抵の子どもたちは両親と同時に起床する。農家の子どもの場合は仕事を手伝わされるし、パン屋にお使いに行くのが日課の子どももいる。「今日は雨だから早起きの必要はない」という言いわけは利かない。雨の日なら、掃除などといった家事を手伝う必要があるからだ。何の仕事が無かったとしても、都会へ遊びに行くためには朝一のバスに乗らねばならないため、結局早起きする。
 ノイシュウィーン村では誰もが早起きだが、その目的は各々違うということだ。

 ただ一世帯だけ、極めて異質な目的で早起きする一家がある。
 その一家は、村の中心部から少々離れた、緩やかな上り坂を登った小高い丘の上、パルトメリス私立教会堂に住んでいる。血の繋がった家族が教会堂に住んでいるというのは、よくよく考えれば首を傾げたくなるものだが、『私立』の教会堂なのだから細かいことは気にしない。由緒正しい立派な聖職者の家系なのだから、決して胡散臭くはない。
 正三角形に近い灰色の屋根と、現代的な時計を張りつけた尖塔が特徴的な教会堂。小さな噴水と敷石を囲うように、黄緑色の芝生が敷き詰められ、様々な花木が植えられた教会堂の庭は、村の子どもたちが鬼ごっこやかくれんぼをするにはもってこいの広さ。
 その教会堂の庭で、朝の稽古に励んでいるお姉さんの名はクリスティーネ。この教会堂に住むビルンバウム家の長女だ。
 身体つきはしなやかで身長は高め。いつもは糸のように優しく細い目をしているが、稽古中の今はカッと見開いている。スリットの入った水色ローブに、黒ストッキング、神聖なお守りのネックレスという、動きやすいような工夫を凝らした修道服。服の所々に十字架があしらわれている。
 そして、クリーム色の天然パーマの両側から垂れさがる犬耳と、ふさふさな尻尾。クリスティーネの先祖は、きっとワンワンと吠えていた犬だったのだろう。長い年月を掛けて二足直立歩行と言語を覚え、犬人間に進化してきたのだ。犬耳と犬の尻尾はその名残。隣の世界とは違って、獣のような尻尾や耳をを持つ人間の方がレイラでは多い。『人間』の範疇も極めて広い。

 現在クリスティーネは、ナイフを持った敵を素手で制する練習をしている。刃引きのナイフを振り回して銀行強盗を演じている父親、フェリックス=ビルンバウムの隙を窺っているのだ。
 至る所に十字架をあしらった黒くて長い衣装の上に、ポンチョ状の黒い祭服を着るフェリックス。娘と同じような神聖なネックレスを身に付けており、金髪の刈り上げの左右ではこれまた同じような犬耳が垂れ下がっている。もちろん、ふさふさな尻尾も同様だ。
「ッシャー! コイ、オラ! ぶっ刺すぞオラー!」
 本職の暴力団顔負けの怒号を発するフェリックス。生真面目な聖職者であるフェリックスは、何事に対しても真摯に対応する人格者だが、こんなにも全力で演技をする必要があるのだろうか?
「こらっ! そんな危ないもの振り回してはいけませんっ!」
 少し甲高い声で警告する(訓練をする)クリスティーネ。敵を倒すのではなく、あくまで村人を危害から守るための訓練なのだから、可能な限り穏便に事を済ませようとする心がけは殊勝だ。しかし、見てるこっちが歯痒くなる演技は不要だというのが、この朝稽古を見た一般人らの総意。
 一直線にフェリックスへ向かって疾走するクリスティーネ。飛んで火にいる夏の虫が如く、振り回される刃引きナイフに自ら当たってしまうかのように思われた。だが、水平に薙ぎ払われたナイフのを低姿勢になって躱すと、そのままアメリカンフットボールのタックルよろしく、フェリックスを芝生に押し倒す。
「オラ! 舐めんな、コルァ! ぶっ殺すぞゴルァ!」
 そう叫んだフェリックスが反撃するよりも速く、クリスティーネは自分と胸と腕でナイフを持つ父親の腕を拘束した。更に両膝でフェリックスの顔と胸を跨ぎ、そのまま後ろに倒れれば関節技が完成するだろう。
 フェリックスは、拘束された方の腕をクリスティーネの股間に押しこんで脱出しようとしたり、顔の上にあるクリスティーネの膝をもう片方の手で押し上げて抵抗する。ただの暴漢には真似のできない芸当だが、それがフェリックスの『愛の鞭』なのだろう。
「大人しくナイフを離してくださいっ!」
「うっせーぞゴルゥア! テメェこそ腕を離しやがれ!」
 先にクリスティーネが関節技を極めるか、それともフェリックスが脱出するのか。遠間からなら、もつれ合ったまま静止したように見える。色々と誤解されてもおかしくない体勢だ。

 そんな生真面目親子を眺める悪ガキが、噴水からやや離れた低木の陰に二人――。
「な、おかしいだろ。ぼくの父ちゃんとお姉ちゃん。ああいう風に叫ぶの、恥ずかしくてやなんだよね」
 若干甲高い声でそう囁いた片割れの名は、クリストファー=ビルンバウム。クリスティーネの弟だ。若草色の修道服を着ているが、面倒臭くてダサいと言う理由で、十字架のネックレスを着けてはいない。側頭部から垂れ下がった犬耳と、ふさふさな尻尾は家族と同じ。ショートヘアにした髪の色は、父親と同じ金色だ。
「うわぁ……。フェリックスさんこぇー……。クリスティーネ姉ちゃんもこぇー……。いつもあんなに優しいのに」
 真っ青な顔でそう述べたのは、悪友ピーター=クライスラー。緑の半そでに、赤のジャージズボン、そして金髪ウェーブの悪ガキ。黄金色でふさふさな二股の尻尾と、金髪が逆立ったかのような二枚の耳から、先祖が狐だったことを推測できる。代々農夫の家系なので、毎朝渋々父親の仕事を手伝っているが、その父親は只今二日酔いでダウン中だ。
「怖い? バカみたいにしか見えないけど」
 生真面目に稽古をするあまり、却って滑稽に見える二人を見せて笑わせるつもりだったクリストファーは、震え上がるピーターを見て不思議がる。
「いや、だってこぇーよ……。二人とも目がやべぇ……。いつもあんなに優しいのに」
 この教会堂に遊びに来ると必ず相手をしてくれて、ちょっとしたイタズラも笑顔で許してくれる、クリスティーネ姉ちゃんとフェリックスおじさん。裏の顔を知らない純粋な悪ガキにとっては、あまりにも刺激が強かった。
「ふーん……」
 奇異の目で悪友を見ていたクリストファーは、とてもそそられるイタズラを思いついた。
「ねぇ、ピーター。どうしてお姉ちゃんたちが稽古してるか知ってる?」
「そりゃあ……悪い奴らをやっつけるためだろ」
 酔っぱらいが暴れたときや、本物の銀行強盗襲来したときなどは、クリスティーネが勇敢に戦っていたことをピーターは知っている。
「違うんだよねぇ、それが。救いようのない悪人を暗殺するための訓練なんだよ」
「暗殺……人殺しかよ!?」
 いよいよ目に見えるほどに震えだすピーター。
「その通りっ! ぼくの先祖はね、救いようのない悪人から人々を守るために、自ら暗殺者になったんだよ。おかげでぼくの先祖は破門されちゃったけどね。それからぼくの家系は、代々聖職者であり、暗殺者なんだよ」
「クリスティーネ姉ちゃんもか!?」
「もちろんっ!」
 クリスティーネが暗殺者というのは嘘だが、その他は概ね真実だ。もっとも、近年になってビルンバウム家は暗殺稼業から足を洗い、村人を守るためだけに戦うようになったのだが。数の少ない警察官以上の働きぶりを見せるため、村人からの信頼は絶大なもの。
「どうしよう……おれ、同じクラスの女のシャーペン盗んだり、オフクロのヘソクリ勝手に使ってたりしたけどさ、これって救いようのない悪人になんのかな……?」
「そういえば、お姉ちゃん言ってたなぁ。ピーターが花壇を荒らしたり、他の子どもをぶったりするのはやめて欲しいって。いつもおやつの時言っているんだ」
 ニヤニヤしながら言ったクリストファーの肩を掴み、激しく揺らすピーターは必死だ。
「頼む、クリストファー! クリスティーネお姉ちゃんにおれを殺さないように言ってくれ!」
「えーっ、なんでほくが? 自分で謝れよ」
「おれが一人で謝りに行ったら、殺してくださいってのと同じもんだぜ! おれ死にたくねぇよ! まだトレーディングカードゲームTCGの大会で優勝してねぇよ!」
「うーん……」
わんぱく坊主かつガキ大将として悪名高いピーターを、ここまで追い詰められるとは痛快極まりない。日頃のお返しと言わんばかりに、クリストファーがトドメを刺す。
「じゃあ、この前あてたウルトラレアのをくれたらいいよ。ぼくだってお姉ちゃんに殺されるかもだからね。タダでやるつもりはないよ」
「分かった、分かった! もう賭け試合でおまえからぶんどったカード、全部返してやるぜ! だから頼む、絶対に!」
「しょうがないなぁー」

 クスクス笑っているクリストファーと、ほっとして両手で顔を覆ったピーターに、二筋の長い影が射す。低木の陰に隠れたままクリストファーが見上げると、厳しい顔をしたフェリックスと、不思議そうな面持ちとなっているクリスティーネと目があった。
「クリストファー……風邪で体調が優れなかった筈ですよね?」
 ピーターがクリストファーの肩を激しく揺すり始めた辺りから、声に気づいた親子が一部始終を眺めていたらしい。
「えーっと……ピーターがお姉ちゃんに用事があるって言うから……」
 そう言ったクリストファーに見られたピーターは、ガサリと低木を揺らしながら立ち上がり、深く頭を下げながら言った。
「クリスティーネお姉ちゃん、ごめん! 許して! 何でもするから!」
「えぇ……? 別にいいですけど。それが私へのご用事ですか?」
 若干甲高い声で答えたクリスティーネが困惑する。普段は意地を張って決して謝らないピーターが、珍しく必死に謝るものだから驚いてしまい、理由が分からないままに許してしまった。稽古の盗み見をしてしまったことを謝ったのかと思ったが、わざわざ確認するのも億劫だ。
「どんな理由があるにせよ、嘘をついて稽古から逃げ出すのは感心しませんね。一度や二度ならばまだしも、あなたが無精をしたのは数知れません。――クリストファー。私は安易な体罰には断固反対しますが、あなたは成長が遅れているのですよ」
 持っていた刃引きナイフの切っ先を、クリストファーに向けるフェリックス。このまま息子との稽古を始めるつもりらしい。
「えぇーっ!? 今からやるの!?」
「やべぇやべぇやべぇ!」
 クリストファーは後ずさりし、ピーターは屈んで頭を抱える。
「お父さん、待ってください。もしかすると、ピーターさんは私たちと一緒に稽古をしたかったのではないでしょうか?」
 クリスティーネが父親に手を伸ばして呼び止めると、ピーターの閉じられた目が大きく見開く。しめたものだとクリストファーは考え、ピーターをじーっと見下ろして「話を合わせろ」と合図を送る。
「……確かに。そうかもしれません。朝早くに忍び込んでまで稽古を見ると言うことは、それほど強い興味を抱いていることの証左となりますね」
 フェリックスが厳かに頷くと、クリスティーネは糸のように優しく目を細めた。この糸目こそが、ピーターがよく知っている優しそうなクリスティーネの目つきだ。
「はいっ。ピーターさん、私で宜しければ、武術のいろはについて教えてあげますよ。いつもチャンバラごっこをしているピーターさんなら、こういうの好きですよねっ」
「ど、ど、ど、どういうの……!?」
 堅物親子が勝手に話を進めることに、ピーターはただならぬ危険を感じている。
「申し訳ありません、クリストファー。私は師として、弟子の士気の維持を疎かにしておりました。良き隣人と共に励むならば、厳しい稽古も楽しいものとなるでしょう。ささ、二人ともこちらへ」
 身を乗り出したフェリックスが手を差し伸べた瞬間、ピーターは立ち上がって全速力で逃げだした!
「助けて! 殺される! 事故を装って殺される! 誰かぁー!」
「おい、一人だけで逃げるなよーっ!」
 何度も転びそうになるピーターを追って、クリストファーも駆けだした。堅物親子は、ピーターが何を叫んでいるのか理解できずに、呆然と顔を見合わせるのであった。

 

 同日、昼下がり。平べったい灰色の雲が徐々に迫っていて、今夜は一雨降りそうだ。
 ビビ=ブラームスという、クリスティーネお姉ちゃん大好きっ子の一人が、パルトメリス私立教会堂に向かう坂をうんしょ、よいしょと登っていた。か弱い身体で、大きくてまんまるな赤い目をしたこの子は、ピンと張ったウサギの耳を持つ兎人間の女の子。真っ白なワンピースがお気に入りで、口数少ない引っ込み思案。
 村の男の子たちがドッジボールやTCGで遊び、女の子たちがお菓子作りやお絵かきで遊んでいる中、ビビだけが一人ぼっちでウサギの人形とおままごと。それはそれで楽しいものだが、時々窓の外で遊ぶ子どもたちを眺めては、ムスッとむくれることも少なくない。本当は皆と一緒に遊びたいのだが、恥ずかしくて自分から話しかけることができないのだ。
 そんなビビにとっては、クリスティーネお姉ちゃんが実質唯一の遊び相手。教会堂に行けば、クリスティーネが忙しなく箒で落ち葉を掻き集めても、スコップで雪かきをしていても、必ずその手を止めて遊び相手になってくれる。私室に招いて、ウサギの人形を交えての三人でお茶会を開いてくれるし、本も一緒に読んでくれる。兄弟姉妹がおらず、両親も多忙がちビビは、ウサギの人形とともにほぼ毎日教会堂に通っている。

 下校の時間になると、ビビは誰よりも早く学校を出た。道すがら、ブドウ園で作業する農夫を盗み見たり、柵越しに馬の頭を撫でてやったり、寄り道しながら遊び場に向かう。そうして教会堂に到着したビビは、目をぱちくりさせながら噴水広場を見渡した。
 クリスティーネは、噴水と敷石を囲うように植えられた花々の手入れをしている。屈んだまま花壇に手を突っ込んみ、雑草を引っこ抜いてはすぐ横に放り投げている。ふさふさの犬の尻尾をゆらゆらと動かしていて、何となく楽しそう。
 ウサギのような赤い目を上目遣いにして、そっとクリスティーネへと近づくビビ。身体が華奢なせいで、敷石を歩いても芝生を踏んでも、あまり足音は聞こえなかった。
「クリスティーネお姉ちゃーん」
 背後から声を掛けられたクリスティーネは、ようやくビビに気が付いた。
「まあっ、ビビさんじゃないですか。こんにちは!」
 クリスティーネは屈んだまま振り返ると同時に、作業軍手を外して懐にしまう。
「こんにちは、クリスティーネお姉ちゃん」
 ビビが小さな口をもぞもぞと動かす。
「今日は何をして遊びましょう? エルフリーデ(ウサギの人形のこと)と一緒に、おままごとでもしましょうか? あぁ、そういえば読みかけの絵本もありましたね。一緒に読みます?」
 ビビの引っ込み思案をよく知っているクリスティーネは、いつもこのように聞くことにしている。普段ならここで「おままごとがいい」とか、「絵本が読みたい」とか言ってくれるのだが、今日はそのどちらでもなかった。
 ウサギ人形の背中にあるオープンファスナーを開け、中から水色の薄っぺらい物を取り出したビビ。このウサギ人形、実はウサギを模した大きなカバンなのではないかと睨んでいるクリスティーネだが、ビビは「お人形さん」だと言い張っている。
「これ、あげる。学校の授業でつくったの」
 それは、水色の紙で折られた蝶だった。
「わあっ、ありがとうございます、ビビさん! 素敵な折り紙ですねっ」
 差し出された紙飛行機を、慎重に両手で受け止めるクリスティーネ。――よく見ると、蝶の折り紙は微かに羽ばたいている。

「ただの折り紙じゃないよ。魔法の折り紙。学校で作ったの」
 目線を同じくしているが、それでもやっぱり恥ずかしいのか、ビビは上目がちに説明した。
「魔法ですか。メーションともいいますよね。ビビさん、とってもメーションが上手なんですねっ」
 思い描いたイメージを現実化させる技術のことをメーションと呼ぶ。Image substantiation、意訳してイメージの実体化という言語の略称だが、子どもには魔法と言ってあげた方が分かりやすいだろう。メーションは当人にとって現実離れしているイメージほど、より高度な習熟が要求され、より多大なスタミナを消耗してしまう。
 折り紙の蝶が、まるで生きているかのように羽ばたくイメージなら、子どもにも簡単にイメージできる。つまり、とても簡単なメーションだと言うことだ。子どもの体力妖精を目的として鬼ごっこをさせるように、授業でメーションについて教える際、子どもが喜ぶような題材として『羽ばたく蝶』が用意されたのだろう。
「わたし、先生に褒められたんだよ。クラスで一番、魔法が上手だって」
 確かに、普段から絵本を読んで空想に耽ったり、ウサギの人形とおままごとをして会話しているビビは、イメージを創る機会が多い分メーションが得意そうだ。
「お姉ちゃん、願い事を言って。そのちょうちょはね、みんなの願いをお空に運んでくれるの」
 無粋な言い方をすると、この蝶に「飛んでほしい」というイメージを注げば、ひとりでに飛び立つメーションが掛けられている。ビビのようにメーションが上手くなくても問題ない。科学的な例えをするなら、電波を受けたラジコン飛行機が飛び立つようなものだ。
「願いごとですか? ――ノイシュウイーン村の皆さんが、末永く幸せでありますように」
 クリスティーネは蝶を載せた手を胸の前におき、律儀にも目を瞑って祈った。
「それが願いごとなの?」
「はい。皆さんが幸せだと、私も幸せですからっ」
 満面の笑みでクリスティーネが言う。
「ふーん……?」
 ビビが不思議そうに瞬きを繰り返していると、「飛んで欲しい」というクリスティーネのイメージに反応して、手のひらから折り紙の蝶が飛び立った。
「あっ、飛びましたね!」
 本物のようにひらひら舞う折り紙の蝶を、きらきら輝く目で見上げる二人。右へ左へ大きく揺れる蝶は、お伽噺の国から遊びに来た妖精のように綺麗だ。蝶の動きに合わせて、ウサギの耳を左右に動かすビビと、それを見て幸せそうに微笑むクリスティーネ。

 注がれたイメージパワーが徐々に減衰するとともに、蝶の動きが危なっかしくなる。そろそろ回収した方がが良いだろうと、クリスティーネが手を伸ばした瞬間、ついに蝶はバランスを失う。
「あっ……」
 蝶は下降線を辿るような軌道で、広場の中央にある噴水にポトンと落ちてしまった。
「あぁ……!」
 噴水に駆け付けたクリスティーネは、恋人の浮気現場を目撃したかのように目を見開いて、水面で揺れる折り紙の蝶を見下ろしていた。
「落ちちゃった」
 抱えたウサギの人形と共にクリスティーネの横に並んだビビは、特に悲しむ様子も見せなかった。
「ごめんなさい、申し訳ありません! せっかくビビさんが、心を籠めて作って下さったのにっ……!」
 両側頭部から垂れ下がる自分の犬耳を下に引っ張っているのは、冷静さを失ったクリスティーネがよくやるクセだ。
「噴水は夢の国への入り口なんだよ。コインを入れるのは、女神さまにお願い事をするためなんだって」
 特に慰めるつもりもなく、強がるわけでもなく、自分が言いたいことをビビは言った。童話を読んで知ったのか、家族からそう教わったのか。
「私が責任もって乾かします。本当にごめんなさい」
 罪悪感に駆られたクリスティーネは、ポイで金魚を掬い上げるかのように、慎重な動作で合わせた両手を水面に伸ばす。その両手は、小刻みに震えていた。
「沈むまで待とうよ。そうすればちょうちょは、みんなの願い事を乗せて夢の国に行けるんだよ」
 ビビはこの噴水が夢の国に繋がっていると、本当に信じているらしい。確かにレイラは、大昔から『隣の世界』をはじめ数多くの異世界と交流してきた歴史があるし、瓢箪から駒が出る可能性も無くはない。
「いえ、私がやります。私のせいで、こんなことになりましたから」
 ビビの方を向いたクリスティーネは、目を見開いたまま首を横に振った。
「なんで? 願い事が叶わなくてもいいの?」
「無理してそう言わなくてもいいんですよ、ビビさん。罰を受けるべきは私です」
 ビビの幸せを心の底から望むクリスティーネは、つまらないミスを犯した自分が許せなかった。当のビビは全く気にしていないどころか、むしろ蝶が噴水に落ちたことを喜んでいるようにも見受けられるが、クリスティーネはビビが悲しんでいるに違いないと決めつけている。
 ビビは、なぜクリスティーネがそんなに謝るのかが理解できず、しきりに瞬きをしながら俯いてしまった。

(あ~もう。この季節はホント旅行客が少なくて困るわね。早く帰れるのはいいけど、その分パート代が減っちゃうわ)
 ちょうどその頃、クリスティーネの母であるヘディ=ビルンバウムが、教会堂に続く登り坂を歩いていた。緩やかな赤ベストに白ブラウス。グレーのロングスカートに、白い十字模様の前垂れ。ノイシュウィーン村の多くの主婦と似通った恰好をしているヘディは、フェリックスやクリスティーネのような聖職者の生まれではないため、世俗的な性格をしている。息子のクリストファーは母親似なのだろう。
 ちなみに、クリーム色の天然パーマの側頭部からは垂れ下がった犬耳があり、ふさふさの尻尾もある。ノイシュウィーン村には、ビルンバウム家のような犬人間が結構多い。かくいうヘディもこの村の出身だ。
(でもせっかくだし、久しぶりにおやつでも作ってみようかしらね~。ブドウのココアマドレーヌとかいいかも~! 二人ともきっと喜ぶわ。あ、でもビビちゃんも来ているだろうから多分三人、いやもっと多いかも――って)
 やっとの思いで坂を登り切ったヘディは、噴水の縁で目を大きく見開いている娘を目撃する。クリスティーネがあんな風に目を見開いているのは、稽古の時を除けば過剰な良心に囚われている時だとよく知っている。
「もしかして、濡れてしまった蝶々さんが嫌ですか? でしたら、私が新しい蝶々さんを作ってあげます。それで許されるとは思っていませんが」
「いらない。ちょうちょが返ってくるのを待ってるもん」
 ヘディは僅かなやり取りを聞いて、大袈裟になっているクリスティーネのせいでビビが気まずい思いをしていることを察した。
「あら~、ビビちゃんこんにちは! よく来てくれたわね~。それにエルフリーデちゃんも!」
 早歩きで二人の傍に近付きながら、笑顔を作ったヘディが早口で言う。
「こんにちはー」
 ビビは90度ほどその場で回転して、上目遣いになりながら挨拶した。ウサギの人形も、ビビに後頭部を押されてお辞儀で挨拶。
「あ、お母さん――」
「今日はパートが早く終わったのよ~。お客様が来なくって暇で暇で、給料払う意味が無いって言われてね~。そうだ! せっかくだし、おやつを作ってあげるわ~!」
 ヘディはクリスティーネが何か言い掛けたのを遮り、強引に話を展開した。
「ビビちゃんのだ~いすきな、ブドウのタルトがいいかしら? ちょうどブドウが余っちゃっているのよね~。ビビちゃん、他にお友達はいる?」
「いない」
「あっら~! じゃあビビちゃんと私とクリスティーネで、ブドウのタルトを山分けできるわね。あ、でもクリストファーの分も残しておかないとねぇ~! さぁ~早速作るわよ~クリスティーネ。ビビちゃん、ちょっと待っててね」
 そそくさと話をまとめたヘディは、上目遣いのまま立ち尽くすビビに背中を見せ、教会堂の裏口へと歩いてゆく。さり気なく、しょんぼりとしていたクリスティーネの手を引っ張り、隣で歩かせながら小声で説教。

「クリスティーネ。あなたが何をしでかしたか分からないけど、小さい子にあんな風な態度をみせたらダメでしょ。困らせちゃうだけじゃない。特にビビちゃんは口下手だし」
「そうですけど……」
 そう発したクリスティーネの顔を覗きながら、ヘディは続ける。
「分かってるわ。誠意をもって悔い改めなければ気が済まない。そうでしょ? だったら神様の前で懺悔しなさいよ。皆がみんな、神様の教えを理解して生きてるわけじゃないの。村の人たちは、ごめんなさいと言えば許してくれるでしょ」
「ですが、だからと言って……」
 教会堂の陰になってところで立ち止まったヘディは、腕組みをしながらクリスティーネと向き合った。
「お父さんはあなたに、清い人間であれと常に言っているけど、人間は罪を犯してもある程度は仕方ないのよ。お父さんの言葉を借りれば、人間は罪の塊として生まれてきたんだし、小さな罪が多少増えようが変わりがないのよ。私やビビちゃんのような一般人からすればね。必要以上に謝ってビビちゃんを困らせたら、むしろ『傲慢』と言う名の罪が増えるんじゃないかしら? シロウト意見だけど」
 クリスティーネは罪悪感を過剰に抱きやすく、そのせいで暴走してしまうことが多々ある。別の言い方をすれば、神経質かつ強迫観念が強い。罪人が行き着く先の地獄を恐れているわけでもなく、聖職者の面汚しと罵られることを恐れているわけでもなく。神に仕える者としての使命にあまりにも忠実なためか、とにかく完璧な善人でいたがるのだ。
「まぁ、あなたの考え方を否定するつもりは無いけど、もう大人なんだし人の前で取り乱したらだめよ。厳しいことを言うようだけど、頑張って練習しなさい」
「はい、気を付けます」
 クリスティーネは深々と頭を下げると、ヘディはさっぱりと笑顔になった。
「ブドウのタルトは、私一人で作ってくるわ。あなたはビビちゃんの相手をしてあげて。笑顔を大切にね」
「分かりました」
 何とか糸のような目を取り戻した、丁寧な足取りで教会堂の陰から躍り出る。そして、噴水の縁に掴まって、水面に浮かぶ折り紙の蝶を眺めているビビの方に、急ぎ足で行くのであった。
(いくつになっても頑固な子よね~。そんなに頼りにされたいのかしら)
 ヘディはすぐには裏口の扉を開かず、腕組みのまま考え込んでいた。
(私だって、頼りにされたいんだけどな~。色々打ち明けてくれた方が、親としても安心するし)

 

 今宵のパルトメリス私立教会堂はとても静かだ。しゃっくりに似たリスの鳴き声や、草笛に似たシカの鳴き声も聞こえない。代わりに雨がしとしと降る音が聴こえる。
 赤い絨毯が敷かれた私室の中、ナチュラルな木造りの椅子に座るクリスティーネは、編み物に没頭していた。素朴だが神秘性を帯びた宗教的な絵画が白い壁に飾られ、本棚には背表紙に十字架があしらわれた分厚い本がずらりと並ぶ。ロンググラスに挿された一輪の白い花が中央に置かれた、年季の入った低いテーブル。薄いカーテンが掛けられた窓の外は真っ暗だ。
 二本の棒針でクリスティーネが編んでいるものは、サイズの小さい白いセーター。ノイシュウィーン村の牧場で飼育されているヤギの毛が素材だ。
 これは恋人に贈るプレゼントではなく、擬似都市ラ・ラウニに数多くいるストリートチルドレンに贈るためのもの。ボロボロのシャツ一枚と粗末な敷物一枚で夜を明かすストリートチルドレンに、せめて暖かい衣服を寄付しようと決心したクリスティーネは、一年前から毎晩欠かさず編み物を続けている。完成したセーターをボランティア団体に預けて、代わりに届けてもらうこと十回以上。根本的な解決には程遠いことに歯痒さを覚えるものの、貧しい子どもたちを救うことこそが自分の使命だとクリスティーネは揺るがない。

 ようやくセーターを半分ほど編んだところで、クリスティーネは立ち上がり、棒針二本をセーターごと座っていた椅子に置いた。
(喉が渇きましたね。水を飲みましょう)
 若干疲れた様子でクリスティーネは歩きだし、見た目の割には軽い木のドアを開いた。余談だが、ノイシュウィーン村の水道水は、近場の山の湧水を利用している。言うなれば、蛇口を捻ればミネラルウォーターが飲み放題なのだ。
 赤く細長いカーペットが敷かれた木のフローリングの廊下を歩いていたクリスティーネは、開こうとしたキッチンのドアの前で思わず立ち止まる。向こうから聞こえてきた、うんざりしたように重苦しいヘディの声が聞こえてきたからだ。
「今月の給料はきっと少ないからな~。現状維持だと、ちょっと赤字になっちゃうかも?」
 続けざまに、フェリックスの厚みのある声も聞こえてくる。室内の丸テーブルで向かい合って、真面目な話をしているのだろう。
「ふむ……クリストファーにお小遣いを与え過ぎてしまいましたか。あの子は少々贅沢が過ぎる。言って聞かせて、反省させねば」
(入り辛い空気ですね……)
 盗み聞きをする趣味はないが、扉の前でじっと耳を澄ませるクリスティーネ。すぐにこの話が終わることを期待して、部屋に入って水を飲むタイミングを窺っているのだ。

「それはダメよ~。クリストファーのお小遣いは、ピーターみたいな他の男の子と比べたらずっと少ないわ。ロクに遊ばせられないなんて、かわいそうじゃない」
「お金がなくても、幸せになれる方法はたくさんありますよ。ボランティア団体の一員として、人々の笑顔を作るとか」
「発想が古いわね~。あなたらしい素敵な考えだと思うけど、今時ボランティア団体なんて、出会い目的と出世の踏み台としか考えていない人で溢れ返っているわ。本気で笑顔を作りたいと考えるなら、黙ってお金を寄付した方がよっぽどいいわ」
「そうなんですか?」
 驚きの声を発したフェリックスは、本当の意味で人々に尽くしているのだから、一般人によるボランティアの実態を知らなくても無理はない。
「そういう時代なのよ~。実力さえあれば、誰でもシカを狩ったり木の実を採れた時代と違って、今じゃ何を始めるにも許可とお金が必要だわ。お金がなくても何とかできた時代と違って、今はお金がなければ生きていけない時代になったのよ。人との触れ合いにも、人助けにもね」
 扉の前で立ち尽くしているクリスティーネは、間欠泉のように様々な想いが吹き上がる。
「要は私がお金を稼ぐようになれば、万事解決だと仰っているのでしょうか?」
「いや~ね~。そう言うことじゃないってば。ただ愚痴を垂れ流したかっただけよ。やる気だけには自信あるけど、この村には満足できるほど稼げる仕事なんて転がっていないし、かといって耕す土地も持ってないし。近場のリゾート地だってさ~、季節によって稼ぎの量が大きく変わるシステムだし。つくづく職業に恵まれないんだな~って。はぁ~」
 ヘディの大きなため息につられて、クリスティーネも思わずため息を漏らしてしまいそうだった。
「こんなしょうもない悩み、多分この村の皆が抱えているから、ヘタに愚痴って刺激したくないのよ。特にお金の悩みなんて、子どもの前では言いたくないし」
「大変ですね。私で宜しければ、いつでも相談に乗って差し上げましょう。それが夫として、神に仕える者として、私に課せられた義務ですから」
「堅っ苦しいわねぇ~その言い方! でもありがとう。頼りにしているわよ」

(私の知らない所で、お母さんは……)
 クリスティーネは水を飲む気も失せて、覚束ない足取りで私室へと戻って行った。愚痴はあくまで愚痴だから、それについて真剣に考えても仕方がないことであるが、黙って聞き流すことが出来ない。それどころか、母親の苦労や気持ちを察してやれなかった自分自身を責めている。あまりにも優しい性格が、クリスティーネを苦しめているのだ。
(現状に甘んじていました。村の皆さんに慕われているのを良いことに、私は怠惰な生活を……。今はお金がなければ生きていけない時代……クリストファーが不自由……)
 クリスティーネはベッドに座り、何とか『罪』を償う方法を必死に考えていた。面と向かって言われたならば、ここまで考え込むことはなかっただろうが、「子どもの前では言いたくない」というヘディの発言がグサリと刺さった。
 自分の陰口を聴いてしまったような心情に近しいのは、クリスティーネが完璧人間でいたがることが原因かもしれない。「子どもの前では言いたくない」とは、経済的にも能力的にも、クリスティーネはまだまだ未熟だとも解釈できるのだから。
(お母さんだけに迷惑を掛けるわけにはいきません。クリストファーにも、もっとのびのびとした生き方をさせてあげなければ。――でも私は、教会堂でお父さんの手伝いをしなければなりません。村を守る責任も追っていますから、仕事のために引っ越すわけにも……。あぁ、どうすればっ……)

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