Bearing the Cross Part9

 荒野の真っ只中で、無数の車道や高架橋が入り組んでいることから、その一帯は”スネークターミナル”と呼ばれている。長距離運転手御用の簡素なホテルや休憩施設、そして高速バスなどの乗り換え場所がある他は、特に目ぼしいものが無い不毛な土地。ほとんどの人にとって、そこは旅行や運輸業などにおける通過点でしかない。どんなに物騒な事件が起こっても、無関心でいるのだ。
 それを良いことに、高速道路や荒野を爆走する暴走族たちが、高架橋の下などにキャンプを張って溜まり場とした。ロクに警察のパトロールが行われないこの一帯では、キャンプに屯する暴走族の数が増える一方。付いた俗称が、”暴走族の隠れ家”。刺激に飢えた者どもが、日夜暴力や暴走に興じる、無法地帯だ。

 灰色の雲に覆われた広大なキャンプには、空のポリタンクや錆びたドラム缶が転がっている。マフラーやハンドルが改造されたバイクが乱雑に放置され、強烈なガソリンの匂いが鼻をつく。
 キャンプ内にある、荒れ果てたレース場。レース場と言っても、凸凹な地面の要所に、ロードコーンやドラム缶を置いてコーナーとして見立てているだけ。しかも、黒い袋の山や壊れたバイクなどがそこかしこに積み上げられており、傍から見ればただのゴミ捨て場のようにしか思えない。

「今からサルバドルちゃんの特別セラピーを始めますからね~。皆たちも、一緒にセラピーを受けましょうね~」
 レース場の中央で、高らかに声を上げた女性の名前は、猿人間のファビオラ=エスクレド。ギラギラした目で、不気味な作り笑いをしている、どぎつい色の服を着た年増。無駄に高価そうなネックレスやブレスレットには、本人曰く神秘的なパワーが宿っているのだとか。こう見えても、少年院の院長なのだ。
「ぶっ殺せー、サルバドル!」
「とっととミンチにしやがれー!」
 スネークターミナルに住まう暴走族たちは、鉄棒のような器具にロープで宙吊りにされた、レース場中央の子犬に釘付けとなっていた。天井から吊下がったサンドバッグのように、身動きできずに宙で揺れている子犬は、激しく首を振り回しながら懸命に吠えている。
「何発であのクソ犬がおっ死ぬか賭けてみようぜぇ~! 俺、一発なぁ~!」
「クソくらえ。アイツのパンチは速過ぎて見えねぇ。何発撃っても、一発だったと言い張れちまう」
 弱い者いじめをして自尊心を保つことしか出来ない、暴力に飢えた暴走族たちは、唯一人の例外もなく子犬の最期に期待を寄せている。

 ファビオラの隣に立っている大男こそが、サルバドル=ペレスだ。全身至る所に傷を縫った跡があり、絶えず理性が吹っ飛んだ笑い顔を張り付けたまま、舌を出す犬のように忙しなく呼吸している。
 かなりの混血だが、一番濃いのはサボテン人間の血のようだ。頭には、髪の代わりに白い棘が生えていて、一列に並ぶそれはまるでモヒカン。側頭部や脇腹に円状の鉱物が、生まれつき埋め込まれているのを見ると、ハイ・カーバンクルの血も混じっているようだ。
 下半身は、つや消し黒なプロテクター。上半身には、同様な肩パットと胸当てを着けている。暴力的で露出度が高いこの服装は、暴走族が媚を売るために献上したものだ。

「サルバドルちゃんはね、誰かをパンチしないと生きていけない”病気”なの。でもね、それは仏さまがサルバドルちゃんにくれた、立派な個性なのよ。だから私が、仏さまの代わりにサルバドルちゃんを真理に導いてあげるの」
 荒い呼吸を繰り返しているサルバドルの横で、ファビオラが暴走族らを見回しながら嬉々として語る。何もかもが胡散臭くて信用ならないが、これから始まるとっておきのエンターテインメントが、暴走族を惹きつけてやまないのだ。
「皆たちは知ってるかしら? 前世で悪いことばかりしてきた人間は、転生した時に哀れな犬畜生になっちゃうの。今生を終えるまで、幸せになれるお薬を吸うこともできないし、バイクに乗ってドライブすることもできないのよ。自業自得だけど、とってもとっても哀れな犬畜生」
 ファビオラが目の光をギラギラさせながら喚いていると、サルバドルはゆっくりと、ロープで縛られた子犬の方に近付いてゆく。躾のなっていない猛犬が、ご馳走を目の前にしたかのように涎を垂らしながら。
「だから犬畜生は、さっさと殺してあげた方が救いになるの。でも普通の皆たちは、なるべく犬畜生を殺すのを避けたがるでしょ。だからサルバドルちゃんが、皆たちの分も含めて、犬畜生を殺してあげるのよ。それがサルバドルちゃんに与えられた天命であって、皆たちに誇るべき個性なの」
 なんかもう、色々と危ないこのファビオラのスピーチに、スネークターミナルの暴走族たちは沸き立っている。異を唱える者もいなければ、野次を飛ばす者もいない。皆が揃って、サンドバッグ状態にされて尚も吠え続ける子犬を観て、狂喜している。

「殺せ、殺せ、ぶっ殺せ! ハイ! 殺せ、殺せ、ぶっ殺せ! ハイ!」
 暴走族たちが汚いコールを轟かせる中、サルバドルは数メートル離れたところから、宙吊りになっている子犬を眺めていた。さながら、百人の美女たちの嬌声を一身に受けているかのように、蕩けた表情で視線を上に持ち上げている。
「救いを与えてあげなさい、サルバドルちゃん!」
 ファビオラの鶴の一声で我に返ったサルバドルは、突如四肢を振り回しながら、正気の沙汰とは思えない形相で助走をつけた。
「ンアアアァァァーーー!!!」
 サルバドルは奇声を発しながら、全力で拳を子犬の頭に叩き付ける! 懸命に吠えていた子犬は、頭部に甚大な衝撃を受けた瞬間より、力無く首を前に垂れて激しく痙攣する。
「アー!! アー!! アー!! アー!! アアアァァァーーー!!!」
 猛獣の咆哮すら足元にも及ばない、恐ろしい奇声を発するとともに、ストレートパンチで尚も子犬を殴り飛ばすサルバドル。ロープで吊るされた子犬は、ノミで削られた木材のように頭部が陥没し、その穴からは潰れた脳髄が垣間見える。容赦ない一撃が叩きこまれる都度、ロープに吊るされた罪のない子犬は、タイキックを受けたサンドバッグのように前後に揺らぐ。
「オアアアァァァーーー!!!」
 思いっ切り腕を引いてからの、最後のストレートパンチが放たれる。ロープを引き千切るほどの衝撃によって、子犬は10メートルも20メートルも吹き飛ばされた。
 そうして、ダンプカーに轢かれたかのような、潰れた子犬の死体は、暴走族たちの輪の中に放り込まれた。釘バッドなどの凶器を思い思いに振り回し、堂々と飲酒や服薬をして狂喜する、暴走族たちの輪の中に。

「偉いわね~、サルバドルちゃん! あっ、ちょっと待って。犬畜生の残留思念が聞こえてきたわ。『ぼくを助けてくれてありがとう。これで天人に生まれ変わることができます』って!」
 両手をわたわたさせてサルバドルに近寄ったファビオラは、そのモヒカン頭の側頭部を、テディベアを可愛がるような手つきで愛撫した。唾を垂らしながらニヤついているサルバドルには、言葉が通じているかどうかさえ怪しいものだが、自分が賛辞されていることはちゃんと理解しているらしい。
「皆たちもセラピーに参加できて嬉しいでしょう? 次はもっと罪深い犬畜生を連れてくるから、寄付をお願いね~。ペットショップで高い値段が付けられている犬畜生ほど、前世でお金を散在した罪深い魂なの、知ってる?」
 そう言ったファビオラがぎらついた目で周囲を見渡すと、そこかしこから小銭や札束が直接投げ込まれてきた。上質なショーを提供することで、酔ったりハイになったりした暴走族たちから、割と高額なおひねりを得るビジネスなのだ。
(本当は、保健所から持ってきた犬畜生なんだけどね~)
 少年院の院長という神聖な肩書きが、ファビオラの虚言を実と信じ込ませる、最大の武器なのだ。保健所の職員も、”特別セラピー”の実態を知らない少年院の部下たちも、ファビオラの上辺だけの言葉を信じて疑わないのだ。

「クソアマが! たかがワン公ごときの三文芝居で、ぼったくってんじゃねぇぞ!」
 上擦った声で叫んだ命知らずの暴走族が、持ってた瓶を地面に叩きつけ、派手に割り散らしてから立ち上がる。酔って強気になっているのか、それとも薬でハイになっているのか。
「ハァ!? サルバドルちゃんの個性をバカにするつもりなの!?」
 豹変したファビオラが叫び返すと、命知らずの暴走族は両腕を掲げながら怒鳴り散らす。
「オレは野生のコヨーテをステゴロでぶっ殺してやった! バイクをりやがったクソガキをミンチにしてやった! 縛られたワン公ごとき誰でも殺せらぁ! マヌケのおままごととは違ぇんだよ!」
 自らの胸をドンと叩いた暴走族に、他の暴走族たちの視線が集まり、奇声にも似た歓声が巻き起こる。マヌケという言葉に反応したのか、仮面が張り付いたような気色悪い笑い顔を浮かべていたサルバドルは、生気が抜けたように目と口をポカンと開いた。
「差別よ、差別! サルバドルちゃんはマヌケじゃないわよ! あんたの肉体には、悪魔が憑りついているわ! 解放してあげなさい、サルバドルちゃん!」
 ファビオラが言い終わらない内に、サルバドルは両腕をあちこちに振り回しながら、猛然とダッシュしていった。まともに喋れるかどうかさえ怪しいサルバドルだが、マヌケ呼ばわりされたことが、相当気に食わなかったのだろうか。

「来やがれってんだ! マヌケ面!」
 命知らずの暴走族は、あろうことか懐から拳銃を引き抜いた。今にも転びそうなモーションで走るサルバドルから逃げるように、周囲にいた暴走族たちが慌てて離れる。
「アギャアアアァァァーーー!!!」
 拳銃の発砲音が高鳴り、同時にサルバドルが悍ましい奇声を発した直後のこと。突如として、命知らずの暴走族は後方に数メートルほど吹っ飛び、呆気なく大の字に倒れてしまった!
(今、パンチをぶち込んだのか!? 全然見えねぇじゃねぇか、オイ!)
 奇声をあげて狂喜する暴走族たちだが、内心サルバドルの一方的な暴力に怯えている。
「アッ! アッ! アッ! アッ! アッ! アッ! アッ! ンアアアァァァーーー!!!」
 サルバドルは暴走族に馬乗りとなると、全く理性が籠ってない奇声を発しながら、力任せに潰れた顔を叩き付ける! 顔が潰された暴走族は、辛うじて握っていた拳銃をサルバドルに向け、何度も引き金を引いて抵抗する。しかし、確かに発砲音が周囲に響いているというのに、サルバドルには傷一つ付かないのだ。
(鉛玉避けてンのか……!? バカみてぇに身体を振り回してるようにしか見えンが……!?)
 暴走族たちは、喉が張り裂けんばかりの歓声を、狂気じみた動きで殴り続けるサルバドルに送っている。銃弾すら通用しないサルバドルから、敵と見做されないためにも。

 やがて命知らずな暴走族は、すぐ近くに横たわっている、脳が潰された子犬の死体と同様の姿を晒した。「おぉ……」とドン引きするような声が一瞬漏れたが、すぐさま誤魔化すような奇声じみた歓声が轟く。
「とっても偉いわ~、サルバドルちゃん! 無間地獄に落ちるような悪行を背負う前に、この悪魔の魂を解放してあげたんだから!」
 しれっとサルバドルの横に立ったファビオラは、背伸びしてモヒカン頭を撫でてやる。元の張り付いた笑い顔に戻ったサルバドルが、何を考えているのかは分からない。
「ご褒美をあげますからね~。いい子いい子~」
 メーションで片手に注射器を現したファビオラは、サルバドルの頭を撫でながら、その針を規格外に太い腕に刺した。詳細不明だが、少なくとも違法な薬であることだけは確かだ。
 黙って注射をされているサルバドルを、取り囲んでいる暴走族たちは、昨今では映像作品ですら閲覧可能かも怪しい、生の暴力を目の当たりにして満足していた。実は各々、思考が読み取れないサルバドルの逆鱗に、いつ触れるかも分からないという恐怖を抱えているのだが……。恐怖の色を顔に浮かべてしまえば、グルになったヤツらから絶縁されかねないため、あくまで弱い者いじめをする側であろうとしているのだ。

 

 茶色い壁や仄かに赤い照明が、情熱的でエキゾチックな雰囲気を醸し出している。変わった油の匂いや魚の生臭さで、肉食中心の人間は、足を踏み入れた途端食欲が失せてしまうだろう。
 木造りのテーブルには、チキンやタマネギが入ったお粥や、生魚をニンニクやトウガラシで味付けした酢じめなどがある。それらを挟むように座っているのは、側頭部にある犬耳と同じように、頭を垂れ下げているクリスティーネと、流れるような白髪パーマから、ヤギの小さな二本角を生やしたロジータだ。
 クリスティーネは、例によって多くの十字架をあしらった水色ローブを着ているが、ロジータは私服を着ている。白にオレンジの花々を鏤めたエプロンドレスと、丈夫な水色のジーンズ。どちらかと言うと、機能性を重視しているのだろう。

「なるほどねー。それで、自分の戦い方について疑問を持っちゃったっての?」
 ラフな感じの声質で、ロジータが話を纏める。クリスティーネはさっきまで、アーティストとしての悩みをロジータに打ち明けていたのだ。
 ロジータはクリスティーネとの一戦以来、ストリートチルドレンたちを代表して、クリスティーネに何かと世話を焼くようになった。模擬戦の相手を務めたり(あえて”勝率”を言うなら五分五分)、BASドームや擬似都市ラ・ラウニにある穴場を教えたり、こうしてクリスティーネの相談に乗ってあげたり。
「はい……。デニスさんの戦い方は、とても堂々としているのに……。私なんか、何度も人殺しに使われていた武器を使っておきながら、人を傷つけたくないだなんて……」
 テーブルの真ん中をぼーっと眺めながらクリスティーネが言う。残さず食べないと、作ってくれた料理人と、誘ってくれたロジータに申し訳ないと思いつつも、美味しく頂けるような気分じゃない。

「いいじゃん。クリスティーネはクリスティーネのやり方で。どうせアーティストなんて、人を傷つけてなんぼのもんだしさ。赤信号、皆で渡れば怖くないってね」
 スラム街で逞しく生きる、ロジータらしい言葉だ。
「ですが、聖職者がそんな考え方では、皆さんから批判されるのでは……?」
「えー? 普通批判する? 身内の為にお金を稼いで何が悪いのさ? 物を盗ったり、あこぎな商売してるわけじゃないじゃん」
 体裁というものとは無縁の世界で生きてきたロジータには、万人の模範であることを強要される、聖職者故の悩みというものが想像できない。
「私を信じ、愛してくれた皆さんを、裏切るようなことをしています。強盗や暴漢ならまだしも、穢れなき人間をこの手で傷つけています。そうして返り血に染まった私は、愛や人の道を説く資格があるのでしょうか?」
「穢れなき人間って……。悪役ヒール以外のアーティストとは、戦いたくないっての? まー、確かにあんたのキャラが崩壊するかもね」
「いえ、アーティストとしてどうこうではなく、一人の聖職者として……」
「じゃあ、聖職者らしくするのをやめちゃえば? 大事にとっといても、食えやしないんだからさ」
 即座にロジータが言い放つと、クリスティーネは黙って首を横に振った。

「クリスティーネってさ、普段大人しくて素直なのに、ヘンな所で頑固だよね」
「だって、私は聖職者ですから……」
「だーかーら、何でそこにこだわるのさ。あんたには悪いけど、聖職者でいて何の得があんの? 神さまにパンをあげたところで、物もお金も降ってこないじゃん。パン一つですらこんな有様なのに、あんたの貴重な人生を捧げちゃうの、勿体なくない?」
「心が、穏やかになります……」
 クリスティーネが言うと、ロジータは「はぁーあ」とわざとらしくため息をついた。椅子の背もたれに寄りかかり、だらしない姿勢で天井を見上げる。当たり前だが、神さまは見えない。仄かに赤い照明が眩しいだけ。
 音を立てて座り直したロジータは、頬杖をつきながら言い出した。
「あんたのそんな所、ある意味羨ましいよ。食べ物やお金が無くても、ある程度は何とかなりそうでさ。でもちょっとは分かるかもね。食べたり寝たりする分には、黙って親に従った方が良かったかもだけど、全然楽しくないからさ。だから、心を穏やかにしたくて家出した」
 呆れたため息で、クリスティーネを傷つけてしまったことに対する、フォローの言葉なのかもしれない。

 ロジータは暫くの間、白髪パーマの癖毛を引き抜くことに勤しんでいた。しかし、いくら待ってもクリスティーネは物を言わないし、何も食べようとしないので、残った料理をいそいそと口に運び始める。クリスティーネも、思い出したかのように料理に手をつける。
 食事を済ませ、レジの前に立ったロジータは、後ろに立つクリスティーネを振り返ることなく淡々と言った。
「あたしが出すから。払わなくていいよ」
「えっ、でもロジータさん、あまりお金がないのでは……?」
「あたしのお金なんだし、好きに使っていいじゃん。あんたとは長い付き合いで居たいのさ。色んな物をくれるからね」
「ご、ごめんなさい。ロジータさんにお金を使わせてしまって……」
 自分の心が弱いせいで、物質的に貧しいロジータに気を遣わせたと思うと、自分自身をきつく叱らずにはいられないクリスティーネであった。

 

 時刻は真昼時。場所はBASドームのフードコート。
 ハンバーガー、ステーキ、ラーメン、パスタなど、様々なチェーン店がずらりと並び、腹を空かせた人々が簡素な席について料理を待っている。呼び出しベルを握り締めた子どもや、デパートエリアで買った物を見せ合う若者、そして車椅子に座りながら孫と楽しそうに談話しているおばちゃん。メニューの幅広さと値段の手頃さが魅力で、フードコートの客層はとても幅広い。

「クリストファー、おまえ昼ごはんそれだけでいいのか?」
 辛うじて席を確保できた、緑半袖狐人間のピーターが、心配そうに問う。丸テーブルの上には、先程買い漁って来たトレーディングカードゲームTCGを、これ見よがしに並べていた。なんでも、ウルトラレアが出たとか言って、クリストファーに自慢したかったらしい。今月分のお小遣いが半分ほど吹っ飛んだのは、内緒の話。
 クリストファーが持っているトレイの上には、ビックサイズのフライドポテトや、15ピースものチキンナゲット、そして食べ切れるのかどうか怪しいほど巨大なハンバーガー、おまけにLサイズのコーラが載せられている。だが、これらは全てピーターが頼んだもので、クリストファーの分は、トレイの隅にあるレギュラーサイズのハンバーガー一個限りだ。

「うん、ちょっとカードにお金使い過ぎちゃった」
 クリストファーが返すと、トレイを丸テーブルの端に置き、自らも席に着いた。子どもだけでフードコートの席に着くなんて、大人になったみたいで爽快だと、最初の頃は思っていた。
「ウソだろ? おれの半分も買ってなかったじゃん。なぁ、クリストファー。やっぱり貧乏なんだろ? おれと張り合ってカード買う必要ないぜ。余ったノーマルやレアならあげるからよ」
 ここぞとばかりに、ピーターがガキ大将アピールをすると、クリストファーはしかめっ面になって言った。
「だから、そんなに貧乏じゃないってばっ。お姉ちゃんとBASの人たちが、そう言い触らしているだけだよ」
 周りの人間はクリスティーネのことを、実家の経済難を救うために立ち上がった、慈悲深き暗殺者として持ち上げている。そのため、長い付き合いであるピーターでさえも、最近は「パルトメリス私立教会堂は貧乏だ」と口にするようになった。確かにお小遣いはちょっと少ないが、あまりにも貧乏貧乏言われるため、クリストファーは苛々している。

「ほら、お金はちゃんとあるよっ。お金はさ」
 若草色のローブのポケットから、財布を取り出したクリストファーは、その中身をピーターに見せつける。数枚の紙幣を確認したピーターは、しきりに瞬きをした。
「なんだよ、結構残ってるじゃねぇか。今の内に食っとけよ。クリスティーネ姉ちゃんのライブ、おやつ時と重なるんだぜ?」
 二人は数時間後、いつものようにクリスティーネのライブを見に行く予定だ。それまでの間、使用回数が限られているテレポート・チケットを有効活用するため、これまたいつものようにBASドームで遊び惚けていたというわけだ。
「お姉ちゃんから貰った分だから、あまり使いたくない」
「なんでだよ? おまえのものだし、遠慮なく使えばいいだろ」
「……ムカつくんだよね。最近のお姉ちゃん」
 そう呟いたクリストファーは、ピーターの返答を待たずして、ハンバーガーに齧りついた。
「は? お金くれるのに、どうして? ――あ、分かった! この前デニスにライブで負けたからだな! それで幻滅したんだろ!」
 ニヤリと笑ったピーターは、クリストファーが頷いてくれるのを心待ちにしている。
「違うよ。お姉ちゃん、無理矢理ぼくにお金を渡そうとするから」
「ムカつくことか、それ? おれだったら、ありがたく頂戴するけどよ」
 予想が外れたことはともかく、変な理由に呆気にとられたピーターは、髪が逆立ったような狐耳をピクリと動かした。クリストファーは、ハンバーガーを口に含んだまま語りだす。
「だってお姉ちゃん、最近身体を壊すくらい働いているんだもん。まだ太陽が出てない内から起きて稽古するし、疲れているのに毎晩遅くまでセーターを編んでいるんだよ。それなのに、毎日家の仕事を手伝っているし、ビビの相手もしてあげている。ちょっとは休んだらって言っても聞かないし、自分のために使えよと言ってもしつこく渡そうとしてくるし」
「クリスティーネ姉ちゃん、そんなにやべぇのか……?」
 思った以上に深刻な話題だったので、子ども心にもピーターは悪友を励ますべきだと認識した。
「そうだ! おまえ、貰った金でクリスティーネ姉ちゃんにプレゼントを買えよ! それならムカつかないだろ?」
「前にやったよ。ロジータとのライブがあった頃に、編み物セットをプレゼントした。そしたら、気まずい空気になっちゃった。せっかくのお金を、私なんかに使わせてごめんなさいって」
「なんで? 嬉しくなかったのか? クリスティーネ姉ちゃん、いつも編み物をしてるんだろ。安物だから使いたくないって、贅沢言う人じゃないし……。本当にどうしたんだ?」
 知らない方が良かったかもしれないと、ピーターはある種の恐怖を感じていた。身近なヒーローが悪の手先に洗脳されたかのような、妙にリアルな絶望感が迫ってくる。
「分からない……だからムカつくんだ。お姉ちゃんがあんなになるくらいだったら、お金なんていらないよ」
 それだけ言ったクリストファーは、そそくさとハンバーガーを頬張った。

「ヘディおばちゃんとフェリックスさんは、なんにも言わねぇの?」
 ストローでコーラを頬いっぱいに含み、飲み干したピーターが訊く。
「言わないんだよねー。ぼくの知らない所で、言ってるかもしれないけど」
 ハンバーガーをポイとトレイに投げ置いたクリストファーが、呆れ交じりの口調で返答した。
「お母ちゃんに相談してみたら、『これ以上お姉ちゃんを追い詰めないためにも、あなたは黙っておきなさい』って言うし、お父ちゃんにも相談したら、『今は内なる悪魔と戦っている時ですから、瞑想を妨げず黙って見守るほかありません』って言うもん」
「いやまあ……。クリスティーネお姉ちゃん、悪口言われたらすぐヘコむ人っぽいけど……」
 ピーターは首を傾げると、即座にクリストファーが付け加える。
「でも、何も言わないってのもおかしくない?」
「だよな。親が助けてくれなきゃ、誰が助けられるってんだか」
 ピーターが再びコーラを口一杯に含むと、大きい独り言を言うような感じでクリストファーは不満を垂れる。
「お母ちゃんはBASが観れない弱虫だから、姉ちゃんが傷ついても知らんぷりしてるんだよ。お父ちゃんは頭でっかちの聖職者だし。ぼくだけなんだよねー、まともな人間って」
 長い付き合いの親友が、身近にいる人物を批判している状況に、ピーターは少なからずの憂慮を覚えた。暴力――精神面での暴力を振るうクリストファーは、気づかぬ内に相当心が荒んでいたのだ。それが、暴力を見世物にするクリスティーネから受けた、不本意な悪影響だと考えると、いよいよピーターも自分を取り巻く”暴力”に危機感を募らせる。
「ぼくがこうして悩んでいることも、知らんぷりされているんだよ。触らぬ神に祟りなしって、お父ちゃんだったら言うだろうなー。ムカつく」
 クリストファーが、聞こえるような独り言を垂れ流していると、ピーターはあっという間にコーラを飲み干してしまった。
(なんにも言えねぇ……。下手なこと言っても、怒鳴られそうで怖ぇな……。ヘディおばちゃんやフェリックスさんも、こんな気持ちなのかなぁ……?)
 暴力の連鎖に巻き込まれまいと、無言を決め込んでいるピーターは、自らの臆病さを腹立たしく思うのであった。

 

 三階まで吹き抜けとなった、天井がアーチ状のダンスホール。”ルィトカ家”が所有する豪邸の内部だ。
 豪華絢爛なシャンデリアのせいか、壁や床の大半が金色に輝いており、その一方でアーチを支える円柱らは真っ白だ。また、壁や天井の至る所に大掛かりな宝石細工があしらわれている。真紅や紺碧、翡翠に紫紺にと煌く様々な宝石の群で、ダイナミックな紋様を形成する様は、例えるなら物凄く分厚いステンドグラス。
 階上廊である二階、三階では、来訪者たちがすし詰め状態となってダンスホールを見下ろしている。一階に設置された数多くの椅子は、いわゆる特等席となっており、間もなく開催されるイベントを間近で観ることができる。ダンスホールだからと言って、舞踏会が開かれる訳ではない。この豪邸に住むバトル・アーティストによる、本拠地での出張ライブだ。

 ダンスホールの中央――見えない壁で囲われたステージの中央で、腕組みをしたまま佇む者の名は、自信たっぷりの鋭い眼差しをしたミシェル=ルィトカ。パニエが大きく膨らんだ、真紅のロングドレスを着る女性。この豪邸に住む者に相応しい、豪華絢爛たるコスチュームだ。
「フンッ!」
 ……と思ったら、ミシェルは腕組みしたまま胸元の辺りを掴み、掛け声とともに両手を一気に開くことで、ロングドレスを引き千切った! さらけ出したのは、胸元が開いた真紅と漆黒のコルセットドレスで、腰下はミニスカート状になっている。魅惑の谷間や、むちむちとした太腿を、隠そうともしていない。なかなかに筋肉質な身体だ。
 肌の色はミルクのように白く、生足で、紐まで真っ黒なハーフブーツを履いている。数個の大きなダイヤモンドを使ったティアラと、大きなダイヤのブレスレット、同じく大きなダイヤのネックレス。
 髪はピンク色で、前が短く後ろが長い。短いマントのように見えなくもない。人種はハイ・カーバンクル。生まれつき額に宝石が埋め込まれており、ミシェルの場合宝石は透明色だ。

「ミシェル! 一体何をしているのだ!? 説明してもらおうか!」
 その男は、一階にある大きな扉を突き飛ばしながら、辺りを憚らずに叫んだ。
「ルィトカ家の現当主だ……」
 一転して静まり返ったダンスホールのどこかで、誰かがそう呟く。
「貴様……! なんだそのみっともない恰好は!? ドレスを着用せずに衆目を汚すなど、それでも高貴なルィトカ家の人間か!?」
 当主は、ミシェルの足元にある真っ二つに敗れたロングドレスを、何度も指差しながら近づいてゆく。巨乳や太腿を露わにした、露出度の高い恰好は、確かにみっともないかもしれない。
 そのままミシェルの傍まで詰め寄ろうとした当主だが、見えない壁に指先が触れ、ぐにゃりと押し返された。
「これは……!?」
 まさかここで、BASの出張ライブが開催されるとも思わない当主は、訳も分からないまま自分の人差し指を確認する。

「あら、お父様。動きにくいドレスを着用してボクシングに臨む輩こそが、無礼極まりないのではなくて? 下着同然の姿で場に立つ。決闘における最低限のマナー。カクテルパーティーでドレスを着用するのと等しきマナーですわッ!」
 威勢の良い声で答えるミシェルに、賛同するかのように、野太い歓声が各所から上がった。使い古した作業服に、黄色いヘルメットに、ミシェルと同じようなハーフブーツ。一目見ただけで鉱員と分かる彼らは、ミシェルに付き従う部下たちだ。
「黙れぃ! 私の許可を得ずして、好き放題する輩に、マナーなど語る資格は無い!」
 見えない壁越しに、現当主が怒鳴り散らすと、負けじとミシェルも言いかえした。
「力ある者、常に力なき者の盾となれ。奴隷身分から大富豪へと伸し上がった、誇り高きルィトカ家の家訓、お父様は憶えていらっしゃって? 大いなる富が約束された、鉱山地主の一族たるもの、大衆娯楽に寄金するのは当然の使命ッ!」
 宝石探知の特殊能力を備えたハイ・カーバンクルらは、古くは奴隷として鉱山で労働していた。ある時、ルィトカ家の先祖が宝石研磨士として高名になると、鉱山の所有権と自由を主人から奪い取って、今に至るというわけだ。

「帰れ、帰れ!」
「姉貴の邪魔すんじゃねぇ!」
「ぐうたらが威張ってんじゃねぇぞ、チクショウめ!」
 鉱員は勿論、近くに立っていた血の気の多い一般客も誘発されて、苦虫を噛み潰したようになる当主に集中砲火を浴びせる。
「ルィトカ家の恥が! 覚えておれよ……!」
 捨て台詞を残した当主は、逃げるようにダンスホールから去って行った。野太い歓声が一斉に出ると、巨乳の下で腕を組んだミシェルは、見えない壁の目前、つまり一階の特等席に座る老人に向かって言った。
「流石は私が見込んだ執事ね。お父様に気取られぬよう、出張ライブの手筈を整えたその手腕、褒めて差し上げますわ」
「勿体なきお言葉で御座います」
 鼠耳を持つ白髪の執事は、律儀に立ち上がってから一礼した。

「貧乏人間ではあり得ない、親子喧嘩のやり方か。ヒヒヒ! ざまあみろって感じ。いいもの観たよ」
 ステージを挟んで、執事と反対側の特等席に座っている、エプロンドレスのロジータが言う。クリスティーネの応援に駆け付けたはずなのに、金持ちならではのやり方で父親をやりこめた、ミシェルを応援したくなってしまった。ミシェルは恐らく、父親への何らかの復讐のために、この豪邸で出張ライブを執り行うよう計らったのだろう。
「僕の家は貧乏じゃないってばっ!」
 隣に座る、若草ローブのクリストファーがキレた。ここ最近、クリストファーは何かにつけて怒り出す。
「違うっての。貧乏人間はあたしのこと。親が酒と薬に溺れていて、あたしは無理矢理働かされたんだ」
 肩を竦めながらロジータが言う。
「おまえ、最近被害妄想激しすぎだぜ……?」
 クリストファーの隣に座る、赤ジャージズボンのピーターが、憚るように言った。

 間もなく、見えない壁の内部にクリスティーネが瞬間移動で現れる。老若男女の様々な歓声が上がるが、いつにも増してクリスティーネを心配するような声が多い。「リラックスしろよー!」とか、「70%でいいからー!」とか、「あんまり気負うなー!」とか。以前よりも、他人に謝っている姿が多くなったのを、観客はしっかり見ているのだろう。
(こんな武器に頼っているから負ける……いえ、素手で戦っても、結果は変わらないでしょう)
 水色ローブの腰辺りには、鞘に収まった二振りの可変短剣。自傷も同然なトレーニングで、武器を捨てて戦えるようになろうと励んでいたクリスティーネだが、素手でライブに臨んでも勝ち目がないことは、自分自身が一番知っている。自ら背負った二つの十字架の呪縛を、未だ断ち切れずにいるのだ。

「待ちくたびれましたわ、ビルンバウム家の慈悲深き暗殺者ッ!」
 威勢の良い声とともに、ミシェルはクリスティーネを指差す。その際クリスティーネは、ミシェルがやや大きいダイヤの指輪を、両親指を除く八本の指全てにつけていることに気づく。
 アクセサリーとして見做すなら、ファッションセンスに乏しい者でさえも「ダサイ」と思う程だ。拳を握り締めたなら、メリケンサックのようにも見えなくもないが、はたして……。
「は、初めまして……」
 会ってそうそう、威勢の良いミシェルの声と野太い鉱員たちの歓声に気圧されて、クリスティーネは怖気づいてしまう。ここ最近、ただでさえ敗北の予感に苛まれているのだから、敵アーティストへの歓声にはついつい反応してしまう。
「貴女と拳を交えること、以前より心待ちにしておりましたわ! 由緒ある暗殺一家の末裔を見事打倒し、誇り高きルィトカ家はますます威光を増すのですわッ!」
「……私には、誇り高きビルンバウム家を名乗る資格がありません」
 クリスティーネが俯きがちになって答えると、「そんなことないよー!」などと言ったファンの声が聞こえてきた。傷つくことに対して、予防線を張っているのかもしれない。
「決闘開始を目前にして、弱気に転じるとは何事!? 私への侮辱と受け取りましたわッ! 私との決闘を、半ば棄権したも同然ですわよ!」
 ミシェルが地面を強く踏みつけながら言うと、クリスティーネはビクリと震え上がってしまう。
「ち、違いますっ! そのような意味では……。すみません……!」
 慌てて抗弁するも、ミシェルはクリスティーネから目を逸らし、手の骨をポキポキ鳴らしている。早くも戦闘態勢となり、ゴングを待ち侘びているミシェルは、よほど頭に来たらしい。

「気合があれば何とかなるっていう、体育会系かー。金持ちにしては珍しいじゃん」
 耳の穴をほじりながら、ロジータが呟く。「クリスティーネに一喝入れて、目を覚まさせてくれないかなー?」と、心の中でしれっと期待している。
「クリスティーネ姉ちゃん、今度は勝つといいな。デニスに負けてから、三連敗中だし」
 そう言ったピーターが、クリストファーの背中をポンと叩くと、か細い声が返ってきた。
「うん、そうだね……」

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