Bearing the Cross Part13

 テントや掘っ立て小屋が密集する地帯を、水色ローブを着た犬人間のクリスティーネは歩いていた。蓋が開けっ放しのダストボックスは、吐き気を催すほど生臭く、吐き捨てられたガムが幾つも地面にへばり付いている。散らかし放題のキャンプや掘っ立て小屋から、一切人気を感じないのは、全員がファビオラの”特別セラピー”を観に行っているせいだろう。

(キャンプファイヤーをするなら、もっと広い場所ですよね……?)
 サルバドルを求めて、迷路のようなキャンプ場を彷徨うクリスティーネは、救世主を求めて彷徨う子羊のようだった。鶴の一声で、暴走族たちの乱闘騒ぎを鎮めたファビオラこそが、本当の意味での救世主なのかもしれない。暴力を振るわずにいられない暴走族らを導き、代わりに暴力という名の十字架を背負った救世主だ。
 救いようのない悪人を抹殺するため、自ら暗殺者という汚れ役を担ったビルンバウム家。その末裔として生を受けたクリスティーネは、ファビオラの爪の垢を煎じて飲むべきだろう。幸せにしたい人間の代わりに十字架を背負っておきながら、むしろ不幸にさせてしまったのは、自身の未熟さ故。真面目で優しいクリスティーネは、誰にも八つ当たりできないから、自分自身を責めている。

 迷いに迷った末、複雑に入り組んだキャンプ場を抜けると、先ほどの出張ライブに使われたレース場ほどではないにせよ、それなりに面積の大きな広場に行き着いた。
 空のポリタンクや錆びたドラム缶が転がり、マフラーやハンドルが改造されたバイクが乱雑に放置され、強烈なガソリンの匂いが鼻をつく。出張ライブが開催される都合、レース場に放置されていたゴミの数々を、仕方なくここに移動して来たのだろう。
(あっ、ファビオラさん……!)
 広場の中央に、猿人間のファビオラ=エスクレドが立っていた。ギラギラした目で、不気味な作り笑いをしている、どぎつい色の服を着た年増。無駄に高価そうなネックレスやブレスレットには、本人曰く神秘的なパワーが宿っているらしいが胡散臭い。クリスティーネは知らないが、なんと少年院の院長。
 その隣に立つ大男は、サボテン人間の血が特に濃い混血である、サルバドル=ペレス。頭には、髪の代わりに白い棘が生えていて、一列に並ぶそれはまるでモヒカン。側頭部や脇腹に円状の鉱物が、生まれつき埋め込まれているのを見ると、ハイ・カーバンクルの血も混じっているようだ。
 下半身は、つや消し黒なプロテクター。上半身には、同様な肩パットと胸当てを着けている。”サンドバッグ=メイカー”と呼ばれる、殴ったものを”磁石”に変える、つや消し黒の刺々しいガントレットは着けていない。ライブが終わったから、装備していても意味がないのだろう。

 複数個の錆付いたドラム缶とともに、広場の中央で佇むサルバドル&ファビオラコンビを、このキャンプ場を隠れ家としている暴走族らが取り囲んでいる。嵐の前の静けさのように大人しい彼らだが、相変わらず麻薬常習者のような狂気めいた笑顔を張り付けていて、今にも乱闘騒ぎが再発してしまいそうなプレッシャーを感じる。
 それにしても、クリスティーネよりも先にファビオラがこの場に着くなんて、普通に考えたらあり得ないことだ。いくらクリスティーネが道に迷っていたとしても、ファビオラは控え室に戻ったサルバドルを迎えるため、BASドームへと装置で瞬間移動している。恐らく、自宅とBASドームを往復するための、テレポート・チケットがあってこそだろう。

(特別セラピーは、もう始まっているのでしょうか?)
 掘っ立て小屋の陰から頭部を出したまま、広場をぐるりと見回したクリスティーネは、その視線をファビオラに向けた。と、ファビオラのすぐ隣にある錆びたドラム缶に、ロープで何かが括り付けられていることに気付く。
「今日は間違って生まれてきた神さまを、極楽浄土に送り返す儀式をしますからね~! 皆たちも、奇跡の瞬間に立ち会えて良かったわね~! きっと心が洗われるわよ~!」
 神さまという言葉に反応したクリスティーネは、拡声器で言われるファビオラの言葉に耳を澄ませた。聞こえてきたのは、「ピャー! ピャー!」といった、心を握りつぶされるような赤ちゃんの泣き声だった。拡声器のマイクを押しつけられている、ドラム缶に括り付けられたものに注目したクリスティーネは、想像を絶する非常識に戦慄し、「あっ……!?」と声を漏らした。

「ほら! ここにいる神さまが、『極楽浄土に帰りたいよう』って、お泣きになっているでしょう! ”七つまでは神のうち”という言葉を、皆たちは知ってるかしら? 七歳になる前の子どもは、魂の半分が神さまと同じなのよ。子どもがすぐに死んじゃうのは、極楽浄土が懐かしくなった神さまが、お帰りになっちゃうからなのよ~」
 マイクを自分の口元に引き戻したファビオラが、片手をバタバタさせながら垂れ流す。その昔、七歳までは疫病などでいつ死んでもおかしくなかった時代、確かにそう言われていた時代はある。だがクリスティーネには、ファビオラが今から始める”特別セラピー”を正当化するための、都合のいい解釈としか思えないのだ。
 やはり「ぶっ殺せー!」とか「とっとと死ねー!」とか言っている暴走族たちの様子が、これから幕を開ける惨劇の内容を、嫌でも思い起こさせる。
「よっしゃ! これでクソうぜぇガキとはおさらばだぜ!」
「あはぁ~! マジ受ける~! あのガキ産んどいて良かったかも~!」
 暴走族の輪の最前列に立っている若い男女は、そう叫んだ後に下品に手を叩きながら笑った。ドラム缶に括り付けられているもの――すなわち泣き喚いている赤ちゃんの、生みの親だと思われる。

(これの……何が面白いというのですかっ……!)
 顔面蒼白になりながらも、小刻みに震えているクリスティーネは、もう一つ恐ろしい事実を突きつけられ、愕然とする。
 ファビオラよりやや離れた位置で、その場をぐるぐる回っているサルバドルの近くには、黒い物体が押し込められたドラム缶が何個もあるのだが……。先日この場所でキャンプファイヤーが行われたらしいから、ドラム缶に詰め込まれているあれらは、炭や燃えカスだとばかり思っていた。
 ”特別セラピー”の実態を目の当たりにした今、改めてドラム缶に詰め込まれた黒い物体らを注視すると、それらには揃って手足が生えていることに気が付く。少年院に収監される前、サルバドルが動物虐待の常習犯であったことを踏まえると、無惨にもドラム缶に投げ込まれている大量のものは、もしや……!?

「じゃあじゃあ、神さまがお帰りになられる前に、お清めを済ませちゃうわよ~」
 拡声器を足元に置きながらファビオラが言うと、赤ちゃんが括り付けられたドラム缶に立て掛けていた、木製の洗濯たたきを手に取った。嫌な予感にクリスティーネが身震いした次の瞬間、ファビオラは何の躊躇いもなく、洗濯たたきで赤ちゃんのお腹を叩いた!
 拡声器のマイクが拾うのは、柔らかい赤ちゃんが叩かれた時の、「パン! パン!」という破裂音、そして「ピャアー! オギャアー!」という痛々しい泣き声。どっと大爆笑する暴走族たち。徘徊していたサルバドルは、自分がやりたいと言わんばかりに、ファビオラの背中を輝いた目で見つめている。
 何十回にも渡って叩かれた赤ちゃんの身体は、身体の所々が赤や紫に変色していた。助けを求めるように、より一層泣き声を大きくしている赤ちゃんを指差しながら、ファビオラは拾い直した拡声器を使って知らせる。
「見て! 皆たち! 神さまの身体から、疫病神が排出されたのが分かる!? この子が毎晩夜泣きして、皆たちに迷惑を掛けていたのは、疫病神が憑りついていたからなのよ!」
「フォワアアアァァァー!」
 興奮の頂点に達したのか、暴走族たちはサルバドルのような奇声を発した。「さっさと殺せ!」とか、「早く黙らせて!」とかいう叫び声は、恐らく赤ちゃんの実の両親によるものだろう。
(やっぱりおかしいですよ! 自分で暴力を働かなくても、見て見ぬ振りしたり、面白おかしく眺めていたら、何も変わらないじゃないですかっ!)
 一瞬でもファビオラのことを、救世主だと勘違いしていた自分を恥じるクリスティーネ。それ以上に、誇り高きビルンバウム家として、そして一人の人間として、救いようのない悪人たちに鉄槌を下したかった。もはや聖職者としての悔恨や、自ら不幸を振り撒いたことの罪悪感すら、その義憤の前では些細なものとなる。

「皆たち~。お祈りする準備はいいかしら? 今からサルバドルちゃんが、皆たちを代表して、仕上げをしてくれますからね~」
 ファビオラがそう言った瞬間、気味の悪い笑顔を貼り付けたサルバドルは、真っ直ぐに赤ちゃんの方へと歩いて行った。「殺せ! 殺せ!」と繰り返し叫ぶ暴走族たち。
 身動きがとれない赤ちゃんは、両目を瞑ったまま顔だけを激しく動かしている。その様子が面白いのか、立ち止まった「エッヘッヘッヘッヘ……!」と笑いだした。
「サルバドルちゃんの凶暴なところはね、神さまからの贈り物なの。普通の人は、疫病神が憑りついていても、赤ちゃんを叩いたりしないでしょ? だからサルバドルちゃんが代わりにやってあげるの。ちゃあんと無罪の判決だったし、これはこの世の真理なのよ~」
 コマ送りにされた動画のように、ファビオラが暴走族の輪を見回しながら拡声器で言った。「ぶっ殺せー!」という暴走族たちの叫びが、サルバドルにこれ以上ない愉悦をもたらす。出会ったあらゆる人間に警戒され、恐怖され、時には軽蔑されたり、見下されたりしても、何かを殴っている時だけはヒーローになれるから。
「サルバドルちゃん! 皆たちの願いを叶えてあげて~!」
「ンアアアァァァーーー!!!」
 サルバドルは大きく振り上げた拳を、奇声とともに赤ちゃんの脳天を目掛けて振り降ろした!

 

 誰もが次の瞬間には、しわくちゃになった赤ちゃんの顔が潰されると、信じて疑わなかった。不愉快を催す赤ちゃんの泣き声が絶えて、代わりに暴走族たちの大爆笑が沸き起こるものだと、信じて疑わなかった。
 だが実際の所は、これ見よがしに振り降ろされたサルバドルの拳は、虚しく空を切るのみ。目の前にあった、赤ちゃんが括り付けられていたドラム缶が、突然消えてなくなったからだ。サルバドルは、腕を引き戻すことも忘れて呆然とし、暴走族らも不可解な現象に声を失っている。

「凄いわ! 魂が解脱して不要になった肉体は、光の粒子になって天に還ったのよ!」
 などと、意味の分からないことを喚くファビオラは、大層興奮した様子で四方八方を見回している。少しの間を経て、広場の外枠を形成する掘っ立て小屋の屋根の上に、突如瞬間移動したドラム缶を発見した。そして、冷や水を掛けられたかのように立ち止まる。
 未だに泣き声が止まない赤ちゃんが括り付けられている、ドラム缶の下部には、ファビオラが見たこともない、無数の十字架を繋げたものが巻きつけられていた。鎖状のそれは下から伸びていたので、ファビオラが視線を下にずらすと、鞭のように伸張させた短剣二振りを掲げている、クリスティーネと目が合った。意思を持ったように動く二本によって、ドラム缶に括り付けられた赤ちゃんは、ひとまず安全地帯まで運ばれたのだ。
「ちょっと! 皆たちの楽しみを一人占めしちゃいけません!」
 一気に老けたように見えるほど、狂気じみた笑顔から憤怒を滲ませた面持ちに豹変したファビオラの叫びで、暴走族たちは一斉にクリスティーネに注目した。
「許しませんよ……! こんなことを、楽しみだなんてっ!」
 鞭を収縮させ、短剣の形に戻した二振りを、両腰の鞘に収めたクリスティーネが言い返す。
「これはボランティアなの! 暴力を観ることしか楽しみが無い、恵まれない皆たちを、私が幸せにしてあげているの! BASと同じなの!」
 そう喚いたファビオラに言い返す間もなく、輪の最も外側にいる暴走族たちが、クリスティーネのほうに一挙に雪崩れ込んで来る!
「ぶっ殺すぞ、クソが!」
「死ねよ、クソ偽善者!」
 他に口にする言葉が無いのかと疑いたくなるほど、暴走族らは似たような罵声ばかり響かせる。

 波のように押し寄せてくる暴走族らの中で、特に足が速い三人が突出している。その三人の内の先頭を走っている男は、貴重な娯楽を台無しにされた怒りに任せて、担いでいた釘バッドをクリスティーネの頭目掛けて振り降ろす。
 自然体で佇んでいたクリスティーネは、前方へと駆け抜けながら、先頭の男の鳩尾に的確なボディーブローをヒットさせる! 激痛を感じた先頭の男は、釘バッドを取り落として身体を折り曲げ、動きが止まる。
 後続の二人は、クリスティーネの素早い動きに反応すらできていない。そのまま駆け抜けつつ、二人目の男の右脇腹にコンパクトなパンチを、三人目の男の顎に綺麗なキックをお見舞いするクリスティーネ。肝臓を殴られた男は、腹部広範囲に不快な痛みが生じて蹲り、これまた鳩尾へと衝撃が突き刺さった男は、呆気なく崩れ落ちてしまった。
 ディバイン=メルシィは、あくまで痛みを与えないだけで、斬ったり突いたりしたら普通に致命傷を負わせてしまう。だからクリスティーネは、徒手格闘で対処することを選んだのだ。

 突出した三人の瞬く間にノックアウトしたクリスティーネに、八方から暴走族らが腕を伸ばしてきた。クリスティーネは、一番近くにいた暴走族の手首を掴む。直後、高度なテクニックで暴走族を引き寄せながら、その背後に回る。包囲網から脱出したクリスティーネは、拘束していた暴走族の背中を、思いっ切り蹴り飛ばした。
「あぁ!? クソが!」
 突っこんできた暴走族らは、包囲網の中心にいたクリスティーネが消えたため、正面衝突を起こしそうになる。辛うじて急ブレーキをかけて静止した暴走族らの群れに、蹴り飛ばされた暴走族の一人が勢いよく突っ込んできた!
「邪魔だ! どけ!」
 蹴り飛ばされた一名を数人がかりで受け止めた刹那、一番端で突っ立っていた暴走族が、クリスティーネに正面から組み付かれた。組み付いた相手の体勢を器用に崩したクリスティーネは、密集する暴走族らに素早く背を向ける。そのまま急激に姿勢を低くし、拘束した暴走族を背負うようにして、密集している暴走族たちの方へ投げ落とす!
 上から巨体が降ってきたため、蹴り飛ばされた暴走族を支えていた者たちは、積み上げられた死体の山さながらになってしまった。投げ技一つで、五人以上もの敵を無力化したクリスティーネは、困惑して立ち尽くしていた暴走族らを、ちぎっては投げ飛ばしてゆく!

 最後の一人に掴み掛ろうと、距離を詰めてた最中のクリスティーネは、咄嗟に両腕で壁を作り、ガードポジションに移行した。「ぶっ殺してやる!」と逆上した暴走族が、ズボンのポケットに隠し持っていた、手の平サイズの小型拳銃を取り出したからだ。
(素人論的に、小さい銃だから殺傷力も低いと判断して――対銃弾防護壁ABBでも防ぐことは可能でしょう。仮に抗メーション物質AMMが大量に使われた特殊弾だとしたら、ただでさえ低い威力が更に低くなりますから、ABBを貫通されても致命傷には至らない……はずです)
 イメージを研ぎ澄ませたクリスティーネは、自身の周囲に、半透明かつ球状な防護壁を展開した。直後、数メートル離れた位置に立つ暴走族が、小型拳銃を発砲。「ドン! ドン!」という銃声に重なって、「キン! キン!」という金属音が響くのみで、クリスティーネはかすり傷一つ負わなかった。
 銃弾をガードするために開発された”基本テクニック”、それがABBだ。バトル・アーティストになるならば、習得が必須とさえ言われているほど、高い汎用性を誇る。ただし、展開中はスタミナを消耗してしまうし、対戦車ライフルやロケットランチャーなどの重火器は、極一部の達人でもない限りABBを展開しても致命傷を喰らう。だから、たとえABBを習得していたとしても、可能な限りは遮蔽物に隠れたり、その場に伏せたりして、被弾率を低下させた方が良いとされる。
 幸いにも、暴走族が隠し持っていた小型拳銃は、装填数はたったの二発。何度も空撃ちした挙句、「死ね! クソが!」と自ら拳銃を投げ捨てた暴走族に対して、クリスティーネはスズメバチのような跳び蹴りを浴びせ、ぶっ飛ばした。

「いい加減にしなさい! サルバトルちゃんから生きる喜びを奪う気なの!? この子が暴力を振るうのは仕方がないのよ! 特別な子なのよ!」
 ひとしきり暴走族らが薙ぎ倒された後、高みの見物を決め込んでいるファビオラが、広場の中央から拡声器で喚いてきた。
「あの子は特別ではないと言うのですかっ!?」
 掘っ立て小屋の屋根の上にある、ドラム缶に括り付けられた赤ちゃんを守るかのように、片腕を水平に持ち上げたクリスティーネが叫ぶ。
「差別よ! 差別だわ! 破廉恥ビデオの無修正は許されて、サルバトルちゃんの無修正はなんでダメなのよ!?」
 顔を真っ赤にして叫喚するファビオラと気持ちを同じくしたのか、隣でポカンと突っ立っていたサルバドルは、アクセル全開にした大型トラックのように、物凄い速度で走りだした。下手すれば、ママチャリすら容易に追い抜くほど足が速い。
「アー! アー! アー! アー! アー!」
 まるで消防車のサイレンのように奇声を上げながら、サルバドルが突っ走ってきたため、慌てた暴走族らは二手に分かれて通り道を作る。凶暴極まりない暴走族たちにとっても、サルバドルは恐怖の象徴であるらしい。

(懐に潜り込まれたら、あのパンチを躱すことは不可能ですね……)
 先ほどのライブでクリスティーネは、サルバドルが槍よりも遠い間合いから、見えないほど速いパンチを打ち込んだのを目撃していた。だからクリスティーネは、いつもの間合いの三倍くらいの距離に、サルバドルが踏み込んだ時には、既に鋭くサイドステップしていた。
 サイドステップのモーションを終えるとともに、サルバドルはクリスティーネの目の前に位置していた。本当に見えないほど速いパンチだったが、予め攻撃の軌道から逸れていたために、事なきを得る。
 そうしてサルバドルの腕が伸びきっているところに、カウンターのアッパーカットをお見舞いしようとした瞬間。内臓が破裂したかのような痛みが腹部に発生し、クリスティーネは呆気なく後方に転倒してしまう!
(二発目……!?)
 仰向けのまま腹部を押さえて、何とか立ち上がろうともがくクリスティーネ。一発目のストレートを躱した直後、ボディーブローがモロに入ったらしい。見えないほど速いパンチでぶん殴る。たったそれだけで、あらゆるものがサンドバッグへと貶められる。
 腹部の筋肉が収縮するような痛みが徐々に広がり、呼吸困難に陥るクリスティーネ。ゆっくりと立ち上がってみせたが、身体に力が入らず、すぐにまた倒れ込んでしまった。想像を絶する激痛で、涙を堪えることができない。

 もがき苦しむクリスティーネの首根っこを掴み上げたサルバドルは、そのまま広場の中心の方へと歩いてゆく。
「あれ? もしかして陣痛?」
「妊娠したんだぁ~! おめでとぉ~!」
 女たちの下品な笑い声を褒め言葉と受け取ったサルバドルは、オモチャを貰って狂喜する子どものような破顔となった。両足を引きずる形で、無理矢理移動させられるクリスティーネには、嘲笑や暴言が霞んで聞こえる。
「無修正ならいいんでしょ!? 無修正ならいいんでしょ!?」
 間近から拡声器で発せられたファビオラの言葉は、虚ろな目をしているクリスティーネにもはっきりと聞こえた。尋常ならぬ危機感に、ビクリと身体を震わせたが、それっきり身体を動かすことは叶わない。
 大きなカブトムシを採って来た少年のような、心底嬉しそうな面持ちのサルバドルは、片腕だけの馬鹿力でクリスティーネを持ち上げた。暴走族らがコールするのは、やはり「死ね! 死ね! 死ね!」という決まり文句。
(これが、私が犯した罪への罰なのでしょうか……)
 今すぐにでも、子ども時代から人生をやり直したくなったクリスティーネは、心の内でひたすら神に祈りを捧げている。

「ホア! ホアァ! ホワアアアァァァーーー!!!」
 その奇声は、無上の歓喜を表現するものなのか、極限の興奮を放出するための生理現象なのか。死刑執行を告げるサイレンのように、身体をエビ反りにして絶叫したサルバドルは、首を締め上げられているクリスティーネに、容赦なく目視不能のパンチを放つ――!

 

 突如、上空から無数の光線が降り注ぐ。15センチ定規のように短い、白色の光線は、サルバドルのモヒカン頭に残らず着弾すると、その巨体を痙攣させた。
「ンアァ!? ンアアァァー!?」
 奇声を発し、四肢がちぎれんばかりに身体を振り回したサルバドルは、次々と落下する光線が絶えると同時に、大の字に伸びてしまった。顔面が潰されることを覚悟して、両目を強く瞑っていたクリスティーネは、放り投げられた際に受けた下半身への衝撃に違和感を覚え、恐るおそる両目を開く。
(無事……ですか?)
 視界に映ったのは、うつ伏せ状態で痙攣しているサルバドル。何が起こったのかも分からない。本当に神さまに祈りが届いて、救いの手を差し伸べてくれたのだろうか?

終末ラグナロクよ! ラグナロクの時が来たのよ!」
 そう喚き散らしたファビオラは拡声器を取り落とし、人差し指を立てた手をブンブン回している。クリスティーネがつられて頭上を確認すると、今にも倒れそうな独楽のように回転を続ける、複数の円盤状の何かが滞空していた。
 常識的に考えるなら、それらはUFOと呼ばれるべきだろう。サッカーボールと同じくらいの大きさという、小さなUFOではあるが、先ほどサルバドルに降り注いだビリビリする光線は、ほぼ間違いなくあいつらの仕業。
 何の脈絡もない異様な光景は、本当にラグナロクが訪れたかのようだった。あのサルバドルが地に伏したことも衝撃的だが、得体の知れないUFOたちが気味悪くて、騒然としていた暴走族らも押し黙ってしまう。やがてUFOの全てが霧消してしまっても、誰も何も言わなかった。

「おい! おい!」
 輪の最も外側にいた暴走族の一人が、掘っ立て小屋の方を指差しながら叫ぶ。屋根の上で、ドラム缶に括り付けられた赤ちゃんが、未だに痛々しく泣いている掘っ立て小屋だ。
 その掘っ立て小屋の陰から、このUFOを遠隔操作で操っている人物が、姿を現していたのだ。ラジコン開発の知識を応用して、小型遠隔操作のオモチャ兵器――すなわちあのUFOを発明した奇才。そのUFO複数を、自身も忙しなく動き回りながら、手足の如く同時に操作する、マルチタスクの天才児。人呼んで、オモチャ博士のエマ=レジャー。
 ――ではなく、灰色のビジネススーツに、赤いネクタイをした男が正体だった。オールバックに白髪が混ざっているどころか、ほうれい線もかなり目立つというのに、老いを感じさせないほどに筋骨隆々。尻尾も獣耳も持たない猿人間。悪の帝王エビル=エンペラーと名高いBASの社長、ジャスティン=クックだ!

「ケツ丸出しのクソ猿どもが、お山の大将囲んで喚いてやがる。ハハ。知らなかったよ。こんな所に動物園があるとはな」
 暴走族らの視線を集めているジャスティンは、実にムカつく笑い顔を見せつけながら、野太い声で叫んだ。
「ああん!?」
「ぶっ殺すぞ、コラ!」
 怒りに火が付いた暴走族たちは、クリスティーネに特別セラピーを妨害された時と同じように、奇声を轟かせながら押し寄せてきた! ある者は釘バッドを振り回しながら、ある者は懐からナイフを取り出しながら、またある者はポケットに突っ込んだ小型拳銃を握り締めながら、岩雪崩のようにジャスティンを呑み込もうとしている。

 ジャスティンはメーションによって、両手に単発式のグレネードランチャーを創った。”ヴィクトリアJr.”と呼ばれるこの武器は、本来はヒト型重戦車ことレフ=カドチュニコフの武装。武器を(無断で)複製するという、存在そのものが大ブーイングの的になるメーション・スタイル、”ダーティー=フィーバー”の力によるものだ。
「このジャスティン様に刃向かう奴らは、こうだ!」
 二艇のヴィクトリアJr.を”ハの字”になるように構えたジャスティンは、反動をものともせずに同時に発砲。押し寄せる暴走族らの、両端よりやや手前に着弾した二個の榴弾は、激しい爆音と閃光を発生させた!
 クリスティーネは、自身を取り囲んでいた暴走族らが、強烈な光に呑まれた瞬間、思わず目を瞑った。数秒後に開かれたクリスティーネの目に映ったのは、顔を覆ったり身体を丸めたりして硬直する、暴走族らの姿だった。

 その頃、掘っ立て小屋の屋根の上では、薄茶色の軍服を着込んだ猿人間のレフが、泣き喚く赤ちゃんを括り付けているワイヤーの切断に当たっていた。
「すごいや! 片手でぼくのヴィクトリアJr.を、二梃同時に撃つなんて! そりゃあ、歩兵が携行することを想定して、反動はできるだけ低くなるように設計しているけどさ!」
 ワイヤーカットを握る手を止めたレフは、ミリオタとしてマシンガントークを口走らずにはいられない。
(撮影中なんだけどなーっ!?)
 屋根の端の方に立つ、濃い青のデニムサロペットスカートを着た蜂人間のエマは、無言で振り返って人差し指を口元に当てた。片腕で抱いている熊の人形の両目には、小型カメラが仕込まれている。不審に思われたなら、「赤ちゃんをあやすために、メーションで現したのーっ!」と言えば問題ないだろう。

 非殺傷手榴弾によって無力化された暴走族らの中を、悠然と闊歩するジャスティン。ジャスティンへと押し寄せなかったため、幸運にもスタングレネードの範囲外にいた少数らは、反撃を恐れて自ら遠ざかってゆく。
「社長さん、ごめんなさいね~。この子たちは正直者すぎて、自分の気持ちにも嘘がつけないのよ。頭を冷やしたらきっと反省するから、許してあげて。ね?」
 ジャスティンが広場の中央に辿り着くと、何食わぬ顔でファビオラが近づき、ペコペコと頭を下げた。
「つまり貴様と同じで、脳ミソが犬っころレベルというわけか」
 ジャスティンは、視線を合わせずに適当にあしらった。そして、未だに痙攣しているサルバドルの隣で、立ち上がれないまま涙を流し続けるクリスティーネの身体を起こしてやる。
「社長さん! その子がね、恵まれない皆たちを幸せにするために、身体を捧げてくれるって言ったのよ! 人間の鑑よね~!」
 ジャスティンに小馬鹿にされても、癇癪を起こさないどころか、悪行を咎められることを見据えて釈明を開始したファビオラ。圧倒的な戦闘力と権力を誇るジャスティンには勝てないと判断したのか、積極的に媚を売っている。
「ほう……」
 尚も腹部を支配する激痛に苛まれて、物も言えないクリスティーネを背負ったジャスティンは、曇り空を見上げて少しの間考え込む。その間、麻痺から回復したサルバドルがむくりと起き上がったが、ファビオラの意図を汲み取ってか、それとも単純にジャスティンに怯えているのか、奇声を上げて暴れ狂うことはなかった。

「いつの時代でも、人間は暴力を観たがるでしょ? 本能を満たすために破廉恥ビデオがあるように、この世にはサルバドルちゃんのような暴力の担い手が必要なの! つまりこれは特別セラピーなのよ! 偉大なBASの社長さんにあやかって、私もボランティアをしているの!」
「なるほど。事情は把握した」
 そう言ったジャスティンは、ようやくファビオラと目を合わせ、あくどい笑いを顔に浮かべる。
「ならば、その特別セラピーとやらを、私と組んでレイラ中の人々に見せつけてやらないか? 私のお墨付きならば、こんなチンケな場所でコソコソやる必要性もなくなる。大金は手に入るし、貴様の信頼性は揺るぎ無きものとなるだろう。我がBASには更なる栄光が約束されるし、良いこと尽くめだ」
 ファビオラに喋らせる暇を与えないかのように、ジャスティンは要点のみを口早に告げた。するとファビオラは、虚空を見詰めているかのような両目を輝かせ、隣に立っているサルバドルも、引き攣らせるかのような笑い顔を貼り付けた。

「社長さんったら、ほんとお世辞がうまいんだから! 私たちはボランティアだから、お金なんてとんでもないけど、皆たちのためなら喜んで引き受けるわ。善は急げと言われるし、早速話を進めましょう」
 ファビオラは激しく足踏みをしながら、ジャスティンのスーツの袖を引っ張った。
「そう先を急ぐな。私としても、今すぐにでも商談をまとめたいところだが――」
 無礼にも掴んできたファビオラの手を、やんわりと振り払ったジャスティンは、背負っているクリスティーネのうつろな顔を振り返りながら続ける。
「一先ずこの”生贄”を手当てしなければな。いくら負け役ジョバーとはいえ、手負いで興行に臨まれたらしょっぱくなる。詳細は追って連絡してやるから、サル山でも削り出しながら待っているがいい」
「はい~! お待ちしてます~!」
 恭しく頭を下げた、猫をかぶっているファビオラは無視して、ジャスティンはサルバドルの肩を優しく掴みながら言う。
「このジャスティン様が、貴様を稀代のバトル・アーティストに仕立ててやる。子猫や赤ちゃんよりも、ずっと価値のあるサンドバッグを、私はいくらでも持っているのだからな。期待して損はないぞ」
 貼り付けた笑顔はそのままで、サルバドルは壊れた人形のように、何度も激しく頷いた。サルバドルの肩をポンと叩いてから、ジャスティンが踵を返すと、ファビオラは一瞬だけ眉を顰める。

 スタングレネードを受けた者らは未だに苦しみもがき、被害を免れた暴走族らは、悠然と闊歩しているジャスティンを黙って眺めている。
(私が、生贄に……?)
 クリスティーネは、サルバドルの心底気持ち悪い笑顔が、焼印のように背中を焦がすのを感じた。ドラム缶に詰まっていた死体の一つになることを覚悟する。激昂して我を忘れた末に、最悪の結末で人々を悲しませてしまうことを考えると、不覚にも、見ず知らずの赤ちゃんを助けなければ良かったと、思ってしまったのだ。
 ファビオラの嘘を鵜呑みにしたジャスティンに、少なからずの憎しみを抱いてもいた。勝手に生贄に捧げられたこともさることながら、救いようのない悪人に裁きを下す絶好の機会を、BASの集客のためだけに台無しにした、その浅はかさが憎らしい。

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