Fear&Fire

 先の試合ライブにおいて辛くも勝利を収めたドロテアは、控え室の前で待ち構えていたオルガ、そしてデルフィーヌと合流していた。
 オルガが兎人形というあだ名を付けるくらいに臆病なデルフィーヌが、カリナと自分の血生臭い一部始終に耐えられず、途中退席していたと思いこんでいたドロテア。控え室の扉を開き、上目遣いのデルフィーヌと目が合った瞬間、辛気臭い表情はやめてキリっと顔を澄ませた。
 立ち話はほどほどにして、オルガはBASドームの外部に在る、隠れ家的なイタリアンレストランにドロテアをデルフィーヌを案内した。BASドームを出て数分ほど歩く、小さな敷地内のレストランだが、広義的にはデパートエリアの一画と言ってもいいだろう。

 
「こ、こんなお店で、大丈夫でしょうか……?」
 客は自分たち三人以外には誰もいないし、接客担当のお兄さんはとても親身に受け答えしてくれた。仄かな灯りが多種多様なワイン瓶をムーディーに彩り、夜景や果物などを描いた小さな絵画が、所狭しと煉瓦の壁を埋め尽くす。
 ドロテアの田舎的(かつちょっと不気味)な料理ばかり口にしてきたデルフィーヌは、高級レストランの料理を味わったことがない。ここ最近、ようやく美味しい不味いの区別が付くくらいに、味覚が発達したのだが、親代わりのドロテアには十分な資金がない。
 そんなデルフィーヌでも、ここは決して貧乏人が入ってはならない領域であることは、つま先が絨毯に触れた瞬間に理解できた。テレビ番組のグルメ特集で映し出されるような情景。オルガとドロテアが、お金がないのに無理してここに連れて来たのではないかと思うと、デルフィーヌとしては真っ先に謝りたい気持ちが湧きあがってきた。

「上流階級御用のイタリアンにはトラウマがあるの?」
 生まれが生まれだけに、デルフィーヌはむしろ贅沢から遠ざけた方が賢明ではないのかと、若干反省するドロテア。
「い、いえ……ですが、さっき通ってきたお店だと、レディースデイやっていましたから、その、ドロテア様とオルガ様の負担も、少なくて済むのかと」
 膝に掛けたナプキンの上で拳を握り締めるデルフィーヌは、俯きながらそう言った。このレストランに来るまでの間、群衆に押し流されそうになっていたデルフィーヌは、小鳥のように素早く首を動かして警戒していた。その時に、レディースデイの看板が、ふいに視界に映ったのかもしれない。
「彼奴らは紅茶の味を樂しむに非ず。渇望せしは、衆愚が思い描く貴族主義、則ち浪費狂いの無礼講に過ぎん」
 そう言ったオルガの口元は、確かにミーハーな女性たちへの嘲笑を含んでいた。
「”女性に優しい”っていう売り文句は、”バカな女から巻き上げてます”って考えて、寄り付かない方が身のためだわ」
 続けてドロテアがツンと言い放つと、デルフィーヌは詫びるように小さく頭を下げた。
「そ、そうなんですか」

 その後ドロテアとオルガが、ゴキブリのようにどこにでも出没する、ミーハー女たちの醜態についてだらだらと語り合い、熱を帯びてきた頃。振り返っては料理を作っているベテラン四十路の女性と目が合い、微笑み返されては逃げるように正面に向き直すのを繰り返していたデルフィーヌは、意を決して話し掛けてみる。
「あ、あの、ドロテア様」
「うん?」
 隣に座るドロテアが不思議そうに横を向き、テーブルの向かいに座るオルガが興味深く見てくる。一瞬、二人の楽しみを邪魔したのではないかと不安に駆られたが、言うなら今しかないだろうと、思い切って、だけど小さな声で言ってみる。
「ライブ中のドロテア様、とてもカッコよかったです……」
「そう?  ありがと」
 それだけ答えてお冷を一口含んだドロテアは、タフな女を気取っているつもりなのだろうか。

「これ、もっと言うことがあるじゃろう」
 呆れたようにオルガが言うと、デルフィーヌはビクリと背筋を震わせた。
「す、すみません」
「違う、緋蜥蜴の方じゃ」
「はぁ?  私?」
 目を細めたドロテアが、ふんぞり返るかのように背を伸ばす。
「うむ。兎人形が度胸を見せたのじゃ。御主も見せよ」
「そうね……」
 脇目でデルフィーヌを見ながら、少しの間考えた後に、ドロテアはちゃんと目を合わせてから改めて言う。
「デルフィーヌ。何となくだけど、あんたのおかげで思いっきり戦うことができたと思うわ。聞き慣れた人の声があるだけで、平常心が生まれてくる」
「えっ、あの……」
 デルフィーヌには、先ほどのライブ中のドロテアが恐怖しているとは、微塵も思えなかったのだ。確かに、戦術として何度か敵に背を向ける行動はあったものの、殊更ライブ終盤に至っては、自ら果敢に攻めていた。臆病なデルフィーヌだったら、立ち往生して後ろに退くことすらできないだろう。

「こ、怖かったんですか?」
 機嫌を損ねないように、か細い声でデルフィーヌが訊く。
「まあね。あんたの前で無様を演じるのはゴメンだし」
「ですが、そんな素振りは欠片ほども……」
「そこを抑えるのが、バトル・アーティストというものだわ」
 ツンと言い放ったドロテアが、もう一度お冷を口に含む。照れ隠しなのかもしれない。
「そう……なんですか」
 褒められることに慣れていない、ひねくれ者なドロテアと、自力では会話を維持することが難しいデルフィーヌ。なんとももどかしい二人のやり取りに、業を煮やしたオルガは、できるだけ抑えた物言いで助け舟を出してやる。

「恐怖と炎――英語に訳せば、fearとfireは同義」
 しきりに瞬きしていたドロテアと、レストランに入ってからずっと上目遣いのままのデルフィーヌ。二人の視線が、冷たいような、温かいような笑みを浮かべたオルガに注がれる。
「吞まれるならば、一瞬にして灰燼と化すが、巧く手綱を引くことが出来れば、暖炉と成り、灯りと成る。飢餓に悶えるならば、其れを以て肉を焼くことも出来よう。芝生に寄って来た鹿のように、用心深くなることも出来るじゃろう。隣の世界のボクシングチャンピオン、かの有名なマイク・タイソンを鍛え上げた、カス・ダマトの教義よ」
 二人が無言に徹しているので、更に話を続ける。
「要するに、恐怖を持たぬ人間など存在せん。唯、其れを家令の如く従えられるかどうかの違いじゃ。古より、戦場で生き延びるのは臆病者と決まっておる。誰よりも疾く、厄災に勘づくが故」
 説教されているのと勘違いしているのか、それともまた長話が始まったのかと呆れ返られているのか。最後にオルガは、普段からは考えられないほど優しい口調で、デルフィーヌに聞いてみた。
「赤子には、理解が難かったか?」
「い、いえ、分かります。なんとなく……」
 生身の人間としてはあり得ないことだが、等身大の球体関節人形であるデルフィーヌは、生後僅か数年で感情の機微を心得ている。とは言っても、社会経験の絶対数が少ない故に、小難しい話を耳にして困惑するケースが多々見られたが……気難しい老人の話の要点を捉えられるくらいには、成長したみたいだ。

「屋根で音がすると、デルフィーヌが身を震わせて教えてくれるのよ。悪質なストーカー対策になって、凄く助かってるわ」
 オルガに叱られる前に、ドロテアが間髪入れずに言った。
「はい……いつも小鳥さんや子猫さんと間違えて、すみません……」
 こういう風にデルフィーヌが謝ってしまうのは、多分、ドロテアから褒められることに慣れていないせいなのだろう。普段からツンとした物言いのドロテアだから、褒め言葉がお叱りの言葉に思えてしまう可能性もある。
「妾は受け流しからの一突きに重きを置く決闘者。微かな凶兆をも察知出来る者は、羨望よ」
「そうね。アーティストとしても向いていると思うわ」
 二人に次々と褒め称えられて、デルフィーヌはかなり困惑していた。遠回しに、弱虫を克服せよと言われているような心地になったのだ。

「じゃ、じゃあ私……」
 デルフィーヌが、もう一回勇気を振り絞る。
「”炎の少女チャーリー”を観て、恐怖を克服したいです」
 姿勢正したデルフィーヌが宣言すると、徐々にオルガの目つきが訝しげになっていった。
「なんじゃ? その学芸会で催されるかのような題目は?」
「ホラー映画です。ドロテア様と観ました」
「はぁ、ホラー映画……?」
 臆病なデルフィーヌが、進んでホラー映画を観たがるとは、到底思えない。

「蛇娘よ。まさか御主、唯でさえ臆病な兎人形が恐怖する様を、喜劇のように眺めているのではあるまいな?」
 険しい表情でオルガに問われたドロテアは、反抗的な眼差しを返す。
「デルフィーヌが観たいって言ったから観せただけだわ。それに、あれはホラー映画というより親子愛サスペンス。ザ・ラスト・オブ・アスに似たようなもんだわ」
「其はまことか? 兎人形、正直に打ち明けることも、紛う事無き勇なりぞ」
「えっ、えっ……!?」
 オルガが揺さぶるように言ってくきたので、ビクビクと震えだすデルフィーヌ。
「やめて。デルフィーヌ困ってるじゃない」
「暫し黙せ。さぁ、兎人形よ」
 これみよがしにオルガから目を逸らしたドロテアが、何も言わないまま時間が過ぎる。最後の一踏ん張り、デルフィーヌが勇気を出す。
「……ご、ごめんなさい。本当は途中で怖くなって、お、お布団お化けに変身してしまいました……」
「お布団お化けじゃと? それも恐怖劇か?」
 眉をピクリと動かした後にしきりに瞬きをしてみせたオルガは、聞き慣れぬ若者言葉に頭を痛める老人そのものだった。
「違うわよ。デルフィーヌ、ホラー映画を観るのは良いんだけど、いつも途中で布団に包まってガタガタ震えるのよ。だからお布団お化け」
 ドロテアはそう言いながら、蜥蜴の尻尾の先端を床につけ、貧乏揺すりのように小刻みに震わせている。
「ならば尚更、何故観せる?」
「だから、デルフィーヌが観たがるんだってば」
「何故に?」
「知らないわよ」
「ひぃ……!」

 血の繋がった姉のように親身にしてくれる、ドロテアの生き方に少しでも近づきたい。そんなデルフィーヌの純朴さを、イライラしている二人は知る由もなかったので、哀れな兎人形は、膝に掛けていたナプキンを被ってナプキンお化けに変身していた。

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