華焔不死鳥

 その世界の名前はレイラ。自動車やスマートフォン、時にはそれらさえ霞むような文明の利器が、広く普及している。その一方で、魔法や超能力などと呼ばれることもある、”メーション”すらもありふれている。

 レイラという惑星は、物理的性質と、それに付随する気候条件、生命体の性質などが、奇しくも地球と呼ばれる異世界と似通っている。レイラは大昔から、様々な異世界から諸々の物事を輸入してきたが、地球の文化や科学技術が最も馴染みやすいのだ。日本やアメリカが存在する世界は、今ではすっかり”隣の世界”と呼ばれて親しまれている。

 ともすれば、混沌とも形容されるレイラだからこそ、隆盛を極められる企業が一つ。通称BAS、正式名称Battle Art Showバトル・アート・ショー。プロレスを前身とする至上の戦闘エンターテインメントは、ルールや反則は一切なし。後遺症や事故死の恐れも一切なし。観客を楽しませるためなら、どんな行為でも許される。

 これは、レイラ中を熱狂させてやまない、バトル・アーティストたちの物語。

 

 ファッション、サブカルチャー、エンターテインメントなどの中心地――”隣の世界”で例えるなら、東京のような都市、自由都市メネスト。BASドームと言う、名前そのまんまなBASの本拠地は、その都市の郊外にある。

 大まかに言って、BASドームは四つのエリアに分けられる。
 一つ目はオフィシャルエリア。BASのスタッフらが仕事を執り行う場所。一般人には関係ないし、バトル・アーティストたちも、呼び出しを受けない限りは足を運ぶ必要性が殆どない。
 二つ目はトレーニングエリア。一般的なトレーニングジムとしての充実度合いは勿論のこと、銃火器で戦うアーティスト向けの射撃場や、メーション使いのための精神修養場や図書館、その他様々なものがある。アーティストはこの設備を無料で使うことができるが、ここも一般人には関係のないエリアだ。
 三つ目はデパートエリア。高級デパート顔負けのショッピングや外食等が楽しめる。当初はBASドーム内の一区画にしか過ぎなかったが、BASの規模が拡大するにつれて、駅ビル群さながらに、無数の建物が並び立つエリアとなった。このエリアでショッピングや外食を楽しむことのみを目的として、BASドームに来場する人々も少なくない。
 そして、四つ目がアリーナエリア。BASのメインイベントである試合ライブが日夜開催されるアリーナが、数多く存在するエリアだ。試合をライブと呼称したり、プロレスなどで言うところの”リング”を、舞台ステージと呼ぶようにしているしているのは、BASがエンターテインメント性を強調している証拠。観客たちが求めているのは、人類最強を志す戦士ではなく、いかにして魅せるかを追求する芸術家なのだ。

 
 さて、間もなく本日のメインイベントが始まるようだ。
 いつもなら、アリーナエリアの一画でライブが開催されるところだが、今日はデパートエリアに数ある出入口の一つを、ステージと見立てて開催される。
 近未来的な高級デパートとでも言った風に、そこは十階層以上にも連なった吹き抜けのエントランスホール。上品な光沢を放つ真っ白なフロアー。最上階まで貫く円柱には、階層ごとにスタイリッシュなデザインの広告ディスプレイ。回廊には、観客たちがすし詰め状態で立っている。

 回廊から見下ろせる一階のホールには、人っ子一人存在しない。皆が本ライブにおける主役の登場を心待ちにして、スピーカーから流れるBGMや、実況や解説の音声などは、騒然とした観客らの声に掻き消されてしまう。
「来た来た来たー!」
 と、一階にいる観客が歓声を轟かせた。
「もう入場?」
「床が邪魔で一階席が見えない」
 二階以上にいる観客たちは、視覚の代わりに聴覚を頼りにするつもりで、一瞬静まり返る。
「あ、見えた!」
 直後、エントランスホールの端から主役が姿を見せたため、全階層から叫び声があがった。このイベントの主役が登場したというわけだ。

「今日は貴重な時間を割いて来てくれて、どうもありがとうね」
 溌剌とした声で宣言しながら、ホールの中央へと向かっているのは、紅緋色の立派な竜の尻尾を持つ女性。この世界においては、尻尾や獣耳を持つ”人間”は珍しくはない。猿をはじめとして、犬や猫など、様々な生物が”人間”へと進化してきた経緯がある。彼女は言わば、猿人間と竜人間のハーフと言ったところか。
 肩先とヘソが露出するようなショート丈ジャケット。竜の尻尾のために入れたスリットを隠すように、水色の大きなリボンを臀部に結んだミニスカート。共に、豪華絢爛な火炎を思わせる、赤と黄色が入り交じっている。華やかなコスチュームは、まるで可愛らしいアイドルが着る衣装のようだ。
 一方その身体は、格闘家として最適化された肉付きの良さ。割れた腹筋にはじまり、オープンフィンガーグローブやリングシューズ、スポーツブラやスパッツなどが、戦士としてこのステージに立っていることを証明している。風が吹けば靡くような、少し長めな赤髪ポニーテール。その面持ちからは、勝ち気な性格が見て取れる。

「思う存分、”華焔不死鳥かえんふしちょう”クローディア=クック様を崇めなさい!」
 ステージの中央で立ち止まった直後、クローディアと名乗ったアーティストは両手を広げながら、メーションで生み出した炎で両翼を形成する。不死鳥のように美しい、荘厳な炎の翼だ。
 見世物である以上、BASにおいては一つ一つの行動にインパクトが求められる。その点においてクローディアは、プロレスラーのそれに近しいビッグマウスと、自ら華焔かえんと称する華々しい炎のメーションで、安定した人気を誇っている。
「クローディア様!」
「クローディア様、こっち向いてー!」
「愛してるぜ、クローディア様!」
 熱烈な歓迎を受けたクローディアは、観客席を丁寧に見回しながら、とても誇らしげな表情を浮かべている。

「今日はいつも以上に宗徒さんたちが、集まって下さいましたね~! クローディアさんの美貌に、骨抜きにされちゃったのかしら~?」
 聞くだけでゾクゾクするような声とともに、ステージ中央に立つクローディアへと歩いているのは、”魅惑の茶斑”ことグロリア=エルモーソ。白い肌に、ぶち猫のような薄茶色の斑点がある、猫人間のハーフ。ボクシングの興行などにおけるリングガールならぬ、ステージガールと言ったところか。
 薄茶色のトレンチコートを着ており、履いているのは黒いストッキング。胸元と、片側の太腿辺りをはだけている為、茶白のランジェリー(ブラジャーとショーツ)がチラリと見えている。片サイドに寄せた、色っぽい黒と茶色のロングヘアー。いつも大人の余裕を漂わせる微笑みを忘れず、身体は引き締まっているが、出てるところはちゃんと出ている。

「当然だよ。あんたたちは頭が良いから、仕えるべき教祖がよく分かっているはず。そうでしょ?」
 それなりに芝居がかった言葉を、クローディアは観客席に投げかけた。
「おおぉぉー!!」
 雄叫びや黄色い声がそこかしこから巻き起こると、クローディアは両手を腰に当てて満足そうに両目を瞑る。真に迫った興行とは、観客が作るもの。それがクローディアが目指すべきものであり、だからこそ、常に観客が傍にいることを忘れない。
「モテモテですね~、クローディアさん! 嫉妬しちゃうわ~!」
 クローディアの隣に立ったグロリアは、微笑んだまま腰をくねらせた。

 
 早くも興奮の坩堝と化した、BASドームのエントランスホール。しかし、なぜか一階の観客席の最後列を起点として、困惑したような、慄いたような沈黙が広がる。熱烈な歓声にうつつを抜かしていたクローディアは、きょとんとした表情で、沈黙の波紋の中心点に目をやった。
 目付きの悪い暴力団を避けるように、観客たちは慌てて道をあけていた。血糊付きの悪趣味な燕尾服を着て、乙女を封じたかのようなネックレスやブローチを着けた、”バイストフィリア”ブルーノ=ブランジーニの為に。
 顔造形そのものは、可愛い系男子とも言えなくもないが、その目は淡々とした狂気の光に満ちている。育ちの良さを伺わせるスマートな長身だが、髪は茶のアッシュアート。人種は蝙蝠人間。鉤爪のように細長い指、猛禽類のような両翼が特徴的。着ている服と合わせれば、まるで”食事”を済ませた直後の吸血鬼。
 涼しげな表情のまま、ブルーノは無言で観客席を通り抜け、ステージへと足を踏み入れた。

「お目に掛かれて光栄で御座います。わたくし、マルグリット=ボヌーと申す者です」
 ブルーノの後に続くステージガールは、観客席の最前列から躍り出た瞬間、振り返って恭しくお辞儀した。白を基調に素朴な花々を散らしたワンピースの上に、落ち着いた茶色のエプロンを着ている。髪型は茶色のスプリングショート。小さな帽子のような、薄茶色の”傘”が頭頂部から生えているのは、茸人間である証。
「来ましたよー、マルグリットさーん!」
「いつもお世話になっております~!」
 涼しい顔で佇んでいるブルーノは余所に、今回初登場となるステージガールの知人らをはじめ、結構な数の歓声が巻き起こる。
「まぁ……! 聞き慣れたお客様方のお声が、こんなにも沢山……! 約束通り、御来場して下さったのですね。誠にありがとうございます」
 それまで緊張していたマルグリットは感極まって、大きな声がした方を向いては深々とお辞儀するのを、少しの間繰り返していた。

「すでにご存じの方もいらっしゃいますが、改めて自己紹介をば。私、デパートエリアの洋菓子店”リトルメモリー”に勤めている、パティシエールで御座います」
「あー! なんか見たことがあると思ったら!」
 星に願うかのように両手を組み合わせたクローディアは、女の子らしい愛嬌のある笑顔となった。大食いで名を知られているクローディアは、暇があればBASドームのデパートエリアで食い歩きに勤しんでいるという。
「毎日のお昼下がり、”小さな思い出”をお客さま方に提供させて頂きたい一心で、誠心誠意を籠めた接客を心がけております。この度、ステージガールとしては初めてのお勤めとなりますが、本ライブもまた、皆様方にとって小さな思い出となるよう――」
 小鳥の鳴き声のように心地良く耳を打つ自己紹介は、何の脈絡もなく途切れてしまった。薄いピンク色の唇を強引に開けて、口内へと放り込まれた、太い血塗れの針によって。

「僕はね……君のように、可愛ければちやほやされると思っている女の子が、嫌いなんだよ」
 掌から血塗れの針をメーションで繰り出した、ブルーノの狼藉だった。
「んぐ!? んんーっ!」
 口を塞がれたまま悲鳴をあげるマルグリット。だが、下手に動けばさらに奥まで針が突き刺さるし、それ以前にまさかの凶行に恐怖して足が動かない。しかも、針先から直接内臓へと、強酸性の血液が流し込まれるため、吐き気と似たような苦痛に苛まれる。
「ひどい……」
 目を大きく見開いて、口元を手で押さえるグロリアと、この世の終わりを見たかのような、愕然とした表情のクローディア。数多くの悲鳴があがったことは、言うまでもない。

「大方、BASのスタッフや男性客に持て囃されて、お姫さま気分でいるんだろう。出しゃばるのもいい加減にして欲しい」
 血の針を口から引き抜き、そして霧消させたブルーノが淡々と述べる。
「うぅ……ごほっ」
 マルグリットはその場に座り込み、両手で口を隠しながら、内臓に流し込まれた血液を吐き出そうとしている。痛々しくて見るに堪えない。あろうことか、ブルーノはマルグリットの顔面を蹴り飛ばし、強引に彼女を仰向けにさせた。
「でもまあ、君は新人みたいだし、大目に見てあげようかな。僕が手っ取り早く有名人にしてあげよう。哀れな生涯でその名を馳せた、マッチ売りの少女のように」
 もう一度掌から血の針を突き出し、その先端でマルグリットの額に触れる。「あぁ……!」と漏らしたマルグリットは、両手で上体を起こして逃げようとするが、痛みと恐怖でそれ以上身体を動かせない。
 エントランスホールの人々は一様にして、「やめろ!」とか「いやー!」と言った罵声や悲鳴を口にしている。それらを称賛と受け止めるかのように、蝙蝠の両翼を動かして悦に浸るブルーノは、これみよがしに針を突き出している手を振り上げ、マルグリットの顔面を貫こうとする――!

 
 観客たちの多くが目を背けたり、目を瞑ったりした、その直後。クローディアはメーションで炎の両翼を展開させ、物凄い勢いで突っこんでいく! 助走を付ける際の通過点に、足跡代わりの小規模な火柱群が噴出した。
 ブルーノとマルグリットの間に割って入ったクローディアは、振り降ろされた血塗れの針を、間一髪両手で捕らえた。メーションで纏った炎のおかげで、強酸性の血液で両手が溶かされることはない。
「……君が身代わりになってくれるのかい? それはそれで、一つの哀歌エレジーが弾けるよね」
 特に悪びれもせず、悔しがる様子もなく、ただ冷淡に言ってのけるブルーノ。
「あんたの性癖なんてどうでもいいけど、弱い者いじめじゃ観客は喜ばないよ」
 クローディアは思いっきりブルーノを睨み付けたまま、徐々に血塗れの針を押し上げていく。罪のない新人の惨い姿を覚悟していた観客らは、その光景に大いに沸き立つ。
「大丈夫? 立てる?」
 その間にグロリアは、クローディアの背後で倒れているマルグリットの傍に駆け付けていた。顔を引き攣らせながらも、マルグリットが頭を振ったので、グロリアは脇に手を差しこみ、後輩ステージガールの身体をステージの端の方へと引きずっていった。

「君も同類か。ライバルを蹴落としてのし上がった女性は、恨みや嫉妬の眼差しに晒される。僕は彼女に踏み台にされた人たちの仇を取っているんだよ」
 ブルーノはそう言いながら、もう片方の手を振り上げ、人差し指から細長い血の針を突き出してきた。嫌な予感がしていたクローディアは、素早く後ろにステップしてそれを躱す。指先から伸びた血の針が突き刺さり、真っ白なフロアーに穴が空く。
「見えない壁の中なら、死亡事故も後遺症も起こり得ないんだし、別にいいじゃないか。か弱さを盾にして嘲笑ってくる女の子を刺せる機会なんて、滅多にないよ」
 観客席とステージの境界線には、見えない壁が展開されている。全身にちょっと力を籠めれば誰でも通過できる、最先端の科学技術と大規模なメーションを融合させた、特殊装置の為せる業だ。
 ブルーノが言った通り、見えない壁の内部にいる限りは、死亡事故や後遺症は起こり得ない。受けた傷は著しい速さで自然治癒されるし、腕や脚が切断されるなどと言った、見世物としての一線を超えたグロテスクも起こり得ない。このような偉大な発明が、なぜ医療に転用されないのかと言うと、それは長時間見えない壁の中に居ると、却って健康に害を及ぼすからだ。
 ちなみに、壁の内部で喋った言葉は、マイクを使ったかのように周囲に響く。だから観客たちは、ステージの上に立っている彼女たちの言葉を、はっきりと聞き取れるのだ。もしチーム戦における作戦会議などで、どうしても第三者に聞かれたくないセリフがあったなら、そう念じながら言葉を発すれば大丈夫だ。

「無視を決め込むつもりかい?」
 吹き抜けとなったエントランスホール全体を見渡しているクローディアの背中に、ブルーノが投げ掛ける。あくまで聞こえていない体を装うクローディアは、興奮状態にある観客たち一人一人の声に、耳を澄ませているようだった。
「あいつを同じ目に遭わせろ!」
「俺たちのマルグリットの仇を取ってくれ!」
「こんな残酷な男、許さないで!」
「クローディア様! クローディア様!」
 一通り観客たちの声を聞き届けたクローディアは、偉そうな顔のままゆっくりと振り返る。
「あんたにも、よく聞こえたでしょ。皆あんたが消し炭にされるのを観たいんだって。私は教祖だから、可愛い宗徒の願いを成就させる義務があるの」
 教祖を後押しするかのような、宗徒たちによる一丸となった大歓声。ブルーノは嗜虐的な笑みを浮かべると、鉤爪のようになった細長い指の十本から、湾曲した血塗れの針を繰り出した。
「君の不憫な姿を、観たいと思っている人のこと、忘れないでくれよ……!」
 対抗するように華焔の翼を広げたクローディアは、闘志剥き出しの形相で、ブルーノを指差しながら叫んだ。
「このクローディア様の華焔に、焼き尽くされる覚悟をなさい!」
 直後、ライブ開始を告げるゴングが高鳴り、戦いの幕が切って落とされた。

 

 ライブが始まると同時にブルーノは、伸ばした血塗れの針十本を、クローディアに向けて射出した。銃弾には遙かに及ばないが、それなりに速度がある。掠りでもしたら、皮膚が溶けて真っ黒にされるだろう。
 咄嗟に斜め後ろを向き、飛び込み前転して回避するクローディア。ある程度直進した血塗れの針が霧消したのと、ほぼ時を同じくして、クローディアが立ち上がる。

 お返しと言わんばかりに、クローディアは片手に溜めた火の玉を、腕を突き出しながら発射した。交互に腕を突き出しながら、次々と火の玉を発射するクローディア。
 対するブルーノは、軽く広げた状態の両手から、小さな塊となった強酸性血液の連射を開始する。大きさこそ火の玉とほぼ同じだが、単純に見積もっても、連射速度はクローディアの倍以上はある。
 互いに正面衝突しては、ともに霧消してしまう、火の玉群と血液群。その境界線は徐々にクローディアの方へと押し込まれてゆく。火の玉を連射しながら、斜め後ろへと移動して、射線上から逃れようとしているクローディア。
「遠距離戦は不利みたいね~……」
 マルグリットの首を支えてやっているグロリアは、一階観客席とステージの境界線、すなわち見えない壁のすぐ近くで、成り行きを見守っていた。依然としてクローディアが、ブルーノを中心点として、渦巻きを描くように動いており、膠着状態が続く。

 ふいにブルーノが、広げた片手を上の方に向けた。と、クローディアは背中から胸へと、鋭い痛みが突き抜けたのを感じた。一瞬見下ろして確認すると、血塗れの針が身体を貫いていているのが分かった。クローディアのすぐ後ろの地面から、斜め上に向かって血塗れの針が突き上げて来たのだ。焼かれるような痛みが体内で広がる。
 片手でクローディアの両手と互角の連射を放ちながら、ブルーノはもう片方の手を手招きするように動かすことで、次々と血塗れの針を突き上げてくる。串に刺さった鶏肉のようにはなるまいと、前方から迫ってくる血液群に注意を払いつつ、血塗れの針をギリギリの所で避け続けるクローディア。
「えっ、負けそう……?」
 反撃の猶予すらなく、クローディアが逃げ惑っている最中、観客席は緊迫した空気に包まれていた。

 広範囲に放たれる血液の塊を、数発ほど食らったせいで、顔や腕の一部が黒ずんでしまったクローディア。じわじわと窮地に追い込まれてゆく中、不覚にも背後から突き上げて来た血塗れの針を受けて、電流が走ったように一瞬傾け反る。
 血塗れの針はすぐに霧消したが、二度目のクリーンヒットは流石に応えたらしく、前のめりによろけてしまうクローディア。そのまま前方へと倒れ込む――かと思いきや、通過点に小規模な火柱を噴出させながらのタックルを繰り出した! 炎の翼を広げたまま、弾幕を潜り抜けるように、低姿勢で一気に駆け抜ける!
「出たぜ、おい! “ヴァレンティノ”だ!」
 再点火した観客たちの叫び声が轟いたのとほぼ同時に、ブルーノはやおらに両手を振り上げ、血塗れの針を掌から繰り出す。一直線に突っ込んで来るクローディアに合わせて、タイミングよく両手を振り降ろし、串刺しにせんとする。だがクローディアは、タックルをぶちかます寸前で止まり、二本の針を両手でキャッチしたため事無きを得る。

 
「さっきのように手加減はしてあげないよ」
 ブルーノがそう言うと、針から更に多くの血液が滲み出て来た。針を握っているクローディアは、両腕に炎を纏うことによって強酸性の血液を防いでいる。真正面から二つの手と二本の針で競り合う様は、プロレスにおける”力比べ”の状態に近い。
 両者とも身体が殆ど動かない為、一見拮抗しているように見えるのだが、クローディアが両腕に纏っている炎が、徐々にその火勢を弱めてゆく。そのため、血塗れの針を握り締めている部分から、少しずつクローディアの皮膚が黒ずんでゆく。

 メーションには、どれほど弱体化、無効化されにくいのかを表す、”強度”という概念がある。強度が低いメーションが、より強度が高いメーションとぶつかり合えば弱体化され、最悪の場合無効化されてしまう。
 またこの世界では、メーションを弱体化、無効化させる性質をもった、抗メーション物質AMMという物質が存在する。メーションで防護壁を張ったとしても、その強度が低ければ、”抵抗力”の高いAMMを含ませた剣の一振りや、同様な銃弾の一発で、いとも容易く無効化されてしまう。
 時間を操る、空間を操るなどと言った、現実離れの度合いが大きいメーションほど、強度が低くなる傾向にある。更にこれらのメーションは、スタミナの消耗量も激しい傾向にある。効果そのものが優秀であっても、強度が低かったり、燃費が悪いメーションは、えてして低く評価されるのだ。

 話を戻すが、ブルーノが扱うメーションは、バトル・アーティストの中でも抜群の強度を誇ることで有名だ。クローディアの華焔は、決して強度が低いわけではないのだが、ブルーノの血液には敵わない。身体を守るためのクローディアのメーションが無効化され、ブルーノのメーションが一方的に作用しているのだ。
 纏っていた炎は風前の灯となり、代わりに強酸性の血液が纏わり付いて、見る見る黒ずんでゆく。クローディアは口をわなわなとさせて、両腕を余すことなく侵食しつつある黒に、戦慄している。
「花拳繍腿とはこのことか。見た目が派手なだけで、むしろ涼しいくらいだ」
 ブルーノは嗜虐的な笑みを浮かべながら言い放つ。余裕のないクローディアは何も答えられず、両腕に纏った華焔は今にも消えそうだ。

 切羽詰まった面持ちのクローディアに感化されたように、観客席のあちこちから、悲鳴のような声が上がる。「頑張れ!」とか「負けないで!」とか「行けぇー!」とか、消えそうな焚火に急いで薪をくべるかのように、矢継ぎ早に歓声が上がる。
「宗徒10万人と同じ数の10万℃――」
 どういう訳か、クローディアが突如ニヤリと笑うと、消失寸前だった両腕の炎が、その火勢を取り戻していった。エントランスホールに満ちる歓声に呼応するかのように。
「このクローディア様の万夫不当を相乗して――」
 見る見る両腕の華焔が激しく燃え盛り、滴っていた強酸性の血液が霧消してゆく――! それまで嗜虐的な笑みを浮かべていたブルーノは、真剣な表情でイメージを研ぎ澄ませて、なぜか急激に強度が高くなったクローディアのメーションを防ごうとする。
「この華焔は10億℃!」
 得意面になってクローディアが叫ぶと、握っていた血塗れの針を介して、遂にブルーノの身体に華焔が燃え移った! 瞬く間に火達磨と化したブルーノは、血塗れの針を霧消させながら慌てて退いた。埃を払うように、服に纏わり付いた華焔を消し止めようとするが、全くの徒労。美しい華焔が、一気にブルーノの身体を焦がす。

 一口に中国拳法と言っても、少林拳や太極拳などと言った”流派”があるように、メーション使いにもそれぞれの流派がある。アーティストとして戦えるような達人レベルになると、”我流”とも呼べるような、実に個性的かつ強力なメーションの流派スタイルを確立できる。ちなみに、当人が最も得意としているメーションは、当人自身の”無意識”が色濃く反映されている場合が多い。
 例えばブルーノの場合は、女性を思うように嬲りたいと言う無意識が影響して、針と血液で攻撃することを得意とした、メーションのスタイルを確立している。BASのスタッフらは、このメーション・スタイルを”ブラディ=ニードル”と名付けた。
 クローディアのメーション・スタイルは、他の人から応援されればされるほど、よりメーションが強力になる点が特徴的だ。また、見栄えの良さを意識してか、不死鳥を模した美しい火炎を纏うことが多いのも大きな特徴。BASの為だけに編み出されたと言ってもいい、このメーション・スタイルの名前は、”インフィニティ=フェニックス”。

 

 尚も火達磨と化しているブルーノに対して、あくどい笑顔を浮かべながら、クローディアはストレートパンチを見舞った! 悪く言えば、一々表情が大袈裟なクローディアだが、これも観客を沸かせるテクニックの一つなのだ。
 頬に一撃を受けたブルーノは、すかさず湾曲した血塗れの針を五本指から伸ばし、水平に振るってきた。クローディアは上体を前に屈めるようにして躱し、カウンターでレバーブローを打ち込む!
「いいわよ~! 押してる押してる~!」
 特等席で泥臭い格闘戦を観戦しているグロリアは、珍しく少女のような笑顔を浮かべている。

 クローディアは回し蹴りをして、爪状になった血塗れの針を全て打ち砕く! ブルーノは僅かな隙を逃すまいと、手を握り締めずに四本指を揃えたまま、突きを繰り出した。メーションを使えば、余計な予備動作が生まれてしまうから、敢えて素手での攻撃だ。
 四本貫手はクローディアの鳩尾に刺さった。「うぐぅ!?」と漏らしてクローディアが一瞬硬直したので、ブルーノが新たに爪を創りだす為の猶予が生まれた。今度は両手に爪を創りだし、クローディアの前蹴りを起点として、再び激しい肉弾戦が繰り広げられた。
「……どのような状況ですか?」
 後輩ステージガールのマルグリットは、ある程度傷が癒えて余裕が出てきたのか、グロリアの支えを借りずとも上半身を起こすことができた。繰り返すが、見えない壁の中では物凄い早さで傷が癒えるし、感じる痛みも軽減される。
「クローディアさんが、ちょっとだけ優勢なところよ~」
 常に予想外の事態が頻発する、BASのライブに場慣れしているグロリアは、マルグリットの顔を煽情的な笑みを浮かべたまま覗き込んだ。

 
 最近格闘戦の修行を積んだらしいブルーノも、かなり頑張っている方だが、クローディアには及ばない。パンチやキックをいいように浴びせられて、その動きは徐々に鈍ってゆく。
 ふいにクローディアが、華焔を纏った腕でブルーノの首元を掴む。対するブルーノは、掌全体でクローディアの顔面を掴み、更に指先から伸ばした血塗れの爪を突き刺した。
 ブルーノの身体には華焔が燃え移り、全身に火傷が広がってゆく。クローディアの頭部は、突き刺さった血塗れの針の先端から、直接強酸性の血液を流し込まれている。締め技から逃れようと、互いに身体を大きく振っているが、どちらも譲らない。

「あまり暴れないで貰おうか……!」
 更に深く血塗れの爪を突き立てた、ブルーノが着ている燕尾服は、纏わり付いた華焔によって所々が焦げている。
「こんのぉ!」
 頭の中に超高温の石を放り込まれたような苦痛に耐えながら、クローディアは首元を掴んでいる手に更なる力を籠めた。その華焔に焚き木を継ぎ足すかのように、「踏ん張れ!」とか「食い縛れ!」などと言った歓声が巻き起こる。
「私たちも加勢しちゃおうかしら~! クローディアさん、頑張って~!」
 グロリアが拍手をするような動作で声を張り上げると、マルグリットは背筋を伸ばして両手を口元に当てた。
「その……御健闘をお祈りします!」
 こういう馬鹿騒ぎに慣れていないマルグリットだったが、隣で屈んでいるグロリアは優しく微笑んであげた。

 エントランスホールに満ちる歓声によって、メーションが強化されたことを、自分でも感じたせいなのか。クローディアは再びニヤリと笑うと、もう片方の腕をブルーノの股間に差し入れ、ひっくり返すようにして一気に抱え上げた。執念深くブルーノが頭に爪を突き立ててくるが、強引に背面からフロアーに叩き付けるボディスラム!
 両手を広げながら受け身をとったブルーノは、すぐに片腕を天井へと伸ばすようにして、血塗れの爪を射出した。だが、クローディアはその場で屈んだために、頭部を狙った射撃は当たらず。
 そしてクローディアは、片膝立ち状態になったまま、両腕を前に突き出す。炎の翼が閉じたままの状態で現れる。両腕を広げるとともに、炎の翼が勢いよく広がった、その刹那。花火大会の最後を飾る、特大級の花火のように美しい華焔が、クローディアの周囲で何度も炸裂した!
 一瞬にして、何発もの大爆発に巻き込まれたブルーノは、全身ボロボロになって水平にぶっ飛ばされた。見えない壁に背中から衝突すると、そのまま尻餅をついて項垂れる。天を衝かんばかりの歓声が轟く。

 
「さすがね~、クローディアさん!」
「あぁ、良かった……」
 二人のステージガールを始め、ありったけの賞賛に気を良くしたクローディアは、どや顔を見せ付ける。そうして意気揚々と大手を振りながら、見えない壁に凭れ掛かっているブルーノの方へと歩いてゆくのだ。片手には、燃え盛る火の玉を溜めている。
「図に乗るなよ……!」
 ブルーノは、もう片方の腕に残っていた血塗れの爪を、真っ直ぐに歩いて来るクローディアに向けて射出した。同時にクローディアが、バランスボールと同じくらいの大きさになった火の玉を射出する。五本の血塗れの針は、呆気なく大きな火の玉によって霧消され、その上で座りこんでいるブルーノに命中する!

 髪の毛に燃え移った華焔を、手で払い落そうとしているブルーノ。そんな彼の目の前に立ったクローディアは、胴回し回転蹴りの要領で身体を縦回転させ、勢いに乗った立派な竜の尻尾を、ブルーノの頭頂部に叩き付ける!
 ビタン! と痛快な音が響くとともに、ブルーノは呆気なく倒れ込んでしまった。いたいけな新人ステージガールを苛めた、吸血鬼の無様な姿を目の当たりにして、早くも観客たちは有頂天でいる。

「さぁて! この背教者をどうしてくれよう!?」
 クローディアはブルーノの頭を踏み付けながら、観客席を見回しながら叫んだ。
「ディオールだ!」
「ディオールが相応しいです!」
「ディオールでやっちまいな!」
 ディオールとはクローディアの技名の一つであり、大多数の観客はそれを憎き悪魔にお見舞いすることを望んでいる。
「いいよ! ディオール! しっかりと目に焼き付けておきなさい!」
 グローブを直しながらも、快くリクエストを受け容れたクローディアは、虚ろな目をしたブルーノの襟元を引っ張り上げて、強引に起立させる。
 そうして両腕でブルーノの胴を締め付けながら持ち上げ、更に炎の翼で包み込んで、ディオールを完成させた! ブルーノ自身の体重によって、背骨から肋骨にかけて強く圧迫されると同時に、燃え盛る華焔の翼がこれ見よがしに吸血鬼を焼いてゆく!
 ちなみに、メーションを使える相手に締め技、関節技を仕掛ける際は、同時に相手の体内にメーションを流し込むことが基本とされる。自らのメーションで相手のメーションを相殺、あるいは弱体化させることによって、メーションで締め技、関節技から脱出しようとする相手の動きを封じるのだ。
 体内に直接クローディアのメーションを流し込まれているため、人差し指からの血塗れの針、一本だけを展開させることが精一杯なブルーノ。
「無駄だね! この10億℃の華焔を、たった一本の針なんかで!」
 今ブルーノが血塗れの針一本で反撃したとしても、クローディアが纏っている華焔によって、呆気なく霧消されてしまうのがオチだ。今にも気を失いそうなブルーノの姿を、観客たちの誰もが食い入るように観ている。

 

 悪あがき虚しく、ブルーノが遂に意識を手放すと、誰もが思った瞬間だった。なんとブルーノは、自らの首に血塗れの針を突き刺したのだ!
 メーションの影響なのか、考えられないほどの夥しい量の血が噴出して、胴を締め上げていたクローディアの顔面に降り注ぐ。クローディアは目を大きく見開いてビックリしていて、ショッキングな光景に悲鳴をあげる観客も少なくない。飛び散った血液のせいで、クローディアの顔の所々が黒ずんでゆくが、これにて勝負を決しようと固く胴を締め続ける。
「ブルーノさんって、血液を操るメーションが得意だから、自分で血を流すと逆に強くなるのよね~……」
 割と平然とした様子で言ってのけるグロリア。ブルーノはと言うと、自ら流した血液が全身に纏わり付き、言うなれば強酸性な液状の鎧と化している。血の鎧に接触しているクローディアの両腕の皮膚が、瞬く間に溶けて黒ずんでゆく。

 と、ブルーノはハリネズミに変身したかのように、纏った血の鎧から無数の針を突き出してきた! 至近距離からモロにそれらに貫通されたクローディアは、両目を強く瞑って物凄く痛そうにしている。
 針に塗れた強酸性の血液で、焼かれるような痛みを数秒間味わった後、無数の針が霧消するとともに四つん這いになるクローディア。体力が低下してしまうと、心の隙が生まれてしまうのが人間の性。ブルーノの身から滲み出す目に見えない圧力が、クローディアの背中に圧し掛かってくる。

 ブルーノは片足を上げると、靴底から小さな血塗れの針を無数に突き出した。そして、プレッシャーに当てられたクローディアの後頭部を、拷問器具のようなスパイクシューズで踏み付けんとする。
 すかさずクローディアが、不死鳥のような美しい炎の翼を纏い、上昇しながら体当たりを試みる。頭頂部からブルーノの腹部に激突し、跳ね返されて宙で一回転した後、少し離れた場所に着地するクローディア。
「無効のように見受けられるのですが……?」
 ほとんど傷が癒えたマルグリットが、呆然とした雰囲気で述べた。強固な血の鎧に守られているブルーノの身体には、新しい傷は全くない。それどころか、打ちつけた側であるクローディアの額が、より真っ黒に染まっているように思われるのだ。

「打撃じゃダメだ!」
「投げてみたらどう!?」
 目をパチパチさせながら、辺りをキョロキョロ見回しているクローディアに、観客たちが口々に意見を叫ぶ。ブルーノは、通常時のそれよりも膨張した血塗れの針を、掌から突き出していて、クローディアの心臓を真っすぐに狙ってきた!
 素早く斜め前に踏み込んだクローディアは、伸び切ったブルーノの片腕を、華焔を纏った両手で捕らえた。そのまま投げ飛ばそうかと思ったが、両手の皮膚が一気に溶けて、まともに握っていられない状態になった!
「うっわ……」
 すぐに両手を引いたクローディアの手は、骨まで露出している重傷――なんて事態は、特殊装置のおかげで防がれたものの、あまりにも傷ましい有様であることには変わりがなかった。曰く、十万人分の歓声と、自身の素の能力を掛け合わせた華焔を以ってしても、血の鎧を纏ったブルーノのメーションには、強度の面で足元にも及ばないと言うのか。

「そもそも茨姫が、紡錘に刺されて血を流したのは、男性に手籠めにされたことの暗喩からだ。日本神話の天照大神においても」
 そう言いながら歩み寄ってくるブルーノは、纏った血の鎧から無数の湾曲した針を、両側面に突き出した。パンチの間合いまで入って来られたクローディアだが、ただでさえ焦っている所にブルーノのプレッシャーが圧し掛かってくるため、足が竦んで動けない。身体を小刻みに震わせながら、口をあんぐり開いて恐怖している。
 至近距離で立ち止まるなり、ブルーノは両側に突き出した無数の針を閉じるようにして、クローディアの全身を突き刺した! 有名な拷問具の一つ、鉄の処女アイアンメイデンに囚われたようになったクローディアは、黒ずんだ皮膚の上から見るも凄まじい量の血を流している!
「だから、王子さまと結婚して、永遠の幸福を掴みたいなら――」
 淡々と言いながら、ブルーノは全身から突き出した血塗れの針を霧消させる。クローディアは力なくその場に崩れ落ち、悲鳴、絶叫、様々な叫び声がエントランスホールにいる全員の耳を劈く。
「――分かるよね?」
 再びブルーノは、膨張した針を掌から突き出し、クローディアの頭を貫いた。針ごと引っ張り上げて、クローディアを強引に立たせると、空いた方の手をこれ見よがしに振り上げる。

「クローディアさ~ん! 私たちが焚き付けてあげるから、カッコいいところ見せて~!」
 あんまり取り乱していないグロリアは、先陣を切るかのように声を張り上げた。
「大丈夫ですか! クローディアさん、大丈夫ですか!!」
 ちょっとセリフが違うような気もするが、マルグリットも声を大にしてクローディアを後押しする。ステージガールに続いて大勢の観客が、あらん限りの声で叫んでいる。
 一致団結した観客らを嘲笑うように、ブルーノが振り上げた手を勢いよく降ろす。すると、クローディアの真下から極太の血塗れの針が突き出してきて、彼女の身体を容赦なく貫いた!
「クローディア様!」
「クローディア様!?」
「クローディアさま~!!」
 その瞬間、今日一番の悲鳴が塊となってエントランスホールの天井まで届いた。串刺しにされたクローディアの周囲から、無数の血塗れの針が次々と現れ、無慈悲に彼女の身体目指して突き伸びる!

 
 串刺しにされているクローディアに、一斉に針の先端が刺さろうとした瞬間だった。ガソリンに炎が燃え移ったかのように、クローディアの全身から華焔が発現する。さっきまで纏っていた華焔とは、明らかに規模が桁違いだ。クローディア本人が影に見えるほどに猛々しく、鮮明で、それでいて孔雀の羽根のように繊細で、美しい揺らめき。
 限界を突破して燃え盛る華焔は、一斉に突き出してきた血塗れの針全てを、触れた箇所から霧消させた。残るは真下から串刺しにする血塗れの針と、ブルーノの掌から伸びている血塗れの針。荘厳にして雄大、そして豪華絢爛な炎の翼を広げるとともに、その二本を焼き付くす!
「しぶとい女だ……!」
 フィニッシュ・ムーブが決まると確信していたブルーノは、流石に嗜虐的な笑みを浮かべる余裕なく、苛立ちを隠せないでいる。両手、両足、両翼を広げ、宙で一瞬静止した後にフロアーに降り立ったクローディアは、お返しと言わんばかりに嗜虐的な笑みを浮かべている。

「驚いたでしょ。不死鳥は何度でも蘇る」
 グローブを直しながらクローディアが言うと、悲鳴や驚嘆は一挙に大歓声へと変貌する。
「流石クローディアさ~ん! 信じてたわよ~!」
「心臓が飛び出しそうになりました……」
 無尽蔵とも言える歓声――華焔の火種を注がれているクローディアは、威風堂々たる様子で佇んでいる。一見すると、隙だらけだ。トドメを刺す機会をブルーノが逃すはずもなく、素早く血塗れの爪を展開して引っ掻く。通常時の爪よりも遥かに鋭く、より大量の血に染まったメーションの爪で。しかし、極めて鋭利な爪は華焔に触れるなり、呆気なく霧消してしまった
「皆のクローディア様を傷つけた代償は大きいよ!」
 ブルーノを指差しながら、極大の華焔をオーバーヒートさせるクローディア。超強力な漂白剤が使われた衣服のように、黒ずんだ箇所や刺された傷が見る見る元通りになってゆく。限界を超えた華焔によって、恐るべき自然治癒力を手にしている証だ。
「大人しくしてもらおうか……!」
 再び湾曲した血塗れの針を無数に突き出し、両側からクローディアを挟み込もうとするブルーノ。クローディアは、まるで瞬間移動したかのように後方にステップしてそれを躱す。技が不発に終わったブルーノは、大層不愉快そうな面持ちだ。

 キックが届きそうで届かない間合いにいるクローディアは、アッパーカットで空を切りながら、ブルーノの足元から噴火のような華焔を発生させた! 火柱は血の鎧を四散させるほど勢いで、ブルーノはロケットで打ち上げられたかのように、吹き抜けとなったエントランスホールの遥か高くまでぶっ飛んだ。
「10万本の不死鳥の羽根、よーく拝んでおきなさい!」
 限界まで滾らせた炎の翼で、一旦自分自身を包み込んだクローディア。為す術もなく、空高くでぐるぐると回っているブルーノ目掛けて、豪華絢爛な華焔の球体となって飛翔する――!

「フェニックスウィング!」
 華焔の球体と化したクローディアが、渾身の体当たりでブルーノの全身を打ち抜いた直後、丸めていた炎の翼を、勝ち誇るかのように思いっ切り広げた! 斜め下にいるブルーノは、派手すぎる華焔に包まれて見えなくなり、燃え尽きた隕石のように虚しくフロアーへと落ちてゆく。
 神話を題材にした絵画の如く、煌びやかに燃え盛る華焔の不死鳥は、数秒間エントランスホールの天井で静止していた。誰もが不死鳥を見上げて恍惚としている最中、聖なる華焔を祝福するかのように、ライブ終了を告げるゴングが高鳴った。

 

 衝突事故を起こした飛行機の残骸のように、ブルーノは頭部から落下して地に伏す。炎の翼を広げたままゆっくりと降下し、一階フロアーに足先を着けたクローディア。歓喜の叫びと祝福の声が鳴り響く。
 勝利の余韻に浸る暇もなく、クローディアは身に纏っていた華焔を霧消させると、ステージの端に立っている二名のステージガールの方へと走ってゆく。特殊な装置と、限界突破したメーションの力によって、クローディアの衣服や傷は、すっかり元通りになっていた。

「怪我は治った?」
 同じく、完全に傷が治療されているマルグリットの前に立ったクローディアは、目をパチパチさせながら尋ねた。
「はい。お心遣い、ありがとう御座います」
 そう言ったマルグリットは、深々と頭を下げた状態で静止した。細く息を吐いてクローディアが胸を撫で下ろすと、観客席にも一瞬の平静が訪れる。
「大変申し訳ありません。初日から皆様のお手を煩わせるようで……」
 恭しく身体を60度に曲げた状態で、マルグリットが続ける。
「いいよいいよ。気にしないで。戦いはあんたの業務内容に含まれていないんだから。ね?」
 クローディアは若干呆れながらも、両手で無理矢理マルグリットの上半身を立ててやると、その肩をポンポンと叩きながらウインクした。
「いつもパティシエールやってる時みたいに、笑顔でいればいいのよ~」
 真似るようにグロリアがウインクしながら言うと、強ばっていたマルグリットの顔に、笑顔が取り戻されていった。
「……かしこまりました」
 マルグリットが小さくお辞儀すると、主に若い男性たちによる歓声が沸いた。「Foo!」とか「マルグリットちゃ~ん!」とか、パティシエールとして働いている時では考えられない、ともすれば営業妨害にも思えるような叫び声だが、それらを一身に受けるマルグリットは、とても満たされた表情でいた。

 
「ハハ。思ったよりはいい金づるになりそうじゃないか」
 突如、一際大きなわざとらしい拍手と共に、エントランスホールに野太い声が響き渡った。最上階からだ。
「親父!?」
 後頭部を殴られるかのような衝撃を受けたクローディアは、すかさず最上階を見上げた。つられて二名のステージガール、そして最前列にいる観客たちが最上階を――群衆や天井によって視界が遮られている観客は、柱や壁に取り付けられているディスプレイを観る。
 灰色のビジネススーツに、赤いネクタイをした男。オールバックに白髪が混ざっているどころか、ほうれい線もかなり目立つというのに、老いを感じさせないほどに筋骨隆々。尻尾も獣耳も持たない猿人間。悪の帝王エビル=エンペラーと名高いBASの社長にして、クローディアの実父、ジャスティン=クックだ!

「まったく、貴様が産まれた時は、とんだ不細工を寄越されたもんだと思ったが、別荘を我慢して投資した甲斐があったよ。今回貴様が稼いだ分だけでは、まだまだ元が取れんがね」
 透明なガラスフェンスに沿うように、心底腹立たしい姿勢で歩き回りながらジャスティンが言う。
「なんだテメー!」
「最低野郎!」
「父親の屑!」
「金の亡者!」
 当然観客たちがブーイングを浴びせない訳がなく、美酒に酔っている所に水を掛けられたことも相俟って、エントランスホールは天国から地獄に変わったかのようだった。
「おうおうおう、貴様に似てヒクヒク喚く豚どもが集まったもんだ。衣食住足りて礼節を知ると言うが、高級ホテルにぶち込んでダージリンティーでも飲ませたら、少しは大人しくなるのかね? それとも、このジャスティン様のションベンを飲ませてやった方が、効果覿面かな? ハハ」
 今度はマジで殴りたくなるような笑顔を見せ付けながら、ジャスティンが嘲笑ってきた。
「いらねぇよ、猿野郎!」
「テメェが飲めや!」
「舐めんなオラァ!」
「きったない……」
 そうして観客席に、憤怒の炎が燃え広がる様を、ジャスティンは大層面白がっていた。

「黙りなさい! 貴重なお金と時間を割いてくれた宗徒たちを、豚呼ばわりなんて何事!?」
 観客たちを守るように、その意を代弁するかのように、クローディアはフロアーを思いっきり踏み付けながら言った。
「言ったれ! クローディア様!」
 そのボルテージを維持したまま、怒気や憎悪は希望や期待の炎に変貌する。
「このジャスティン様のエンターテインメントに、文句を付けるつもりかね? 所詮貴様など、一介のアーティスト。私が束ねる多士済々の片鱗にしか過ぎんのだよ」
 自らの絶対的権力を誇るかのように、ジャスティンは余裕綽々たる態度。何かに付けて上から見下してくるジャスティンを見るだけで、フラストレーションが溜まってゆくのだ。

「それとも噛ませ犬ジョバーにされるのが好みか? ならば人っ子一人入れん隔離施設で出張ライブを開催して、このジャスティン様の親衛隊と戦わせてやろう。観客席は用意せんが、代わりに大量のビデオカメラを設置してやるから、貴様らは思う存分こいつの負け様を拝めばいい」
 ジャスティンは観客席のあちこちを指差しながら言った。隙あれば、誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けてくる。こんなだから、エントランスホールにいる全員に嫌われるのも無理はない。
「私には十万人の――いや! レイラ中の人々が付いている! どんなに強いアーティストでも、皆の力を合わせれば、勝てない敵はいない!」
 グローブを直しながら、毅然とした態度で返答すると、観客席では同意を表すかのように、盛大な喝采と歓声が巻き起こった。クローディアが言えば歓声をあげ、ジャスティンが言えばブーイングを飛ばさないといけないため、観客たちも忙しい。
「ハハ、言うようになったな。一人じゃ何もできない雛鳥のクセにな。だが、金づるが増えてくれるのは喜ばしい。その調子で偉大な父親に恩返ししてくれよ」
 とてもムカつく歩き方で、ガラスフェンスの前から去っていたジャスティンの背中に、観客らは尚も罵詈雑言を浴びせた。その憎しみは相当なものなのだろう。

 ジャスティンの背中が見えなくなっても、クローディアはその場で佇み続ける。大言壮語をしたはいいものの、次に送り込まれる刺客に対して、一抹の不安を抱いているのだろうか。
 今回のライブでは、(自称)10万人分の観客の力を手にしても、ギリギリの勝利だったのだ。一歩間違えば、敗北に終わっていただろう。より強大なアーティストと拳を交えた際、果たして観客の、宗徒たちの期待に応えることは可能なのか。自然とクローディアは腕組みをしていた。
「陰ながら応援しているわよ~、クローディアさん! あたしたちの代わりに、悪い社長さんをやっつけちゃって!」
 グロリアをはじめとして、数多くの温かい声が耳に届いた。はっと我に返ったクローディアは、腕組みを解いて、一階の観客席をぐるりと見回し、続いて上層の観客席に隈なく目を遣ってゆく。
「私も、微力ながら応援させて頂きます。今日は本当にありがとう御座いました」
 マルグリットの声とともに、より一層の熱烈な歓声が沸き上がった。誰からともなく、「クローディア様! クローディア様!」というコールが発生すると、誰もが同調してその名を叫ぶ。
 一丸となった祈りの声は、エントランスホールの中心点で、驚いたように観客席を見回しているクローディアを包み込むのだ。無意識に発生させた美しい華焔は、その色を限りなく鮮やかに、神妙なものと変容させる。

「あっ……すっかり後回しになっちゃったけど……」
 突如、何かを思い出したクローディアは、とびっきりの笑顔になってからこう言った。
「この吸血鬼に勝てたのは、あんたたちのおかげだね。感謝するよ!」
 歓声、歓声、そして歓声。絶えず歓声ばかりが鳴り響いていたエントランスホールは、最後に今日一番の歓声が轟いたのであった。

 

 怒涛の時間が過ぎ去っても、未だ多くの観客たちが、デパートエリアの景色こそがテレビに映った映像かのように錯覚している頃合。本日のメインイベントで大役を務めたアーティストとステージガールは、BASドームの控え室にいた。

「あー、動いたからお腹減った!」
 クローディアは、若干お堅い感じが漂う、青色のキャスターチェアに腰掛けていた。炎を思わせる赤と黄が入り交じっていて、僅かながらガールズチックな可愛らしさがある、特注のジャージに着替えている。
 これまたキャスター付きのホワイトテーブルの上には、お持ち帰り用の大盛り牛丼が三杯も並んでいた。他には、レタスを中心に、タマゴやトマトなどをふんだんに使った、豪快なサラダを三人前。ちょっと高そうな美味しい牛乳まるごと1リットル。デザートにはフルーツポンチを三人分。これがクローディアのお昼ご飯らしい。

「大役だったし、相当ストレス溜まっていたのかなぁ? あんなに食べるなんて……」
 クローディアと向き合うようにして座っているブルーノは、ホワイトテーブルを埋め尽くす食べ物全てを、まるで自分が食べているかのような、妙な胸焼けを感じていた。白シャツに、落ち着いた色のカーディガンとズボン。優しげなお坊ちゃまと言った感じの服装に着替えている。
「全然溜まってないよ。むしろ、たくさんご飯食べられて幸せー!」
 ぱーっと明るい笑顔になって答える、クローディアの日常茶飯事具合と言ったら。
「プロレスラーだったとしたら、あれでも少ないくらいよ~。往年のプロレスラーさんたちは、試合が終わった後の焼き肉屋さんで、“ひとまず”カルビ10人前を頼むらしいわ~」
 ブルーノの隣に座るグロリアが、僅かに首を傾けながら説明した。茶白のランジェリーが僅かに見える、薄茶色のトレンチコート。ライブ公演中と全く同じ服装だ。
「ストレスと過剰摂取で、お腹が壊れそうだなぁ……」
 裕福な生まれのブルーノには、ちょっとしたカルチャーショックであった。

 
「大変お待たせ致しました。皆様一人ずつに、特別な“思い出”をご用意致しましたので、ご堪能頂ければ幸いです」
 控え室のドアを開けたマルグリットは、部屋に入るなりそう言って、やはり恭しくお辞儀した。白を基調に素朴な花々を散らしたワンピースの上に、落ち着いた茶色のエプロンという、これまたステージ上と全く変わらない服装。両手に携えているのは、”Little Memory”と洒落た文体で描かれた三つの袋。

「おー、ありがとー!」
 ちょうどお昼ご飯のフルコースを完食したばかりのクローディアは、手の甲で唇を拭った後にそう言った。目をキラキラと輝かせながら、マルグリットから袋を受け取る。取り出した小箱をそそくさと開くと、小さいながらも見事な三段を為すケーキが現れた。
「えっ、何これ!? でっか!」
 各階層の”壁”を囲うように、大量のストロベリー、ラズベリーが並べられていて、最上層の中央にドンと置かれているのは、不死鳥を模したでっかいクッキー。
「クローディア様は健啖家でいらっしゃるとお聞きしております故。生クリームもフルーツ類も惜しみなく使った一品で御座います」
「さすがプロのパティシエール! どうもありがとう!」
 両手を前で組んだまま、隣に立っているマルグリットに対し、早くも袋から取り出したプラスチックフォークを握り締めているクローディアが言う。お礼を言い終わると同時に、「いただきます!」と豪快にフォークを突き刺し、ガツガツと三段ケーキを食していった。

「グロリア様にはこちらをば。カロリーを控えめに致しました、豆腐のチーズケーキで御座います」
 わざわざグロリアの隣に来てから、丁寧に袋を手渡したマルグリットが言う。
「あら、気を遣ってくれてありがとね~。お豆腐は太らないから好きよ~」
 満面の笑みでお礼を言ってから、グロリアが袋から取り出した小箱を開ける。一見普通のチーズケーキと何も変わらないように見えるが、豆腐であるという意識を持てば、側面の”白色”にある粒々がそれっぽい。

「ブルーノ様のケーキはこちらで御座います。保冷剤を潤沢に使用しております」
 最後にマルグリットは、律儀にも立ち上がって待っていたブルーノに対して、頭を下げる。ブルーノの方も、返しのお辞儀をした後で受け取った。
「ありがとうございます。 ――あれ、二個ですか?」
 おもむろに取り出した小箱を開けたブルーノは、半分に切られたハート型のショートケーキを目にした。片方には目の点が可愛らしいコウモリのクッキー。もう片方には、キュートなトカゲのクッキーがのせられている。
「左様で御座います。お早めに、ドロテア様とご一緒にお召し上がりくださいませ」
「あぁ……知っていたのか」
 マルグリットがしっとりと微笑むと、ブルーノは決まり悪そうに目を逸らした。

「ブルーノさんったら押しが弱いから、傍から見てるとじれったくなるのよ~。何もせずにはいられない気持ち、分かってるの~?」
 キャスターチェアごと身体を寄せたグロリアが、冗談ぽっく笑う。
「その気持ちは、心の底からありがたいんだけどなぁ……」
 色々あって、ある程度の距離まで急接近した女性アーティストの一人とは、とある事件が収束して以来ほとんど進展がないらしい。バイストフィリアとしてのキャラクターに徹するか否か、葛藤している所もあるのだろう。
「平時において二の足を踏んでしまいがちでしたら、是非ともリトルメモリーにお越しくださいませ。カップル向けのコースメニューをご用意しております故。都合が宜しければ、公演のお手引きをして頂いた御礼の代わりに、私の方でご予約の手続きをさせて頂きますよ」
 別段ブルーノを恨んでいる節はなく、恐れを抱いている様子もなく、マルグリットは常連のお客様のように接した。
「そこまでされたらなぁ……分かりました」
 素に戻っているブルーノは、気恥ずかしさからか、コウモリの羽根をピンと張ったまま小さな声で答えた。
「ごちそうさま!」
 もう三段ケーキを平らげてしまったクローディアは、実に満足そうな表情でお腹を擦る。
「はやっ!」
 ものの数分で、三段ケーキが跡形もなく消えるはずがないと、ブルーノは我が目を疑っていた。

 
「おっと、全員揃っていたのか」
 見計らったようなタイミングで入室したのは、BASの社長ことジャスティン=クック。何かと大忙しなジャスティンは、大事な会議にもライブに臨む際にも、灰色のビジネススーツを着たままであることが多い。
「父さんどうしたの? 私何かやらかしてた?」
 つまみ食いを目撃された子どものように、目と口をパカッと開いてクローディアが驚く。夜が明けない内にBASドームに出勤し、業務が終わると深夜まで身体を鍛える日々を送っている、父親の忙しさはよく知っている。本日のメインイベントを無事に終えても、次の業務が待っているはずなのに、こうしてわざわざ控え室に訪れたということは、悪い予感しかしないのだ。
「ハハ、まさか。君たちのライブは完璧だったよ。いや、なに。さっきリバウドから、大量の食肉をプレゼントされたのだが、如何せん一人では食い切れん量でな」
 大量の何かが詰まった、白の不透明なポリ袋を、ジャスティンは片手で提げていたのだ。
「お肉!?」
 肉というキーワードに反応したクローディアは、座っていた椅子から垂直離陸して、父親の元へとダッシュした。

(珍しいなぁ)
(珍しいわね~)
 社長の素の姿を拝める機会は、滅多に訪れない。ブルーノとグロリアは、姿勢を正してこのサプライズイベントの一部始終を、しっかり脳裏に焼き付けようとする。
(これが、社長の本来のお姿で御座いましたか)
 最近ステージガールにデビューしたばかりのマルグリットは、一般人であればまずお目に掛かれない光景に驚いていた。両手を前で組んで背筋を伸ばし、姿勢正しく佇む様は、不測の事態に対する困惑の様子が見て取れる。

「うむ。恐らく、私が毎日400グラムのステーキを食っていると発言しているから、食肉なのだろうな。口下手で不器用な男だが、根は心優しく、気遣いもできる」
「へぇー! あまり喋らないから、ひょっとしたら嫌われているのかと思っていたけど、口下手なだけならちょっと安心かも」
 ライブ中では考えられないほど、和気藹々とした親子の会話に、三人が口を挟む余地はない。ジャスティンが携えていたポリ袋を、さっと奪い取るクローディア。
「その口下手さがなぁ……。モンスターヒールとして恵まれた容姿と、それに似つかわしい戦闘力を誇るだけに、マイクパフォーマンスで劣るのがとても惜しい。あるいは、ギミックチェンジを検討するべきかもな。木こり出身のプロレスラーは定番だったが、今の若者には受けないのかもしれん」
「生肉なんだ……」
 険しい顔をして考え込んだジャスティンを余所に、さささっと袋の中身を確かめたクローディアが呟いた。

「ハハ。不器用な男だろう? さあ、腐ってしまう前に、お前の華焔でステーキにするのだ」
 ジャスティンはその分厚い手で、娘の肩を横から二度叩いた。
「オーケー! じゃあ、打ち上げの焼肉パーティといきますか! マルグリットは何でもいいからお皿を持って来て! グロリアはオフィシャルエリアの倉庫から鉄板か何かを! ブルーノはお茶でもビールでも何でもいいから、飲み物をお願い!」
 意気揚々と声を上げたクローディアは、思い出したように三人を指差しながら命令を下す。
「まだ食べるのかぁ……」
 ブルーノは自分の胸を、丸を描くように擦りながら、渋々と出入り口へと向かう。
「太らない身体で羨ましいわ~……」
 いつも余裕の笑みを絶やさないグロリアも、予想以上の食欲旺盛さを直視して、ちょっとだけ動揺しているようだ。
「申し訳御座いません。制服に匂いが付くといけません故、お着替えの時間をば少々頂きます」
 最後に、マルグリットは慌ててお辞儀をすると、そそくさと控え室から出て行くのであった。

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