古資材を寄せ集めた掘っ立て小屋がひしめく、夕焼けのスラム街。その集会場の屋根の上で催されているのは、二名のバトル・アーティストによるBASのライブ。ストリートチルドレンはじめ沢山の人々は、屋根と屋根による段差や、粗末なバルコニーを観客席代わりとして、熱狂していた。
(やっぱり来ちゃったか。まー、まだ見せてない手札があることだし、付き合ってあげてもいいかな)
二輪のジャンク花を二刀流ナイフとして構える、継ぎ接ぎだらけのドレスを着た、羊人間のロジータ。剣身を縮小させ、飛び蹴りを浴びせようとしてきた、水色ローブ犬人間のクリスティーネと同様、鋭いジャンプからの斬撃で迎え撃つ。多くの観客は、両者が空中で無意味に交差しただけのように見えたが、クリスティーネが短剣でしっかりナイフ花を防御していた。
間髪を入れず、激しいインファイトが繰り広げられる。
「ちょ! 待っ! 速すぎない、あの人!?」
半裸の男の子は、興奮しすぎてすっかり混乱しているようだ。素人の目には追えないハイスピードな攻防で、小屋の屋根に座る観客たちの緊張感が高まる。
ナイフ花と双剣がぶつかり合った、甲高い金属音が絶え間なく鳴り響いている。時間とともに、継ぎ接ぎだらけのドレスに切れ込みが増えて、集会場の屋根に垂れ流されるロジータの血も増えてゆく。序盤でいいようにやられていたクリスティーネが、遅れを取り戻しつつあるのだ。
(なかなか素早いお方ですね。ですが、剣さばきが甘いですっ!)
正統な武術の稽古を積んだクリスティーネは、狡猾ですばしっこいとは言え、武術の手解きを受けていないだろう、ロジータの動きを見切りつつあった。身を反らせて、二本のナイフ花による薙ぎ払いを避けたクリスティーネは、瞬時に踏み込んで高速のコンビネーションを叩きこむ。短剣を握ったまま、左ストレート、右ストレート、左でボディーブロー。
(いたたっ!? ガードガード!)
ディバイン=メルシィを食らっても無痛でいたロジータは、いきなり痛みが襲い掛かったことに驚く。頭を引っ込めた亀のように、上半身を堅く守ったロジータに、本命の右足ローキックを叩きこむクリスティーネ。
「お姉ちゃんって、足技が得意なんだよ」
姉が優勢になりつつあるのを確信し、しれっと我が物顔で呟くクリストファー。バランスを崩したロジータに、追撃の踵落としが炸裂! 一瞬よろめいた後、後方に倒れてしまうロジータ。
更なる追い討ちとして、クリスティーネは両手を振り降ろしながら、双剣を双鞭へと伸張させた。二本の鞭を叩き付けられて、肩口から脇腹にかけて大きな傷を受けながらも、ロジータは仰向けのままナイフ花を投げつける。それらは手元を離れた瞬間、ジャンクパウダーへと分解された。目潰しにはお誂え向きだろう。
咄嗟の判断で目を瞑ったことが幸運で、クリスティーネは全身にジャンクパウダーを浴びるだけで済んだ。ロジータはその隙に素早く起き上がり、腰にある布袋を引き千切って新たなナイフ花二本を再構築する。
再度高速の剣戟が繰り広げられる。隙あらばとクリスティーネが鋭い蹴りで不意を討ち、間合いが離れるや否や短剣を鞭に変えてラッシュを緩めない。
(段々と、動きが分かってきましたっ……!)
ふいにロジータが右腕で突きを繰り出した瞬間、クリスティーネは短剣を手放した右手でそれを掴む。手首には、鎖によって柄頭と繋がっている錠が嵌められているので、例え短剣を手放しても宙吊り状態になり、取り落としてしまうことが無い。
すかさず左手をロジータの顔に近づけ、全身を使って押し倒そうとするが、反応したロジータが左手で跳ね返そうとする。だが、上から押しつけるクリスティーネの左手に対し、下から持ち上げるロジータの左手は、物理法則からして不利なことは明白。徐々にロジータの上半身が弓なりに反ってゆく。
と、いきなりロジータがクリスティーネの左手甲に噛み付いた!
「痛っ!?」
まさか噛み付かれると思わなかったクリスティーネは、怯んで力を緩めてしまい、好機とばかりにロジータがクリスティーネを押し飛ばす。
「うわあ! ずりぃ!」
クリストファーの隣に座る、緑半袖狐人間のピーターが声を荒げると、背後に座っている暖かいセーターを着た男の子が、笑いながら説明した。
「あれ、捕まった時に便利だよ! 今度やってみて!」
両者とも、正面切っての激しい近接戦を演じながら、右へ左へ旋回している。クリスティーネもロジータも、側面、或いは背後に回りこもうと、虎視眈々とチャンスを窺っているのだ。
(やっぱりちゃんとした訓練をした人は違うね。動きが洗練されちゃっている)
テクニックとスピード、ともに自分を上回るクリスティーネから、幾度となく斬られ、刺され、時には殴られ蹴られ投げ飛ばされたロジータ。ピンチに陥っているという思い込みのせいかもしれないが、思うように身体が動かず、しばしば手元が狂ってしまう。殊更、スピードの低下が顕著だった。
動きを殆ど見切っていたクリスティーネは、身を捻るようにして半回転。その勢いに乗った双剣が、二本のジャンク花を弾き飛ばす。そして、回転の勢いに乗ったクリスティーネの強烈な後ろ蹴りが、ロジータの腹部に突き刺さる! 衝撃でくの字となったロジータは、大きく後方に吹き飛ばされて仰向けになる。
「あぁー!? こいつはマズイや!」
両手で腹を押さえるロジータを見て、ストリートチルドレンが絶叫する。
二本の短剣が伸長して鞭となる。助走をつけたクリスティーネは、頭上で両腕を交差させたまま、大きな跳躍で前宙返り。
「出た! お姉ちゃんの必殺技! グランドクロス!」
興奮して叫んだクリストファーは、早くも勝った気でいる。
グランドクラスとは、前宙返りによって乗せた遠心力を増幅させ、X状に二本の鞭を振り降ろす大技だ。敢えて垂直に振り降ろさないのは、双鞭が同時に交差する一点に威力を集中させる為だという。クリスティーネの先祖は、重鎧を着た敵を想定してこの技を編み出したらしい。
果たして物理学として理にかなっているのか、突っ込まれることもたまにあるが、そこはメーションの力によるものだろう。ビルンバウム家の象徴である十字を技として取り入れる、それだけでもかなり強烈なイメージを思い浮かべられるから、メーションとしては合理的だ。
(ロジータさんの武器を弾き飛ばしておきましたから、あれを粉にしての目潰しはできないでしょう! 大チャンスですっ!)
空中で一回転したクリスティーネが、仰向けになっているロジータ目掛けて、双鞭を振り降ろそうとした、その刹那。クリスティーネの水色ローブの表面から、ジャンクでできた蔓が発生する。数本の蔓は急速に生長して、クリスティーネは雁字搦めにされた!
「何だよ! もう少しで勝てたのに!」
大技が不発に終わり、受け身もとれずに集会場の屋根に落下したクリスティーネを観て、ピーターは自分の太腿を叩いて悔しがる。
「……そうか。さっきロジータが倒れた時、お姉ちゃんにジャンクパウダーを掛けたからか。単なる目潰しだと思ったけど、ピンチやチャンスでああする為の布石だったんだね」
余裕ぶって解説するクリストファーだが、内心割と悔しがっている。
「その通り。君、なかなか勘が鋭いね。やっぱり血は争えないのかな?」
セーターを着たストリートチルドレンが、微笑みながらクリストファーに語りかけた。
(これ以上接近戦に付きあっていたら、やられちゃうね)
跳ね起きたロジータは、腰に装着した布袋を残らず引き千切りながら、雁字搦めにされたまま倒れているクリスティーネから離れてゆく。蓄積したダメージによってか、若干身体がフラフラしているようだ。
効力が消失したジャンク蔦が霧消し、クリスティーネが立ちあがった頃には、集会場の屋根上はジャンクパウダー塗れになっていた。
(思わしくないですね……。距離を取られた上に、足の踏み場もありません。この粉の上を歩けば、花と化して突き上げてくるでしょうし……)
ライブ終了を告げるゴングの音や、クリストファーやピーターの悔しそうな顔が、クリスティーネの脳裏に過ぎる。大きな不安が胸の中で渦巻き、世界が狭まってしまうような感覚に至りながらも、クリスティーネは鞭を水平に振るった。
ロジータは身を屈めて避けようとしたが、動きが鈍いせいで頬にモロに食らってしまう。構わずロジータが、屋根上に積もったジャンクパウダーを片手で掬い上げると、それらは無数の花弁へと変化した後、クリスティーネに襲い掛かる! 二本の鞭を目の前で回転させ、一直線に来るであろう群体を弾き飛ばそうとするが、花弁はふわふわと不規則な動きで近づいてくる。
前から来る花弁は弾き飛ばせたが、側面や背後、頭上から迫る無数の花弁を身に受けるクリスティーネ。一発ずつの殺傷力はとても低いようだが、数えきれない程の裂傷、刺傷が瞬時にできる。
立ち尽くした状態で鞭を振るい続けるために、次々と飛来するジャンク花弁にやられ放題になるクリスティーネ。ロジータは鞭の直撃を受けながらも、痛みを感じないのをいいことにやせ我慢し、パウダーを蹴り飛ばしたり、掬い上げたり。ジャンク花弁を舞い散らしながら、激しいダンスを踊っているかのようだ。
「クリスティーネ姉ちゃん! なんで動かないんだ!?」
心が昂りに昂っているピーターのそれは、もはや声援というより怒声に近い。
「粉の上を歩くことは、自分でジャンク花を踏むようなものだから、自殺行為だよっ! お姉ちゃんもそれが分かっているから、動けないんだ……!」
いつも優しい笑顔でいるクリスティーネの、苦痛で歪んだ顔を直視するのは、クリストファーには耐えられなかった。俯き、引っ張った自分の犬耳で口を隠し、身内自慢をする余裕がない。
「カッコいい! キレイ! 最初からああやれば良かったのに!」
半裸の男の子が、クリストファーの両肩を掴んだ状態で、小刻みに跳び跳ねながら叫ぶ。
「あの状況に持ち込むには、パウダーがジャンク花に変わるという”恐怖”を刷り込む必要があるんじゃない? 何も知らなかったら、敵は真っ直ぐ突っ込んで来ると思うわ」
所々が黒ずんだ、白かったはずのワンピースを着た女の子が述べた。
(クリストファーもピーターさんも、せっかく観に来て下さったのに……!)
クリスティーネは、敗北を腹の底から怖れていた。こなしたライブの数は少ないものの、実質的に全戦全勝と誇ってもいい状態だからこそ、敗北に敏感になっても仕方無いかもしれない。勝ったら勝ったで、ストリートチルドレンたちに色々言われるかもしれないが、敗北を喫してクリストファーたちに文句を言われる方がもっと怖い。
(もっと勉強して……もっと賢くなっていたら……!)
人を憎むなと教えられて育ったクリスティーネは、自分自身を責めた。花弁による冷たい痛みが遠のいて、代わりに胃を圧迫する何か重苦しいものが増大してゆく。視覚や聴覚が鈍り、当然の如くパフォーマンスが低下する。その結果、更に情けない姿を晒す自分自身が、余計に嫌になる。
(駄目ですっ、こんな有様では……! 私には、この身を犠牲にしてでも、皆様の為に尽くす義務が……!)
勇気と言うよりは、むしろ強迫観念に突き動かされたクリスティーネは、歯を食いしばって走り出す! クリスティーネが三歩ほど進んだところで、踊りながら花弁を放っていたロジータが念じ、降り積もったジャンクパウダーを無数のジャンク花に変えて突き上げる! 歩く度に足裏を貫かれ、あらゆる方向からジャンク花で串刺しにされるクリスティーネだが、車輪のように両側面で双鞭を高速回転させつつ、捨て身で猛進する!
「お姉ちゃんがああなったら、失敗するパターンだ。ヤケになっているから……」
姉のことをよく知るクリストファーは、その大胆さによって周囲が興奮する最中、独りもどかしそうに呟いていた。
(ちょっと、止まらないじゃん!?)
前後、そして足元から数多のジャンク花で貫かれながらも、形振り構わず接近してくるクリスティーネを見据えながら、ロジータは狼狽えている。両側面からのジャンク花は、回転する鞭で防ぎ切っているとはいえ、殆ど勝負を棄てているような行動だ。タフネス自慢の重量級アーティストなら普通にやってきそうだが、どちらかと言えば軽量級のクリスティーネがこういう風に来るのは、はっきり言って想定外だった。
(今接近されちゃったら、対応できないってのに!)
ベルトに装着したパウダーを、残らずステージ中にばら撒いた為に、即座に短剣代わりのジャンク花を創ることができないのだ。降り積もったパウダーを掻き集めたり、再構築しながらベルトへと還元するにしても、そんな暇はない。
素手でも戦えないことはないが、格闘戦におけるクリスティーネの優位は、嫌というほど思い知った。これ以上やられると負けてしまうかもしれないからと、ロジータは接近戦を完全に捨て、遠距離戦だけで決着を付けようとしたのだが、判断を誤ったかもしれない。
ジャンク花を突き上げるのを止めたロジータは、足元にあるパウダーを蹴り飛ばす。クリスティーネを蔦で雁字搦めにする為の布石だ。
(もう、限界ですっ……! 早くトドメを刺しませんと……!)
対するクリスティーネは、最後の力を振り絞り高く跳躍。そのせいで、蹴り飛ばされたパウダーは掠りもしなかった。
「あっ! あの体勢は!」
騒然とする観客席の中から、半裸の男の子の叫びがあがる。全力疾走の勢いを借りて、空中で一回転したクリスティーネが、頭上で交差した両腕を振り降ろそうとしている!
(やっちゃった! 逃げられない!)
パウダーを蹴り上げたフォロースルーで、ロジータは片足立ち状態のままだ。そこに、容赦なくクリスティーネの乾坤一擲が炸裂する!
バシィンッ! と恐ろしく高い破裂音が響くと、ロジータの両肩口から両脇腹にかけて、花柄ドレスが引き裂かれる。そして、二本の鞭痕が交差する腹部中央に、甚大な衝撃が発生したため、ロジータは自動車に衝突されたかのように吹き飛ばされた。散々転げ回った後、仰向けになって静止したロジータは、意識こそ辛うじて保っていたが、立ち上がることはできなかった。
(痛くはなかったけど……こりゃ負けちゃったね……)
クライマックスとしては申し分ない展開だと判断されたのか、ライブ終了を告げるゴングが高鳴る。
(良かった。負けなくて……)
全身血塗れ、傷だらけのクリスティーネは、安堵のため息をつき、両膝をついて座り込むのであった。
「あ~あ、負けちゃった」
ゴングが高鳴った直後からストリートチルドレンたちが、残念そうに声を漏らしたり、クリスティーネの身体能力について驚いた様子で語り始める。
「……お姉ちゃんが勝ったの?」
地に倒れ込んだ姉を観たくなくて、錆びだらけのスラムの屋根を見下ろしていたクリストファーは、恐るおそる顔を上げながら言う。
「そうだよ~。クリスティーネの勝利。ロジータが勝ってもおかしくなかったけどね。悔しいけど、おめでとう~」
セーターを着た子どもは、わざとらしく語尾を吊り上げながら言った。内心かなり悔しがっているのだろうか。
「何だよ……。観てねぇのかよ。おまえのお姉ちゃんだろ」
呆れ返ったピーターが、クリストファーを睨み付ける。
「すごかったよー! あの人、ジャンク花を気にしないで真っ直ぐに走ったんだもん! 全然痛そうじゃなかった! 見てなかったの!?」
後ろに座っていた半裸の男の子が、クリストファーとピーターの合間に顔を突っ込んで言った。
「だって、お姉ちゃん傷だらけだったし……」
武術を嗜んでいるとはいえ、争いや犯罪とは無縁の世界で育ったクリストファーには、家族の苦悶の表情は刺激が強すぎた。
「そんなんじゃあ、スラム街で生きていけないよ〜。人間の死体が転がっているのも、珍しくはないからね~」
ここぞとばかりに、自らの精神的優位性をひけらかすセーターの子ども。腹黒だ。
「そうそう! “家族”だったら悲しいけど、返り討ちに遭った傭兵の死体とかだったら、ラッキーだよね! 色々手に入るもん!」
続けて、ハイテンションな半裸の男の子が叫ぶ。
「ああいう時こそ応援しなきゃダメだよ。みんな命がけで戦っているのに、金持ちの大人みたいに嘘泣きばっかりしてちゃ」
最後に、黒ずんだワンピースの子が無垢な笑顔で言うと、ピーターは舌打ちして拳を握り締めた。
「うるせぇ! おれは応援してたんだからな!」
ノイシュウィーン村ではガキ大将として名を馳せていたピーターは、一矢報いようとして思案するが、返す言葉が思いつかない。クリストファーも、フォローの言葉が出てこなかった。
「そういえばさ」
数分の後に立ち上がったロジータは、黙って座り込むクリスティーネの目の前に立って声を掛けた。ストリートチルドレンの希望を容赦なく叩きのめした為に、ありったけの非難を浴びるのではないかと、不安に陥っていたクリスティーネは、我に返り慌てて立ち上がる。
「いつもセーターを寄付してくれてありがとね。お金は払えないけど、それなりの見返りを期待してもいいよ」
悪びれることなく礼を述べたロジータ。十字に切り裂かれた花柄ドレスは、ほとんど修復されている。
「えっ? ……まあ! 私が寄付したセーターを!」
カッと見開いていた目を丸くするクリスティーネ。
「良かったら、アンタと友だちになりたいな。あんなに心も身体も暖まるセーターを作れるなんて、どんな人なんだろうなって、ずっと憧れていたんだ」
まるで詐欺師のように、ライブ開始前とは打って変わった態度になるロジータ。それなりに世間の荒波に揉まれてきた人間なら、何か裏があるのではないかと勘繰るものだが……。
「えぇ、いいのですかっ!? お金のために、貧しい人を平気で打ち据える、私なんかと!?」
滅菌消毒されたような環境で育ってきたクリスティーネは、むしろ恐縮していた。
「言うほど貧しくないって! 稼いだ大金を親にぶんどられちゃうのと、自由に使える小銭を握り締めているのと、どっちが”貧しい”のかって話」
「そうなんですか……。すみません」
そう言ってクリスティーネが伏し目がちになったのを、ロジータは見逃さなかった。あえて子どもらしい笑い方をすることで、善良なシスターの同情を誘ったのだ。
「……本当は、明日食べる米すら買えるのかってくらい、貧乏やっちゃってるんだけどね。だから、あんたがくれるセーターが本当に嬉しい。お金じゃ買えない幸せだよ」
事前に用意していたセリフを口にしたロジータは、内心してやったりの気分だ。一旦相手を貶してから褒める。ホストなどがよく使う心理テクニック。クリスティーネがしょんぼりするという嬉しい誤算を、すかさず利用したのだ。
「あっ……ありがとうございます」
ポカンと口を開くクリスティーネに、開いた手を差し出すロジータ。ライブ開始前に続いての、二度目の握手。
「何度も言うけど、ありがとね。セーターを着ている子たちを代表して、言わせてもらうよ」
「は、はいっ。どういたしまして!」
呆然としながらも、クリスティーネは手を握る。そうしてケタケタ笑うロジータを見て、クリスティーネの口元が微かに緩む。
「ありがとねー! クリスティーネお姉ちゃん!」
「これからもよろしくー!」
ストリートチルドレンたちは、思い思いにクリスティーネに声を掛ける。摩天楼の影が小屋小屋に長い影を落としても、生き生きとした歓声がスラム街に響いていた。……もしかしたら、これもロジータの指示による、セーターちょうだい作戦の一環なのかもしれないが。
「……練習しようぜ、クリストファー」
ガキ大将としてのプライドを、ストリートチルドレンたちに砕かれたピーターが、項垂れたままで言った。
「えっ、何の?」
クリストファーは、眉間に皺を寄せているクリストファーの横顔を見ながら訊いた。
「暴力を観る練習だ。おれたちの方が年上なのに、ここのストリートチルドレン、おれたちよりもずっと大人なんだぜ。クリストファーも悔しいだろ?」
「いや、あまり……」
姉の傷つく姿が観たくないと、はっきり言えないクリストファー。
「悔しくねぇのかよ! おまえそれでもクリスティーネお姉ちゃんの弟か!? いつもビルンバウム家の自慢をするくせに、自分は弱虫かよ!」
拳で屋根の段差を叩き付けたピーターが怒鳴る。
「うるさいなぁ……! 僕は聖職者だから、暴力を観て悲しみなさいと、父ちゃんに命令されてるだけだってば!」
ムッとなって言い返したクリストファーは、虚言を弄して面目を保とうとするのであった。
朝から分厚い雲が空を覆うせいで、微かな肌寒さを感じさせる昼下がり。赤い絨毯が敷かれたクリスティーネの私室にて。
素朴だが神秘性を帯びた、宗教的な絵画が白い壁に飾られ、本棚には背表紙に十字架があしらわれた分厚い本がずらりと並ぶ。ロンググラスに挿された一輪の白い花が、年季の入った低いテーブルの中央に置かれ、窓の向こうでは灰色の雲が広がる。
作業机に置かれたノートパソコンと向き合うのは、木造りの椅子に座るピーターと、自分の部屋から持ってきた椅子に座っているクリストファーの二名。さっきまでクリスティーネが、ここでBASに関するメールなどを閲覧していたところだが、ヒビが遊びに来たのでそのまま放置されているわけだ。
パソコンを触ったことが無いピーターの代わりに、クリストファーが慣れた手つきでマウスを動かし、文字を入力してゆく。張り詰めた空気の中、画面に映るのはとある動画共有サイト。背景からして、違法サイト特有の危険な匂いがする。
「アニメや映画じゃダメだ。現実のを観て練習しようぜ。じゃねぇと、いつまで経ってもバカにされる」
見るからにグロテスクな展開が予想されるサムネイルがずらりと並ぶ中、ピーターが強い口調で言う。ストリートファイトで骨折、交通事故で人が死亡する瞬間、公開銃殺処刑、超グロい手術の動画、タイトルだけで戦慄するような動画ばかりで、クリストファーは心臓をバクバクと鳴らせている。
「えぇ~? こんなの観たら、パソコンがウイルスに感染しそうで嫌だよ」
もっともらしいことを言ったクリストファーは、かなりヒビっていて、マウスを握る手が震えている。
「風邪ひいた奴とくっちゃべるわけじゃねぇだろ! ラ・ラウニのストリートチルドレンは、猫や犬の死体どころか、人間の死体にも見慣れているんだぜ! ウイルスごときにヒビってどうする!」
どうやらピーターは、コンピューターウイルスの存在を知らないらしい。
「だからって、人間の死体なんかやだよっ! BASでも人は死なないじゃないか!」
「おまえ悔しくないのかよ!? おれたちの方が年上なんだぜ!」
すっかり頭に血が上っているピーターを余所にして、クリストファーはブラウザの『戻る』を押して、人間の死体が映っているであろう動画の一覧を画面から消した。
「おい、逃げんなよ! ……ったく、仕方がねぇな。じゃあ、猫の死体とかにしようぜ。おれは別に、人間の死体でも怖くねぇけど」
かくいうピーターも冷や汗をかいているが、せめて弱虫のクリストファーにだけは負けまいと意地を張っている。
「ま、まあそれくらいなら……。この村でも、何回か死んだ猫を見たことあるし……」
胸は熱く、それなのに顔は冷たくなっているクリストファーは、検索フォームに『猫 死体』と入力するのであった。