Bearing the Cross Part14

 レイラの科学技術の集大成と言われる、BASドームの医務室だけあって、その規模は大学病院に勝るとも劣らない。温かみを感じる木の壁と、どこか優しい光沢を放つ真っ白な床と天井。見慣れない、近未来的な機器がそこかしこにある個室で、クリスティーネはふかふかなベッドに腰を下ろしていた。
 クリスティーネが負った怪我は決して軽くないが、幸いにも数日ほど経てば自ずと良くなるらしい。地獄のような腹部の痛みも、優秀な医師に診てもらったおかげで、今は少し楽になった。念のために、安静を保って様子を見ているところなのだ。
 水色のローブから、渡された水色の部屋着に着替えたクリスティーネは、珍しくクリーム色の天然パーマを露出させていた。若干特殊な構造のベールを被っていないからだ。その犬耳と相俟って、何というべきか、普段よりもふもふ感や愛らしさが増している。

「そうだったのか。小動物のみならず、ついに人間の赤ちゃんにまでサンドバッグにしてしまうとは……」
 ベッドのすぐ横にある椅子に腰かけた、灰色のビジネススーツを着たジャスティンが、納得したように頷く。ボディーブローをモロに喰らって動けなかったクリスティーネを、自ら医務室まで運んできたBASの社長。ある程度落ち着いたのを見計らって、”特別セラピー”の真相を、クリスティーネに尋ねていたというわけだ。
「私のいうこと、信じてくれましたか?」
 糸のように目を細めたまま、若干怖々とした様子でクリスティーネが問う。
「信じる? ――あぁ」
 ジャスティンは、ちょっとの間首を傾げた後、すぐに半笑いとなった。
「奴らの言うことを鵜呑みにしたのかと聞いているなら、答えはノーだ。単に話を合わせてやったに過ぎん。あれ以上喚かれたりしたら、いい迷惑だからな」
「そうだったんですか。良かった」
 クリスティーネは胸に両手を当てると、深く息を吐いて安堵した。「自らサルバドルのサンドバッグになると名乗り出た」というファビオラの嘘を、ジャスティンが鵜呑みにしたと思っていたからだ。

「しかし……ファビオラがこれ以上不祥事を起こさないうちに、一刻も早くご退場願いたいものだな。親元から引き剥がされたサルバドルは、私が責任をもってこき使ってやる」
 顎を触りながらジャスティンが呟く。
「えっ、サルバドルさんは解雇しないんですか?」
 クリスティーネは僅かに身を反らせ、少しだけ上擦った声で言った。
「心配には及ばん。私が奴を軟禁状態にして、飼い慣らしてやるのだからな。その狂人っぷりが人目に触れる機会は、リング上でのみとなる。金輪際、外界に危害を加えることはなくなるだろう」
 軟禁などと、非人道的な行為を口にするジャスティンに、クリスティーネは言い難い恐怖を感じた。罪悪感を欠片ほども感じさせない、自信に溢れた言い方が末恐ろしい。
 しかし、サルバドルの残虐性は、クリスティーネの見ての通り。話し合いが通じるとはとても思えない。ビルンバウム家のご先祖様なら、真っ先に葬り去るに違いない。そのことを踏まえるなら、殺すよりも生かすジャスティンのやり方は、倫理的に正しいものと思えなくもない。
「ですが、わざわざサルバドルさんを活躍させる必要性は……?  お言葉ですが、どの道あの人を閉じこめるなら、もう一度少年院に引き渡した方が、話が早いと思いますが……。法律で裁かれ、然るべき場所で適切な処置を受けるなら、あの人も心を改めるかもしれません」
 万のために一を犠牲にする、止むを得ないやり口には、否定も肯定もしないクリスティーネ。それでもやはり、軟禁状態にしたサルバドルを、わざわざリング上――BAS的に言えばステージの上に出す必要があるのか、疑問に思う。やはりジャスティンは、BASの利益のみを追求して、サルバドルを飼い慣らすつもりではないのかと深読みしてしまう。
「それが叶えば、我がBASは多大な出費を払わなくて済むのだがな。残念なことに、サルバドルを法律で裁くことはできないのだよ。その上、少年院の院長たるファビオラも、あのザマときた。奴をリングに上げるのは、更生プログラムの一環と謳うことで、脳ミソが足りない人権団体どもの追及を躱したいからというのもある」
「それなら……確かに。サルバドルさんのためにも、少年院から連れ出した方が良いですね」
 そう言ったクリスティーネは、落ち込んだように俯きがちになった。

「だから、ファビオラをピエロに仕立て上げて、居場所を失ったサルバドルを飼い犬にするのが一番なのだ。咄嗟に思い付いた台本アングルだから、君の許可を得ずに生贄にしてしまったが……」
 すぅっ、と息を吸って目を瞑るジャスティン。社長としての威厳を保ったままで、せめてもの謝罪の意を表しているのだろうか。
「揉み消すなら今のうちだ。君が辞退したところで、減額を言い渡すつもりも、左遷するつもりもさらさらない。君が快く従ってくれるなら、奴らの悪行三昧に終止符を打つのに、かなりの近道ができるのも事実だが。どうかね?」
 座ったまま身を乗り出したジャスティンが訊くと、クリスティーネは「えっ……?」と漏らして考え込む。とてもじゃないが、勝ち目のない戦いを強いられるのは、あまり良い心地がしない。何だかんだで利益主義の片棒を担ぐ形になるわけだし、その点においても不愉快だ。
 でも、クリスティーネ一人が生贄になれば、サルバドルの暴虐は鎮まるのかもしれない。何かと虚言を弄するジャスティンを、今一つ信用できないのだが、クリスティーネが直談判に行くよりも、遙かに成功率が高いことは間違いない。

「私がサンドバッグを演じきれば、全てが丸く収まるのでしょうか?」
 ビルンバウム家の末裔として、その使命を全うするときが来たのだと、クリスティーネは腹を括った。全ては罪のない命を救うために、そして自らの贖罪のために。
「ハハハ。そんなバッドエンドなど、君のファンなら誰一人として望まんよ」
 にわかに笑いだしたジャスティンの真意は、呆れているのが半分、緊張を解きほぐしてやろうと思ったのが半分。ここ最近、物事をとにかく悪い方向へと考えてしまうクリスティーネには、意外な反応だった。
「私が直々に、あの大物の狩り方を伝授してやろう。特訓を積んだ君がリアルヒールを倒して、めでたしめでたし。完璧なアングルだろう? 君の家族や友人も、ハッピーエンドを望んでいるはずだ」
 あくまでも例えの一つとして、ジャスティンは“家族や友人”と言ったに過ぎない。過ぎないのだが、家族や友人に嫌われていると思い込んでいるクリスティーネには、豪華なステンドグラスから射し込む陽光のように思えた。

「こんな私が、皆さんに期待されるだけの価値があるのでしょうか……?」
 ぽわぽわとした声でクリスティーネが言う。
「ハハ、馬鹿を言うな。君は模範的な正義の味方ベビーフェイスだ。そうやって苦悩しているのは、ヒーローがヒーローたる証なのだよ」
 まだ笑い続けているジャスティンに釣られたかのように、クリスティーネは俄に口元を緩める。そして、いくらか元気を取り戻した声で言った。
「分かりました。どんな試練にも耐えてみせます。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします」
「よし。そうなると、ライブ当日まで君を近場のホテルに、縛り付けることになってしまうがそこは大丈夫かね? 君には真剣勝負シュートで勝って貰いたいのでな。健康面のサポートでも万全を期したい。費用はもちろん、こちらが全額負担だが、確か君は実家暮らしだったはずだな?」
 ジャスティンが険しい表情で見つめてくると、クリスティーネは小さな声で返答する。
「今は一人の方がいいですから」
 暗い顔をしたまま、家に帰るべきではない。積もりに積もったどす黒い罪悪感の中心点に、そんな決意がうっすらと芽吹いていたのだ。暗い顔を張り付けたまま家に帰ったら、文字通り両親や弟に合わせる顔がない。
 クリスティーネがサンドバッグにされるバッドエンドは、彼女のファンならば誰も望んでいない。暴力に打ちひしがれた姿ではなく、慈愛に溢れた笑顔こそ、家族や友人が求めているものだ。妄信かもしれないし、現実逃避かもしれないし、傲慢という大罪なのかもしれない。それでも、光を失った両目を家族に向けるよりはマシだ。

「そうか。ならば――」
「はい。私にやらせてください。罪のない命の犠牲を、これ以上増やさないためにもっ!」
 クリスティーネらしい若干甲高い声で、決意が表明された。わざわざ立ち上がってから、深々と頭を下げたクリスティーネに対して、ジャスティンは手の平を差し出す。
「ありがとう、クリスティーネ。君を必ず英雄にしてやるからな」
 自信たっぷりに言ってみせたジャスティンと、クリスティーネは握手を交わした。両者とも固く手を握り合い、悪を挫くための揺るぎなき意志を確かめ合った。

 

 母なる山の女神に抱かれたかのように、自然の恵みたっぷりな山村、” 東流津雲村ひがしるつくもむら”。
 村全体を取り囲む小高い丘の数々には、天然の木々が群生しており、時折その中から「ホーホケキョ」と鳴き声が聞こえてくる。様々な品種の畑が点在しており、合間には新旧織り交ざった茅葺き屋根の家屋が点在している。のんびりとした白い雲が流れる、青空を見上げていると、まるで牧場で昼寝している牛たちを眺めているような気分になるのだ。
 長い階段を登り終えたところにあるのは、村を一望できる屋外集会場。四本の柱に板を乗せただけかと思うほど、簡素な屋根の下では、この村に住んでいる子どもたちと、ノイシュウィーン村の子どもたちが集まっている

「元気だせよー、クリストファー。ほら、このカードあげるからさ。ウルトラレアだぜ」
 集会所からやや離れた草むらの上に、直接座っているのは、緑の半袖を着て、赤いジャージズボンを履いている、狐人間のピーターだ。カードの束から一枚を取り出して、すぐ隣に座っている、若草色のローブを着た犬人間のクリストファーに見せた。
「いらないや」
 ぼんやりと青空を見上げていたクリストファーは、一瞥だけすると、すぐにまたぼーっと上を眺めるのに勤しんだ。
「そんな気にしてても、クリスティーネ姉ちゃんは帰って来ねぇって。BASドームのホテルに泊まっているんだろ? 寂しくなったら、テレポート・チケット使って、おまえの方から会いに行きゃいいじゃん。弟の特権で、タダで高級ホテルで寝れるかもしれねぇぜ」
 片目を強く瞑りながら言ったピーターは、カードの束をデッキケースにしまった。あのクリスティーネ姉ちゃんは今、BASドーム近くのホテルに滞留して、短期間の猛特訓に打ち込んでいる。それを知らせてきた時のクリストファーの、途方に暮れた面持ちが、何とか慰めてあげなければと、ピーターに思わせたのだった。

「……お姉ちゃん、毎日朝から晩まで特訓しているんだって。詳しいことは分からないけど。夜に行くのは危ないから、お母ちゃんがダメって言うしさ」
 クリストファーは、どこかむしゃくしゃした様子で語った。
「きっとおまえを驚かせるために、頑張ってるんだよ」
「家出だよ……絶対。僕が逆ギレしたせいだ。お姉ちゃんがあんなに傷つくなんて思わなかった」
 両膝を抱えながらクリストファーが言う。赤ちゃんのように叫んで鬱憤を晴らせば、いつものようにお母ちゃんやお父ちゃんが、何とかしてくれるだろうと思っていた。ところがどっこい、お母ちゃんとお父ちゃんは喧嘩を始めて、クリストファーの気持ちを代弁してあげるどころではなくなった。
 お姉ちゃんと仲直りして終わりだろうと思ってたクリストファーは、逆ギレしたのを皮切りに、軋轢を修復不可能なレベルにまで発展させてしまったことを、物凄く後悔していたのだ。あの夜、形だけクリスティーネと仲直りしたのだが、それ以来全くと言っていいほど口を利いておらず、数日前に突如告げられた言葉が「しばらくBASドームで修行してきます」なのだ。むしろ、家出と思わない方が不自然だ。

「なんでもっとお姉ちゃんに感謝できなかったんだろう……」
 言ったクリストファーは、揃えた両膝に顔を埋めた。別に涙を流している訳じゃないが、どこまでも続く青空に、星の瞬きが失せた闇黒と同じ虚無を見出したのだ。
「おまえは悪くねぇよ。……フェリックスさんも、ヘディおばちゃんも。……クリスティーネ姉ちゃんも」
 誰も悪くないという、安直で非論理的な慰め方。根が深い苦渋にうなされるクリストファーにとって、一時的な鎮痛剤になるかもさえ分からない。

「よっしゃあ! みんな、今からお魚ちゃんを捌くでー!」
 作業台の前に立った、頭に白い手拭を巻いた狸尻尾の健司が、逞しい声で宣言する。屋外集会場の近辺に散らばっていた、東流津雲村とノイシュウィーン村の子どもたちが、健司が向かい合う作業台へと群がってきた。
 いつもお世話になっているからと、東流津雲村の気のいい人たちが、ノイシュウィーン村の無邪気な子どもたちを招いたのだ。休日だし、テレポート・チケットの使用回数にも余裕があるが、BASドームに行く気になれないクリストファーとピーターは、他にすることがないのでここにやって来た。ありがたいことに、交通費は東流津雲村人持ちだが、懐事情の方は大丈夫なのだろうか……?
 子どもたちは一様に、ざるに載せられた大量の魚をまじまじと見ている。背部が黒青色で腹部が銀白色な、細長い魚だ。
「切っちゃうの?」
 健司が一本の魚を分厚いまな板の上に載せると、最前列で立っているビビが言った。白ワンピースとウサギの白い耳が可愛らしい、真っ白なウサギの人形をいつも抱えている女の子。ノイシュウィーン村の食文化の関係上、魚に見慣れていないこともあるのか、牛や鶏の屠殺と違って抵抗があるのだろう。
「せやで。骨が喉に刺さったらアカンからな」
 包丁を手に取った健司は、ビビの顔を覗き込みながら答えてあげる。
「かわいそう」
 そう言いながら、上目遣いでまん丸おめめをパチクリされると、どうにもやりづらい。だが健司は、子どもにこう言われるのに慣れているのか、特に表情を変えることなく、優しく言い聞かせてあげる。
「うむ、かわいそうやな。だから、お魚ちゃんに感謝して食べるんやで!」
 健司は魚の腹部を包丁で切り、腸を取り除く。手慣れた包丁捌きが実演されると、多くの子どもたちは沸き立った。
「どうしても、ダメなの?」
 ビビから混じり気のない疑問をぶつけられた健司は、二尾目の魚を持ち上げたまま、少年のような目でまん丸おめめを見つめた。
「だって何か食わんと、ビビちゃんもお腹空いて死んじゃうやろ? ビビちゃんが生きてくためには、仕方がないんや。お魚ちゃんも、食われたくて食われるわけじゃあらへんけどな。だから、お魚ちゃんの分まで幸せに生きてやってな」
「うん……」
 小さく頷いたビビは、納得しているのかしていないのか、微妙な風だった。健司は再び魚捌きの実演を再開し、子どもたちの「すげー!」とか「はえー!」とかといった声で、集会所は埋め尽くされてゆく。

「ガキの扱い、本当にうめぇよな」
 あえて集会場に背を向けて座っているピーターは、顔だけを後ろにしたまま呟いた。
「あの調子で、お姉ちゃん以外の人に懐いてくれればいいんだけど。あいつが空気を読まないで、いっつも遊びに来るから、お姉ちゃんの休む暇がなくなるんだよ」
 自分の犬耳を真横に引っ張るクリストファー。あの子が視界に入っただけで、ふつふつと怒りが込み上げてくる。ビビが遊びに来たら、真面目で優しいクリスティーネは、よほど忙しくない限りは付き合ってくれる。必然的に、クリスティーネは疲れてしまうし、練習や仕事の時間も削られてしまうのだ。
 幸いなことに、クリスティーネは当分教会堂には帰ってこない。ここ数日の間、短い足で一生懸命歩いてきたのに、クリスティーネがいないと分かるなり、寂しそうに坂を下りてゆくのを繰り返している。そんなビビを私室の窓から眺めていると、クリストファーは冷笑せずにはいられない。姉が何も言わないからって調子に乗るガキには、いい薬だろう。
「おまえが友達に……いや、何でもない」
 ピーターは口を閉じると、デッキケースから取り出したカード山をめくり始めた。
「無邪気なフリしてお姉ちゃんを困らせてばっかりだし、あいつは疫病神だよ」
 再び虚空を見上げたクリストファーは、暫くした後、寂しそうにこう呟いた。
「僕もかぁ……」

 

 パルトメリス私立教会堂の、木造り風のキッチン。木目が綺麗な収納棚や、小奇麗にされた蛇口やパイプからは、何となく人間臭さが感じられない。黄色チェックのクロスが掛けられた、使い古しの丸テーブルは、貧乏臭さを醸し出している。丸テーブルの中心にあった、一輪の花が挿されたコップは、少し前に片付けられてしまった。

「ごはんよ~クリストファー」
 白ブラウスの上に赤いエプロンを着たヘディは、卵や野菜が詰められた挽肉を盛った皿を、テーブルの上に置いた後にそう叫ぶ。
「分かったー」
 私室から微かに声が聞こえてから数十秒後、のんびりと歩いてきたクリストファーが、キッチンの扉を開けた。黒くて長い衣装を着た父親のフェリックスは、既に席についていて、神妙な面持ちとなっている。ナイフとフォークを、四人分の料理の前に置いてから、ヘディも座った。

「あれっ!? お姉ちゃんいるの!?」
 のんびりと自分の席へと歩いていたクリストファーは、いつもの光景だが、今回ばかりは不自然な光景であることに気付いて、思わず立ち止まった。ここ数日、丸テーブルに置かれる料理は三人分となっている。
「いないのよねぇ……」
 溜め息交じりにヘディが言うと、フェリックスは伏し目がちになって首を振った。
「えっ、じゃあなんで四人分?」
「なんとなく……久しぶりに家に帰っても、晩ご飯が無かったら悲しいでしょ?」
 赤いエプロンについてゴミを、手で払い除けながら、ヘディはうわ言のように呟いた。寂しさと罪悪感に耐え兼ねて、突飛な行動をしてしまったらしい。
「もったいないなぁ」
 何かと面倒臭い神の教えを、一から十まで遵守することに反発しているクリストファーであるが、食べ物を粗末にしてはいけないという教えに関しては、誰よりも真摯な態度である。
「クリスティーネが帰って来なかったら、私とピーターで頂きましょう」
 フェリックスが言っても、「やったー!」と喜ぶわけでもなく、クリストファーは大人しく席に着いた。三人揃って「いただきます」を言うと、それぞれ無言でナイフとフォークを持った。

 キッチンの床に、底が見えない暗い穴が空いていて、全員がそれを見下ろしているかのような心地だった。ぽっかりと空いたような虚無感。漠然とした遣る瀬無さばかりが、胸を埋め尽くす。
 疲れ果てたクリスティーネをいないものとして扱っていた、あの頃ですら懐かしく思える。時限爆弾を突っつかないように、押し黙って食事していた重苦しさよりも、家族全員揃っていたという確かな事実が、より鮮明に脳裏に過ぎるのだ。
 無言の重圧を打破するためか、ヘディがエプロンのポケットからリモコンを取り出し、テレビの電源を付けた。複数のフォーミュラカーが、サーキットを走っている映像が流れた。ともすると、女性の悲鳴とも聞き間違えてしまいそうな、エンジン音の集合体がスピーカーから飛び出してくる。
 普段のビルンバウム家は、テレビを観ながら食事をするという不健全なことはしないのだが、誰も何も言わない食卓に我慢ならず、ヘディがリビングからテレビを持ってきた。「犠牲になってくれた命を、しかと味わうべきです」といつも主張しているフェリックスは黙認しているし、クリストファーはクリストファーで、「やっと他の家と同じように食事ができる」と、悲愴な毎日におけるせめてもの慰めだと認識している。
 三人とも、無言に持たせる意味合いを変えていた。しかしながら、トップに躍り出ていた車両がゴール地点を通過し、エンジン音に代わって歓声が轟くと、水を差すように見慣れたCMが始まった。一時的に我を忘れていた三人は、ナイフとフォークを動かすのに勤しんで、甲高いエンジン音が鳴り響くのを心待ちにしていた。

 ふいに、近未来風のサイバーチックな効果音が鳴る。クリストファーが聞き慣れているこの音は、BASドームに遊びに行けば、嫌になるほど耳にするものだ。
「BASのCMだ」
 音に釣られるようにして、テレビに注目したクリストファーが言う。
「珍しいわね~。いつもはホテルや特産品のCMばっかりなのに」
 和やかな家庭の場を取り戻す絶好の機会だと、ここぞとばかりに冗談っぽく笑うヘディ。何とか気を紛らわしたいという微かな想いは、次の瞬間に容易く打ち砕かれてしまう。
『狂えるサンドバッグ職人、サルバドル=ペレスの殺戮本能は、止まる所を知らないッ! 子猫、子犬、そして人間の赤ちゃんッ! 獰猛なケダモノを鎮めるために捧げられる、次の生贄は――』
 暑苦しいナレーションの文句とともに、次々と瞬間的に映し出される映像は、ロープで吊し上げられた子猫や子犬、そしてドラム缶に括り付けられていた赤ちゃんの映像だった。
 まさかキッチンでバイオレンスなものを見せつけられるかと、夢にも思っていなかったヘディは、危うくナイフとフォークを取り落としそうになった。フェリックスも、テレビを注視したまま硬直する。
(今の子猫って……!?)
 ピーターに唆されて、インターネットで度胸試しをした時の、心の傷が蘇ったクリストファー。あの映像の続きでは、子猫が何度も殴られ、エアガンで撃たれ、ナイフで切り刻まれ、そしてライターで火達磨にされるのだ。心ない男の笑い声が響く中で。
『慈悲深き暗殺者、クリスティーネ=ビルンバウムッ! 無垢の命を救うために、自らその身を差し出したッ! 決戦の地は、” 聖グブルバヌグ大聖堂”ッ! 十字架を背負い者は、聖地にて殉ずるッ!』
 サルバドルに首を締め上げられている、クリスティーネの映像が目に飛び込んだ瞬間、ヘディはテーブルを両手で叩き付けながら立ち上がり、フェリックスは両目をカッと見開いた。次いで、クリスティーネが祈るような映像と、聖グブルバヌグ大聖堂の映像が流れ、その上に重なって開催場所と日時が提示されると、通り魔的なCMは終わりを告げる。

「どういうこと!?」
「聞いてませんよ……!?」
 両親は真っ先に互いを顔を見合わせ、すぐさま口をあんぐり開いているクリストファーを凝視した。本当に何も知らないクリストファーは、首をブンブンと振り回したが、言い訳するかのように、頭に浮かべた嫌な予感を口走る。
「まさか、あいつ……!?」
 まるで瞬間移動のようにクリストファーの真横に移動したヘディは、もう一度丸テーブルを叩き付けながら叫ぶ。
「教えなさい、クリストファー!」
「いや、でも――」
 インターネットで危険なサイトを閲覧し、とても親に言えないような動画を観ていたことから、クリストファーは根掘り葉堀り詰問されることを恐れていた。その場にたまたま居合わせたクリスティーネには、「普通にやっていたら騙された」という嘘を信じ込ませているが、ヘディに対してはそうもいかないだろう。
「早く教えなさい!」
 屈んだヘディが、両手で若草ローブの首を締め上げてきたので、クリストファーはヒヤヒヤしながらも説明せざるを得なかった。
「も、もしかしてだけど……さっきのヤツ、僕知ってるかも。猫を虐待するのを、動画に撮って笑っていた。BASとかじゃなくって、本当に殺していた」
 若草ローブから手を離したヘディは、その両手でクリーム色の天然パーマを掻き毟りながら、どうしようもなくキッチンを歩き回る。
「クリスティーネが、本当に殺されるっていうの!?」
「でも、BASだから、死なないはず……」
 母親を落ち着かせるように、小声で知らせたつもりだが、立ち止まったヘディは更に声を荒げてしまう。
「猫や犬、それに赤ちゃんまで殺すような悪魔が、舞台を演じるだけで満足するわけないでしょ! BASが終わった後に、クリスティーネを殺さないっていう保証があるの!?」
 最近暴力沙汰に見慣れていたクリストファーは、ここに来てようやっと、姉が置かれている状況の危険度を痛感し、顔面蒼白となった。殴られても死にやしないだろうと、感覚が麻痺してしまっている、自分自身に戦慄さえする。

 その間フェリックスは、部屋の中に備え付けられていた、固定電話を手に取っていた。別れ際にクリスティーネから教えられた、ホテルの電話番号を打ったのだろう。気づいたクリストファーとヘディが一旦静まり、調子を狂わせるような歓声がテレビから流れる間、フェリックスの背中を見ていたが……。
「どうやら、留守にしているようです」
 受話器を置いたフェリックスは、そう告げるとともに顔の皺を増やした。
「お姉ちゃん、今の時間も特訓中だから……」
 クリストファーが憚るように言うと、すっかり浮足立っているヘディが、口早に喋り出した。
「もしかして、私たちとの連絡を絶つために、クリスティーネを監視下に置いたんじゃ……!?」
 どさっと自分の椅子に座ったヘディは、両肘をテーブルの上に置き、側頭部の犬耳を真下に引っ張った。
「……そうかっ! お姉ちゃんを勝手に生贄にしたくて、特訓とか言って騙したんだな!」
 叫んだ勢いで立ち上がったクリストファーは、冷や汗をかいている。
「電話に出る余裕すらないほど、疲れ果てているんだわ。理不尽な猛特訓を強要されて」
「もしかして、ホテルの電話も盗聴されていたりして……!?」
 二人揃って取り乱しているためか、話がどんどん変な方向へと進んでゆく。とはいえ、あながちあり得ない話ではない。
「……直接開催地に赴く以外には、クリスティーネと会う手立てが、存在しないと考えるべきでしょうか……」
 唯一人冷静だったフェリックスは、話が飛躍しすぎではないのかと訝しく思いながらも、二度目の電話を試みることはなかった。そもそも、自分が「クリスティーネなら大丈夫」だと事態を看過していたせいで、収拾がつかなくなってしまったのだ。父親として、家庭を守れなかったという負い目があるし、黙って二人に従った方が良いと考えている。

「あぁ……私がしっかりあの子を見ててあげれば、こんなことにはならなかったのに……」
 顔を覆った両手の隙間から、ヘディの涙声が漏れてきた。どうすることもできず、クリストファーは座り直して床を見下ろしている。
「聖グブルバヌグ大聖堂ですか……。始発のバスに乗れば、ここからでも開催時間に間に合いますね」
 CMの最後に提示された、ライブの開催日時と場所をはっきりと覚えていたフェリックスは、控えめな様子でそう言った。
「大聖堂には、私の善き兄弟もいらっしゃいます。明日お電話を差し上げて、どうにかして席を確保できないか取り合ってみましょう。真実を見極めるためには、他の誰でもなく、私自身が赴かなければなりません」
 本当にクリスティーネは、道理に背いた大衆娯楽のための、生贄に貶められてしまったのだろうか? クリスティーネ自身が選んだ道だからという、傍観的な態度に尚も固執するならば、それは取り返しのつかない悲劇をも受け容れることと同義になる。
 フェリックスは神頼みではなく、自分の目でクリスティーネを見守ることを決意した。クリストファーが姉の応援に行くことを放棄し、ヘディが絶望に暮れているこの状況、クリスティーネを救うには、自ら動くしかないのだ。
「僕も行って応援する! もしお姉ちゃんが、ライブが終わってから襲われたりしたら、僕も一緒に戦うっ!」
 纏わり付く負の感情を振り払うように、クリストファーが言った。今まではお姉ちゃんだけが戦っていて、自分はそれに甘えるばかりだった。だから、今度ばかりは、クリスティーネへの恩返しやお詫びを兼ねて、一緒に戦わなければならないのだ。
「許可しますが、私のそばから離れてはなりませんよ。もしその男が、本当に罪のない命を奪うような悪漢であった場合、あなたにも矛先が向けられる可能性がありますから。人質にとられてしまう恐れもあります」
 クリストファーは、「分かった」と言って大人しく頷いた。

「……私も行くわ!」
 目に溜まった涙を人差し指で拭きながら、ヘディが力強く言った。
「無理をなさる必要はありませんよ。どのような形であれ、惨たらしい光景が待ち受けているでしょう。確実に」
 フェリックスは両手をあげなら、慌てて言い聞かせた。娘が傷つく姿を観たくない、そのような現実が繰り広げられていることすら許容できない。そのような理由で、常にクリスティーネのアーティスト活動に反対し続けていたヘディが、ライブを観に行こうとするなんて、自棄を起こしたのではないかと勘繰ってしまう。
「今まで私が血生臭いことから目を背けていたせいで、クリスティーネがいいように利用されてしまったのよ。母親として失格よ」
 腹の底から捻り出したような、低い声で喋っているのは、無能な自分自身に腹を立てているからなのだろう。
「だから……今更遅いかもしれないけど……あの子が道を踏み外さないよう、私が見張らないと」
 唇を噛み切らんばかりに、歯を食いしばってもう一度押し黙ったヘディは、己を恥じているのだ。母親が真っ先に目を背けてしまったら、一体誰が子どもを正しく導けるというのだろうか?
「思えば、私ももっと親身になって、相談に乗ってあげるべきでした。戦うことの罪悪感、十字架を背負うことの重圧。理解し、共感することができるのは、私だけですから……」
 罪を代わりに背負ってやるかのように、フェリックスが寄り添いながら言った。価値観、そして教育方針の違いから、無言の対立を続けてきた妻が反省したのに、まだ頑固に徹するなら卑怯者だ。そして、クリスティーネの心労に対する冒涜だ。

「母ちゃんが来てくれた方が、多分、お姉ちゃんも嬉しいと思うよ」
 嘘か真実か、自分でも分からない言葉だったが、クリストファーは言わずにはいられなかった。すぐにヘディが、戦っている時のクリスティーネと似ている、凛々しい目つきになると、クリストファーはなぜだか急に眠たくなってしまった。
「そうね。皆で応援に行きましょう。クリスティーネが負けないように」

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