「案外我慢強いな。もっと泣き喚くと思っていたよ」
うつ伏せのまま、血塗れの針でジュリアナの口を突き刺したブルーノは、掌から血の針を霧消させることなく、ゆっくりと立ち上がった。血飛沫を撒き散らしながら立ち上がる様は、惨殺死体が怨念によって蘇るかのようだ。観客席中央付近のミーハーたちは凍りつき、外周付近のアーティストや熱心なファンたちは、固唾を飲んで見守っている。
(冗談じゃないわ……! よくもこんな欠陥品を……!)
咥えられた極太の針のせいで、下手に身動きが取れないジュリアナは、ペルソナ=ネクターを作った部下を呪いながら、硬直していた。危ない薬を打った効果で、痛みは全く感じないし、ブルーノのプレッシャーに曝されて震え上がることもない。だが、本人にすら想定外だった致命的な弱点が露呈したことを悟り、思考が停止したのだ。
「今からお前の内臓を溶かすけど、どれくらい耐えられるかな……!」
鮮血で染まった燕尾服は最早緋色で、背から伸びる蝙蝠の両翼は所々が裂け、血塗れの顔に嗜虐的な笑みを浮かべるブルーノは、地獄の底から這いあがった吸血鬼そのものだった。ジュリアナの口に放り込んだ針の先端から、容赦なく強酸性の血液を噴射する!
痛みはほとんど感じなかったが、絶え間なく流れこむ血液のせいで、まともに息が出来ずに咳き込むジュリアナ。両手で血塗れの針を引き抜こうとするが、温室育ちのセレブの膂力などたかが知れてる。咳の音が生々しくなるにつれて、ジュリアナの口から撒き散らされる、強酸性の血液と自身の流血の量が増してゆく。女神像が設置された噴水の前が、不浄な血で穢されてゆく。
大量出血によって強大な力を得たブルーノと言えど、何度も高級なAMM入り化粧水を吹き掛けられた影響によって、長時間血の針を維持することはできなかった。しかし、弱体化されたメーションでも効き目は十二分にあり、咥えられた血の針が霧消すると同時に、ジュリアナは四つん這いとなって夥しい量の血を吐き出す。
騒ぎたがり、目立ちたがりのミーハーたちは、ここぞとばかりに悲鳴を上げたり、ジュリアナの名を叫んで応援した。その多くは、ジュリアナと同様に自尊心の塊のような女だから、下品でけたたましい金切り声ばかり。「こういう悲鳴をあげる私って、可愛いでしょ?」とでも言いたげな、わざとらしい悲鳴ばかりだ。
「最っ低な男ねぇ……! 有料放送されているライブで、女子に恥をかかせて、何が楽しいの!」
犬のように頭を垂れたまま、血に染まった歯を剥き出しにして、ジュリアナが被害者面をする。
「それが僕の仕事だよ。自らステージの上に立ったなら、やられる覚悟はできているはずだよね?」
得も言われぬ恐ろしい光を目に宿すブルーノは、淡々と歩を進め、長い影をジュリアナの背中に落とす。突き出した掌にイメージを集中させると、そこから巨大な血の球が射出され、四つん這いになっているジュリアナに覆い被さる! 強酸性の血球に囚われても、化粧液が膜となって肌が黒焦げにはならないが、水圧で動きを封じられた上に呼吸ができない!
血球が上昇し、その中心点はブルーノの目線と同じ高度となる。内部では、ジュリアナが泡を吐きながら、宇宙空間で吹っ飛ばされたように無様に回転し続けている。嘘か本当かも分からない、喧しい悲鳴が相変わらず響くが、観客席の外周は大いに盛り上がっていた。
「自分で化粧液を飲んで、思いついた作戦か! 考えてみりゃ、目や口が弱点っつーのはお約束なのにな!」
「化粧液を削ることや、纏うのを防ぐことに囚われていたせいね~!」
マルツィオとグロリアは、打って変わってハイテンション。ぐるぐると回るがままになるジュリアナを眺め、清々しい気分でいる。
「ハン! ざままみろだわ! デルフィーヌ、弱点を教えてくれてありがとう!」
陰湿な笑みのままドロテアが一瞬振り返り、礼を述べるとすぐにステージに目を向けた。
「そ、そうなんですか……」
二転三転するこの状況をよく理解できないデルフィーヌは、そわそわしながら周りの機嫌をうかがっているが、とりあえず自分の二本足で立つことはできていた。
「皆さんが喜べるようなら、何よりです」
クリスティーネは、断じて皮肉を言ったわけではない。ブルーノが追い詰められ、緊迫して物が言えぬ状況から脱却できたことに、胸を撫で下ろしているのだ。付け足すと、クリスティーネは心から人の不幸を喜ぶことができない、善人過ぎる性質なのだ。
「……おい、あいつメーションで何か現したぞ」
動体視力に優れるケヴィンは、ジュリアナの手に突如現れた物体を見逃さなかった。不恰好に回転しながらも、ジュリアナが両手を合わせると、ブルーノは危険を察知して身に大量の血液を纏う。
次の瞬間、血球の中から小規模な爆発が発生し、間近にいたブルーノは衝撃波でぶっ飛んだ! ジュリアナも同じようにぶっ飛ぶが、化粧液をおかげでほぼ無傷で済んでいる。
「攻撃型手榴弾で自爆したのかあ! あんな至近距離にいたら、いくらブルーノくんの血の鎧でも……!」
再び訪れた沈黙の中、レフが叫び声が観客席外周に響く。目玉が飛び出たり、手足が吹き飛ぶことはなかったものの、ブルーノは見えない壁と激突した挙句、地面に伸びてしまった。AMMが含まれた手榴弾の破片は、その高い殺傷力に相応する抵抗力で、強固な血の鎧を貫通したのだ。
(こんなことなら、もっと長く効く薬を打っておくべきだったわねぇ……!)
数本の蔦を伸ばして美容液を纏い直すジュリアナは、怒った子どものように上目遣いでブルーノを見ていた。本来なら、ブルーノが倒れた瞬間にライブが終わっていたから、その瞬間から逆算して危ない薬を使ったのだ。副作用を危惧して、必要最低限の時間だけ作用する薬を用いたのだが、アクシデント続きでライブが長引いた為、薬の効果が薄れつつあるのが実感できる。身体中に微かな痛みを感じているのだ。
ミーハーたちはと言うと、集団パニックを起こしていた。殆どの者は、わざと悲鳴をあげることで自分に酔っていたが、中にはこのグロテスクな光景に本気で恐怖していた者もいた。彼女らは過呼吸や失神に陥り、その症状は恐怖したフリをするミーハーにまで伝播するのだ。
いつしか観客席の大部分は、(下心のために)倒れた女性を介抱する者や、ジュリアナやブルーノに野次を飛ばして責任転嫁をする者で溢れかえった。観客席からやや離れた位置にある、等身大の円筒形をしたテレポート装置には、並んで待つことさえできない発狂したミーハーたちが、我先にと殺到して乱闘騒ぎになる。
「そのままカメラを回し続けろ。BASの何たるかを、テレビの前の新参者に教育する良い機会だからな」
混迷を極めるライブ会場を、豪邸の屋根から見下ろしながら、携帯電話で現場責任者に指示を出すジャスティン。
「女子に優しくできない人間の屑め! 責任取りなさいよねぇ!」
そう罵り、両手で顔を覆いながら駆けだしたジュリアナは、冷静な判断ができずにいる。決着を焦っているせいなのか、薬で興奮しているからなのか。
身に走る痛みは時間経過で激しくなり、間もなく地獄の責め苦によってライブどころではなくなるだろう。そうなる前に、ブルーノにトドメを刺したいのだ。ライブ終了のゴングが鳴らなかったとしても、明確な一撃をカメラに収めさえすれば、後日編集した映像を公開して勝利宣言ができる。
衝撃波の壁を間近で食らったブルーノは、未だ見えない壁に背中を預けて立ち上がれずにいた。血の鎧が殺傷力を弱めたおかげで、気絶だけは免れたが、ダメージは限界近くまで蓄積している。
朦朧とした視界に映るのは、憤怒の形相で突っ込んで来るジュリアナの姿。今まで見たことがない、ジュリアナの素顔。
(割と絵になるリアクションだ……!)
嗜虐的な笑みを浮かべたいところであったが、ブルーノは歯を食いしばり、気力で立ち上がろうとする。
「どうせ死んだふりだろ。さっさと立て」
「総力戦の決め手は兵の士気だよ! ブルーノくん、掛け声をあげて自らを鼓舞するんだ!」
「ブルーノさん、微力ながら私もお祈りしておりますっ!」
「ま……負けないでくださいぃ!」
「ねぇ、ブルーノさん、素敵なところ魅せて~!」
「絶好のモテチャンスじゃねーか、ブルーノ!」
「お願い、ブルーノ。私たちの代わりに……!」
野次や悲鳴で騒然とする観客席の中から、一際大きい熱烈な応援が耳に届いたのだろうか。ブルーノは素早く立ち上がり、掌から出した針の先端から大量の血を発射し、間近に迫ったジュリアナの足を圧力で圧し出す! 弱点となる頭部を両手で隠していたジュリアナは、傷こそ皆無だったものの転倒してしまう。
すかさずブルーノが、両手から無数の血液弾を乱射して、ジュリアナを蹂躙する! ライブ開始直後のラッシュも凄まじかったが、大量出血でパワーアップした今のブルーノは、それをも遥かに凌駕する手数で、ジュリアナが纏う化粧液を削ってゆく。
「熱っ! 痛っ! 審判、今すぐこの野郎を止めなさい! 早く!」
僅か数秒でペルソナ=ネクターを削り切られ、直に強酸性の血液を浴びせられるジュリアナは、激しくのた打ち回りながらスタッフに助けを乞う。もう殆ど薬の効果が切れていて、全てのアーティストが平等に味わうはずの激痛に屈しているのだ。
確かにステージの上に立つと、感じる痛みが軽減されるが、模擬戦で身体を慣らしていない素人には耐え難いほどには痛みを受ける。ましてや、痛みを与えることに特化した、ブルーノのメーションなら。
「苦痛に悶えてばかりだと、バトル・アーティストは務まらないよ」
攻撃の手を止めてかくいうブルーノも、瀕死のゴキブリのように身悶えするジュリアナに、とても重い足取りで近寄っている。顔を引き攣らせているが、それが嗜虐的な笑みを浮かべているように見えるのは、実績と経験を積み重ねてきたからに違いない。
「あんたみたいな負け犬はいいわねぇ! 誹謗中傷、殴る蹴るの乱暴に慣れっこでさぁ! あたしみたいなスーパーセレブは、ちょっとしたミスが命取りになる! ねぇ、分かる!? あんたたちには想像もつかないプレッシャーと、毎日戦っているの!」
「僕にそんなことを言ってどうするんだよ……」
浅く溜め息をついたブルーノは、全身を黒焦げにされて這い蹲っているジュリアナを見下ろしていた。
「ほんっと無神経ねぇ! つまり、天才でありながら負け犬に身を落としたあんたよりも、何を言われてもスーパーセレブであり続けたあたしの方が、ずっと偉いってこと! 勘違いしているみたいだけど、あんたがちやほやされる世の中なんてあり得ない! あたしが負け犬どもの身代わりになっているのを、ありがたく思いなさいよねぇ!」
よりによってジュリアナに負け犬呼ばわりされたブルーノは、目に宿した得も言われぬ光を強くさせる。威圧され、四つん這いのまま震え上がったジュリアナを見るに、既に薬の効果が切れてしまったようだ。
本物の悲鳴と大歓声が入り交じって聞こえるなか、忌まわしげにジュリアナを見下ろしていたブルーノは、ふいに掌から極太な血塗れの針を突き出すと、嗜虐的な笑みを浮かべた。
「そっか。悲劇のヒロインになりたいのか。だったら僕が手伝ってあげよう……!」
次の瞬間、ブルーノは片手を突き出すとともに、針でジュリアナの胴体を貫いた!
「よし! あれが決まったらゴングを鳴らせ。私は今からステージに急行する」
「把握いたしました、ジャスティン様」
現場責任者からの返答を聞くや否や、ジャスティンは携帯電話の電源を切った。
血塗れの針で貫かれたジュリアナの身体は、女神像が設置された噴水の真上へと持ち上げられる。
「誰か! 働きなさい! 早くして! この無能どもが!」
上から目線な言葉で助けを求めていたジュリアナは、突如全身を無数の針で貫かれ、絶句した。噴水に沿うように、地面から無数の針が突き上げて来て、それらは斜め下から容赦なくジュリアナを突き刺すのだ。
数多くの絶叫、そして大歓声がジュリアナの豪邸敷地内に響く中、やがて全ての血塗れの針は膨張し、大爆発! 針の内部に溜められた強酸性の血液が、ジュリアナの体内を余すことなく侵す!
「バイストフィリアの毒牙に掛かった悲劇のヒロイン……誰もが憐れんでくれると思うよ」
全身黒焦げにされた上に、血塗れとなったジュリアナは、力なく噴水に落下する。その水を真紅に染め上げるのを見て、ブルーノが勝利宣言をすると、高らかにゴングが鳴るのであった。
ミーハーたちが観客席を去ったことで、外周にいた人間たちは最前列に陣取ることができた。ブルーノは、血で染まった噴水の縁に座り、疲れ顔で項垂れている。
「よくやったブルーノ! デビュー以来の大金星じゃねーか!」
包帯とガーゼだらけじゃなかったら、マルツィオはブルーノに抱きついていただろう。
「いやあ、さすが拷問のプロフェッショナルは違うなあ!」
生贄として、ジュリアナとの負け戦を強要されたレフは、とても嬉しそうに語る。
「あの女、身体中染みだらけになっちゃったわね~!」
グロリアは本気で怒ると結構根に持つタイプらしく、憎きジュリアナが黒焦げにされたのを観て小躍りしていた。
「有料放送してんだろ? このライブ。マジで公開処刑だったな」
嘲笑うケヴィンは、ある意味で珍しく感情をストレートに表している。
「これで、ジュリアナさんも悔い改めるといいのですが……」
惜しみない拍手を送りながらも、クリスティーネはやっぱり心の底から人を憎むことができない。
「あ、あの、ありがとうございます……」
大歓声にそのか細い声は掻き消されてしまったが、デルフィーヌは確かに、ブルーノに礼を述べていた。
「やったわ……! ブルーノにこんなにも歓声が……!」
実に多くの賛辞が送られているのを聞いて、ドロテアは自分のことのように喜んでいる。
生粋のBASファンたちで沸き立っている噴水広場だったが、ジャスティンが姿を現すと呆気にとられて一瞬静まりかえる。強烈な向かい風に遭っているかのように、ゆっくりと前進しながら見えない壁を通り抜けたジャスティンは、大きな拍手を響かせながら物語る。
「素晴らしい働きっぷりだったよ、バイストフィリア君。やはり、この私が見込んだだけはある。全てが私の思う壺だ。ジュリアナが私の部下を買収することも、買収された演技をするスタッフどもに、貴様たちが騙されていたことも含めてな」
言い終わると、やや間を置いて再び拍手喝采が巻き起こった。BASのスタッフが、完全にジュリアナの傘下に入ったと勘違いしていた人々は、ジャスティンの一言を聞いて溜飲が下がる。豪邸の中から観戦している、媚びることしか能がないジュリアナの部下たちは、さぞかし真っ青になっていることだろう。
「来てたんですね、社長」
ある程度流血が治まったブルーノは、座ったまま振り返る。ステージの効果によって、受けた傷は著しく早く癒えるものの、立ち上がるのが億劫なくらい疲れている。
「この一大イベントを見逃すはずがあるかね? 奴自身が用意した大金で、奴自身がブックを作成し、奴自身がジョバー(やられ役)を引き受ける。奴自身は、ベビーフェイスのつもりでいるときた。類を見ない程に笑えるジョークだ」
「確かに……ふふ、笑えますね」
ブルーノが頬を緩めると同時に、観客席の全員が大笑い。ジュリアナへの嘲笑でもあり、BASが腐敗していない事実を知っての、安心したような笑いでもある。
(揃いも揃って、あたしのことを馬鹿にして……!)
真っ赤な水の中から、ジュリアナが水飛沫を散らしながら素早く起き上がる。一応言うと、見えない壁の内部では、溺死する恐れはない。
両手に握ったペルソナ=ネクターを、ブルーノとジャスティンの背中に吹き掛けようとする直前、観客の笑い声は「後ろ!」や「危ない!」などと言った叫び声に変わる。ほぼ同時に、ジャスティンが振り向き様に二丁の深海色の拳銃を発砲し、化粧瓶を撃ち抜いた!
「オレのサムライライトじゃねーか! あんな使い方すんのかよ!」
あの拳銃のオリジナルを所持するマルツィオは、嬉しさ半分、驚き半分で言った。ジャスティンは、既知の武器を(劣化品だが)複製するメーションに長けており、これはプロレスラー時代に凶器攻撃を得意としていた影響だという。付いた名前が、『ダーティー=フィーバー』。公然と他人の武器をパクり、肉体ではなく武器に頼るそのムーブは、絵に描いたような卑劣さ(dirty)だ。
不意打ちが失敗に終わったジュリアナは驚き、直後ジャスティンが鋭い踏み込みと共に、銃身下部に取り付けたスタンロッドで突いてきた! もろに食らったジュリアナは、身体が硬直して倒れてしまう。
「私を誰だと思っている? 元ハードコア・レスリングのトップヒール、ジャスティン=クック様だ。貴様のような三流ヒールの考えることなど、筒抜けだ」
そう罵ったジャスティンは、二丁拳銃を背後に投げ捨て、霧消させた。次に両手に現したのは、無数の十字架を伸縮自在な鞭としたクリスティーネの武器、ディバイン=メルシィ。勢いよく振り降ろした二本は、縁の上に倒れているジュリアナの胴体に巻きついた。
「あんな無慈悲な罰を与える為に、創られた武器ではないのですが……」
ジュリアナを噴水の女神像に括り付けているジャスティンを観て、クリスティーネは口元に両手を当てて悲しげな表情をしていた。
「貴様はヒールの何たるかを分かっていない。この私が直々に、ヒールの美学を叩きこんでやる。――来い、淀んだ焔」
「なっ……私?」
二つ名で呼ばれたドロテアはピクッと驚いた後、向かい風に逆らうような体勢で見えない壁を通り抜ける。
「この屑野郎! ライブがとっくに終わっているでしょ! これ以上不当にあたしを辱めるなら、弁護士を呼んで訴えるわぁ!」
などと、ライブ終了後に不意打ち未遂をしたジュリアナがのたまう。
「何のことかね? むしろ、私に感謝すべきだと思うが。今から貴様に仕事をくれてやるのだぞ。とても美味しい仕事だ」
そう言って、殺人鬼のように狂った悪人面をしたジャスティンの隣に、ドロテアが遠慮がちに立つ。
「見ろ、貴様がデビュー戦で負かしたアーティストだ。散々ヒールアピールをした挙句、観客の溜飲を下げずに終わったそうだな。実につまらんライブだ。そこで汚名返上のチャンスをくれてやる。今からドロテアのフィニッシュホールドを受けてみろ」
「……なるほど、了解だわ!」
社長の命を受けたドロテアは、嬉々として掌の上に光の粒子を浮かべる。それらは時間経過で数を増し、徐々に大きくなってゆく。
(……一応、下がっておこう)
傷の大半が癒えていたブルーノは、巻き込まれることを恐れ、縁から立ち上がってドロテアの背後へと移動する。
「公平じゃないわぁ! バイストフィリアだって、悪役のくせに一方的なライブをしてるでしょ!」
必死に身を捻って拘束から逃れようとするが、二本の鞭でしっかり固定されていて意味を為さない。
「よしよし、その意気だ。自分をバイストフィリアと同格に捉える発言が、実にエゴイストヒールらしい。それでいいぞ。やられた時に様になるからな。ハハハ!」
ゆっくりと大きな拍手をしながらジャスティンは高笑いする。やがて、光の粒子群が極限まで膨れ上がると、ドロテアが手を突き出すとともに、粒子がドロテアの全身を巻く。
「熱い! やめて! 身体が溶ける! なんであたしばっかりこんな目に遭うのよ!」
電子レンジに放り込まれたかのように、体内で膨大な熱エネルギーを発生させたジュリアナは、大いにもがき苦しむ。数秒間地獄の炎に焼かれた後、ジュリアナの身体は原形を留めたまま大爆発した! 即死レベルの痛みを受けても、失神するだけで死ぬことは許されない。
「……まさかこんな形で、願いが叶うなんてね~」
茶斑を染み呼ばわりされたあの夜、クリスティーネに「ドロテアちゃんの焔でシミだらけにされたジュリアナを観たい」と打ち明けていたグロリアは、密かに大喜びしていた。勿論、他の観客も歓声をあげて大喜びだ。
「ハン! いい気味だわ!」
そう言ったドロテアは、今まで見せたことがない、清々しい笑顔だった。
「気絶したか……まあいい。ステージの上ならすぐに起きる」
そう言ったジャスティンは、観客席を見回しながら言い聞かせる。
「次にジュリアナをぶん殴りたい奴は誰かね? 別にジュリアナに負けた奴でなくても構わんぞ。場外襲撃をかけて傷害事件に発展したら面倒だし、この場で存分に殴るがいい。おっと、用が済んだら速やかにステージから去れよ。長居してぶっ倒れても、保険は降りんからな」
言い終わった瞬間、狂喜乱舞した観客たちが、噴水の前に押し寄せてきた!
「よっしゃー! デルフィーヌちゃんの代わりに、オレがぶん殴ってやる!」
「待ちなよ、マルツィオくん! ぼくは一度ジュリアナに負けているんだから、ポイントマンは譲ってくれよ!」
マルツィオは拳銃を、レフはランチャーを手に現しながら言った。
「だりぃからおれはいいわ。あんな女に触りたくねぇし」
「私も……遠慮しておきます」
ケヴィンやクリスティーネ、それにグロリアやデルフィーヌのように、観客席から動かずにいる人も少なくはない。
「なんで……なんであたしだけが……」
意識を取り戻すなり、このようなことを口走るジュリアナ。本気か演技かは分からないが、女の武器を目から流しつつ周囲を見渡す。
女神像に括り付けられているため、殺到した人々に視界を遮られることなく、ジュリアナはデルフィーヌと目が合った。観客席の最前列にて、グロリアの隣で何とも言えない顔をしているデルフィーヌと。
「デルフィーヌ! 今すぐあたしを助けなさい! 早くしないと、後でどうなっても知らないわよ!」
ジュリアナの目前まで押し寄せていた人々は、立ち止まって静かになった。デルフィーヌのことを知る者は、哀れな少女の胸の内を聞きたいがために。デルフィーヌのことをよく知らない者は、まさか伏兵が襲ってくるのではと警戒して。
「さっさと動きなさいよ、ほら! 鈍臭い奴! 愚図! のろま! 役立たず!」
外の世界を知って、身を守ってくれる人を得た今のデルフィーヌは、その罵声に対して素直に憤ることができた。
「私……ジュリアナ様のこと、大っ嫌い!」
ジュリアナでさえも聞いたことがないほど、感情の籠った声。はっきりとデルフィーヌの叫びを聞いた人々は、デルフィーヌに賛辞を送ったり、刺客ではないことに安堵したり、ジュリアナを嘲笑したり、とにかく沸き立ったことだけは間違いはない。
化粧を台無しにされ、身体中傷つけられ、絶望に顔を歪ませて。この上なく醜悪な姿を晒すジュリアナは、これから待ち受ける死をも上回る苦痛を想像し、断末魔のように絶叫をあげる。
「どうして誰も味方してくれないのよ! あたしだって頑張っているのに! どうしてなのよぉぉぉぉ!」
後日、真昼のBASドーム中庭にて。
抜けるような青空の下、綺麗な敷石や明るい色の芝生が張り詰められていて、お洒落なベンチや良い香りのする花々が荒んだ心を癒してくれる。普段なら、親子でサンドイッチを頬張っていたり、優雅に日光浴をしているお爺さんたちが居る。BASドームにしては、とても穏やかな場所であると言うことだ。
しかし今は、ジャスティン自らブルーノにチャンピオンベルトを贈与するイベントの為、歓声や拍手を送る人々で溢れ返っている。悪女ジュリアナを倒したからと言って、ブルーノがチャンピオンになった訳ではないのだが、元プロレスラーであるジャスティン曰く「古き良き王道スタイル」であるらしい。
「――と言うわけで、君のおかげで奴は一生消えぬ生き恥をさらすことになった。諸君もテレビや新聞で知っての通り、奴の企業の信用は失墜。視聴率目当てのマスコミどもが、手の平返してペンで殺しに掛かる。私ならそれを逆手にとって立ち直ってみせるがね。ただ一度きりの敗北と、サンドバッグにされた程度でアーティストを辞めた奴のことだ。重い精神病に掛かったとほざいているが、単に自分が可愛いだけの無能だろう。見切りをつけた部下に私財を持ち逃げされ、間もなく三度の飯すら食えなくなるというのに、働かずに募金を募ってやがる。良心に愛されて育ったスーパーセレブは違うな、性善説を信じて疑わないらしい。――」
先ほどからこのような感じで、チャンピオンベルトを携えるスーツ姿のジャスティンが演説している。巨大な円を描く敷石に囲まれた、芝生の中央にて。その正面では、落ち着いた色のカーディガンを着たブルーノが、姿勢正しく起立している。そして、二人を囲うように、多くのアーティストや一般人たちが見物している。
バイストフィリアで商売している手前、素顔である大人しい青年の姿を見せるのは、本来ご法度だろう。だからと言って、チャンピオンベルトを受けとらず傍若無人な振る舞いを見せるのも、それはそれでプロ失格だ。
今この時ばかりは、ブルーノが功績に対する栄誉を授かる瞬間を目にし、それに惜しみない賞賛で華を添えることが、観客の望みだ。プロのアーティストとして、ブルーノはそれに応えなければならない。
「――長くなったが、とにかくよくやった。受けとるがいい」
演説を終えたジャスティンは、チャンピオンベルトをブルーノに差し出す。
「どうもありがとうございます、社長。――うわ、重!」
チャンピオンベルトは思ったよりもかなり重く、それを載せたブルーノ両手がズドンと沈んでしまった。これを片手で軽々と持っていたジャスティンは、五十歳を超えたとは思えないほど、筋骨隆々の力自慢であることを忘れていた。堪え切れない笑い声が周囲から漏れてきて、ベルトの端を引っ張って持ち上げようとするブルーノは赤面する。いい歳こいたジャスティンによる、性質の悪いジョークにしてやられたのかもしれない。
「よーし、チャンスだぜ、ドロテアちゃん! 二人でベルトを持ち上げるんだ!」
非力なブルーノの後姿を眺めていた、群衆の最前列に立つマルツィオは、ドロテアの肩を馴れ馴れしく叩きながら言った。派手なタンクトップとダメージジーンズの下に、包帯とガーゼは殆ど残っていない。
「なっ、なんでよ!? 私が行くべきじゃないでしょ!」
白い目を向けながら返答する、水玉ワンピースのドロテア。
「もう、恥ずかしがる必要なんてないのよ~。ドロテアちゃんが行った方が、皆きっと興奮するわ」
「そういう問題じゃなくて……」
薄茶色のトレンチコートを着たグロリアの、艶っぽい笑みを見上げながらドロテアが返す。
「わ、私、いい子で待ってますから……」
ロココ風の衣装を着たデルフィーヌが、ドロテアの隣でもじもじしながら言った。あの日以来、身寄りのないデルフィーヌをドロテアが引き取り、一般常識を教えながら世話をしているらしい。頼りにされていることも、守ってあげたい人ができたのも初めてなので、ドロテアはかなり張り切っている。
「あのね、そういう問題でもなくって……」
デルフィーヌは大人しくて従順な子だから、その点については本当に問題がない。とにかくドロテアは、ブルーノと二人きりでいるのを見られるのが、とても恥ずかしいのだ。
「じゃ、問題ねーな! 行ってこい!」
「このっ! 押すな!」
マルツィオに背中を押されたドロテアは、群衆の前に躍り出たことで、注目を集めてしまう。後には引けなくなったドロテアは、心の中でマルツィオを恨みつつも、真っ直ぐにブルーノに向かって歩く。
「おっと、君が来たか」
悪人面で笑っていたジャスティンは、好奇の眼差しでドロテアを見ながら言った。ブルーノが振り返っても、ツンとしたドロテアは目を合わせることなく、隣に立ってベルトの片端を持ち上げようとする。
やっぱりドロテアにも荷が重いらしく、ベルトを掴んだ両手はなかなか上がらない。が、ブルーノも無言のまま、全力でベルトのもう片端を持ち上げると、少しずつベルトは上がってゆく。遂には、ベルトは四本の手によって掲げられ、一際大きな歓声と拍手が巻き起こったが、それは一瞬の出来事。ぶっきらぼうにベルトを地面に置いた二人は、「はぁ……!」とため息をつくのであった。
「ハハハ。すっかりできていたようだな、バイストフィリア君。この際フェイスターンでもしてみるかね? その方がガールフレンドと気兼ねなく付き合える」
正義の味方ポジションに転向してみないかと、性質の悪い笑みで冗談を飛ばすジャスティン。
「あぁ……お断りします。こんな美味しい役回り、捨てるのは勿体ないですから」
ブルーノは、すぐさま首を横に振って答えた。
「だろうな。ハハ、冗談だ。これからも頼むよ、バイストフィリア君」
そう言うと、ジャスティンとブルーノが握手を交わし、中庭は大いに盛り上がった。
「過去について愚痴らねぇのが、あいつの良い所だよな。ぐだぐだ垂れ流すのはつまらねぇし、生産性がなくて嫌いだ」
マルツィオたちの後ろで立つ、ピンクブルゾンを着たケヴィンが、猫の尻尾をぶらぶらさせながら言う。
「ブルーノさんなりに、背負った十字架と折り合いをつけたのでしょう。見て見ぬフリをせず、押さえ付けもせず。だから、穏やかでいられると思うのです。私も昔そうでしたから」
糸のように目を細めながら拍手するクリスティーネは、穏やかに語る。
「いやあ! ぼくも銃火器が好きで好きで、将来は銃を作る仕事に就きたいって小さい頃から思っていたんだけどね! 危険人物扱いされて、一人ぼっちな子ども時代を送ったものさ! そりゃあ、ぼくだって戦争は嫌いだし、なくなった方がいいと思うけど、でもどうしても自分で作った銃を撃ちたくて――」
「分かったから黙れや」
興奮して喋る黒ジャンパーのレフを、ケヴィンが制した。
ブルーノとドロテアは、協力してベルトの両端を持ち、それを引きずりつつマルツィオたちの方に歩きだした。にやついている群衆の視線を集めている二人は、同じように顔を赤らめているのであった。