Sublimation of My Heart Part1

 薄暗いアリーナの中では、ライブを観戦する大勢の一般人たちが成り行きを見守っていた。悲鳴を上げる年頃の少女もいるし、罵声や野次を飛ばす中年男性もいる。
 バトル・アート・ショーと呼ばれるこのエンターテインメントでは、絶対的な安全が保証されたステージの上で、バトル・アーティストが無意識を解放するかのように戦うのだ。ある者は国民的なアイドルのように、ある者は残虐非道な悪党に扮して。

 ブルーノ=ブランジーノという、茶髪アッシュアートのバトル・アーティストは、確実に悪党を演じる側だ。血糊付きの悪趣味な燕尾服を着て、乙女を封じたネックレスやブローチを着けるブルーノは、可愛い顔立ちとはミスマッチなほどにおどろおどろしい。細長い指と、蝙蝠の翼を持つ彼は、蝙蝠から進化を重ねてきた名残なのだろうか。
「さて、何をしてあげようか?」
 剣も銃も携えず、メーションというイメージを実体化する能力で戦うブルーノ。対峙したバトル・アーティストの顔に、片足で全体重を掛けながら言った。恐ろしいほどに優しい声だ。騒然としたアリーナでも、言っていることがよく聞き取れるのは、これまたメーションのおかげだ。
 四方八方には、見えない壁越しにブーイングをあげる観客たち。彼が立つ高台は、プロレスで使われるリングのように正方形だが、あえて『リング』ではなく『ステージ(舞台)』と呼称されている。生真面目なスポーツではなく、何でもありなエンターテインメントとしての性格が強い証拠だ。
 もう一人のバトル・アーティストは、カリナ=ベタンコウルトという女だ。相対的に見れば、いわゆる正義の味方ポジション。腹筋が割れていて、藍色のポニーテールの彼女は、黒のスポーツブラで青ジーンズで、首や腕が熊のように柔らかい毛に覆われている。露出が多いが動きやすい恰好は、刀身を高速振動させて蒸気をあげる機械大剣『ボイト』を振るうのに適している。
「てやんでェ! その汚い足をどけやがれってんだ!」
 地面と片足で挟まれたカリナの顔は、怒りを煮え滾らせている。それはきっと、観客席にいるカリナの熱烈なファンも同じであろう。

「カリナ! 頑張れ! 早くボイトを拾え!」
「後ちょっと、後ちょっとよ!」
 観客席からは、転倒した際に取り落とした得物に手を伸ばすカリナへの応援が、ひっきりなしに聞こえてくる。あと少しで、カリナの指先が機械大剣に触れようとした瞬間――ブルーノの掌から、メーションによって発射された血液が、機械大剣をステージのコーナーまで弾き飛ばした。しかも、血液は強酸性らしく、よりによって柄の部分を溶解されてしまう。
「クッソ! オレの武器が!」
 伸ばしていた手を拳骨にして、地面を強く殴りつけるカリナ。機械大剣に頼らず、格闘で反撃するのもいいだろうが、ブルーノの凄惨な攻撃を受け続けていたカリナには、その分の体力が残っていない。既に、遠距離から血液を何度も浴びたカリナの服は、所々が破れ、身体のあらゆる所が黒ずんでいる。
「わめくなよ、うるさい。黙って悲劇のヒロインになれば、きっと人気が出るよ」
 ブルーノが優しい声で言う。カリナが見上げると、彼は穏やかに、まるでか弱い子どもが一生懸命な様を見ている親のように微笑んでいた。蝙蝠の翼を、微かに羽ばたかせながら。
「舐めんじゃねェ! べらぼうめェ!」
 喧嘩っ早いカリナは、暴れ回って拘束から逃れようとするが、そこにブルーノが強酸性の血液を顔に発射する。
「負け犬の分際で口出しをするな……!」
 本性を現したかのように重く低い声を放ったブルーノに、カリナは恐怖心を抱いてしまい、硬直してしまった。ブルーノと向き合っているだけでも、路地裏で不審者に声を掛けられたかのようなプレッシャーに苛まれるのだから、ちょっとした脅しでも過剰にビビってしまうのだ。
「この野郎……! 目が開けねェ……!」
 カリナの顔が真っ黒に爛れると共に、観客たちは一斉にブーイングを行う。だがブルーノはむしろ悦び、狂ったようにカリナの全身に血液を浴びせ、余すことなく溶かし尽くしてゆく。
「これはひどい! なんて残酷なんだ! この男は鬼だッ! いっそ一思いにトドメを刺せばいいのに!」
 放送席にいる実況者は、興奮して顔が真っ赤になっているだろう。
「さすが、バイストフィリア(強姦性愛)の異名を持つだけはありますね。まるで婦女暴行現場のような光景です」
 続いて響いた、解説者による冷静な言葉が、半ば狂乱状態にある観客たちの耳に果たして届いたことが。
「ふざけんな、この変態野郎!」
「サイッテー! 女の敵!」
「カリナ、負けるな! やっちまえ!」

 混迷するアリーナの中央で、ブルーノは満足げに笑みを浮かべる。踏みつけていた足をどかし、ステージの隅に歩き、観客を諭すかのように大層な仕草で叫ぶ。
「苦痛に歪んだ女の顔は、ありのままで美しい。ギリシャ彫像の裸体に通じるものがある。それに比べ女の笑顔は、本性を隠し、媚を売り、庇護欲を煽る。下品な化粧のようで気持ちが悪い。――皆はそう思わないかな? 誰だって女の子に裏切られたことはあるはずさ。仕返しをしたいと思ったことはない? 僕は、皆の代わりに復讐をしてあげているんだよ。むしろ、感謝して欲しいなぁ」
 ブルーノのこの言葉に、アリーナの興奮は最高潮に達した。野次と罵声の集中砲火をブルーノに浴びせると共に、カリナの名を繰り返しコールする観客たち。
 そのカリナの顔面は、少しずつだが元通りになってゆく。このステージの上に立つ者は、大規模なメーションと最先端の科学技術によって絶対に死ななくなり、感じる痛みも普段よりは軽減され、四肢が切断されるなどの大衆に見せられないような出来事は起こり得ず、傷を受けても著しく早く癒えるのだ。更に言うと、公共秩序に反するレベルでの衣類の破損も塞がれ、バトル・アーティストたちが用いる武器なども時間経過で修理されるし、銃弾などは無尽蔵。その代わり、長時間ステージの上に立つと、逆に健康を害するのだが。

「ふざけたことほざきやがってェ……!」
 顔の半分に日焼けした肌を取り戻したカリナは、背を向けるブルーノに、鬼のような形相で機械大剣の切っ先を向けた。これで斬られると血が蒸気になってしまうほどの高熱を、刀身に帯びているのだ。それに加えて、常時サウナよりも暑苦しい蒸気を放っているのだから、これを近づけるだけで立派な攻撃になる。カリナが受けた仕打ちにも劣らず、残酷な報いを与えることができるだろう。
「危機が去った途端これだ。これだから女は――」
 歓声とともにブルーノの背を一刀両断しようとした、その刹那。ブルーノが振り向き様に、掌から巨大な血塗れの針を伸ばして、カリナの胸を貫く。
 メーションで生み出した血液と針が、ブルーノの得意技だ。このメーション・スタイルは、『ブラディ=ニードル』とバトル・アート・ショーのスタッフに名づけられた。作曲家それぞれにオリジナルの曲があるように、メーションで戦う人間のそれぞれに、オリジナルのメーション・スタイル、つまり戦い方があるのだ。ちなみにメーション・スタイルは、本人の潜在意識に強く影響される。

 絶句した観客たちが固唾を呑んでいる中、血塗れの針で貫かれたカリナの身体は、ステージ中央の高さ3メートルくらいまで持ち上げられた。と、次の瞬間、カリナの真下の地面から、無数の血塗れの針が一斉に突き出し、機械大剣諸共その全身を隅々まで貫き通した。カリナの絶叫が観客たちの耳を劈く中、全ての血塗れの針は膨張し、そして大爆発。針の内部に溜められた強酸性の血液と共に、カリナの身体を外側からも内側からも蹂躙した。
 粉々になった機械大剣と共に、虚しく地面に落下したカリナ。焦げた肉塊のようになったカリナを観て、観客たちはもはやブーイングを上げることさえできない。火事の現場に居合わせたかのように、パニック状態で泣き叫ぶ者が多数。その騒ぎの更に上をゆく音量で、ライブ終了を告げるゴングが鳴った。
「ここでライブ終了であります! 衝撃的な結末でした!」
 バトル・アート・ショーのライブは、クライマックスを迎えたと審判が判断した瞬間に終わる。これもまた、エンターテインメントとしての性格が色濃い証拠だ。

 場を盛り上げることができる限り、ライブでは何をやっても許される。観客を楽しませることが、バトル・アーティストの仕事であるからだ。ある者は、生粋のスポーツマンとして正々堂々たる試合の末の感動によって。ある者は、ロックンローラーのコンサートのように激しい興奮によって。ある者は、知的な棋士のように静粛な場内の水面下で散らす攻防の火花によって。そしてある者は、ホラー映画のように恐ろしく血生臭い恐怖によって。
 ライブを盛り上げさえすれば、何をしても許される。だから、コンプレックスや葛藤、満たされない欲求を『昇華』させるために、バトル・アーティストになった者は非常に多い。
「ふぅ……。スッキリした」
 女を痛めつけて愉しむブルーノも、満たされない欲望の『昇華』に成功した一人だ。

(大した嫌われようねぇ。あのゲスに女が勝てば、飛びっきりの有名人になれるだろうわ)
 これ見よがしに金を使った、アンティークの双眼鏡を覗く女が一人。不自然な爆乳と、気持ち悪い色の口紅。美白を謳う肌はよく見るとハリがなく、胸元の空いた、露出度の高いドレスの色は金。ドレスと背中の隙間から伸ばした蔦で、双眼鏡を握っている。植物から進化した人間なのだろう。ブーイングの嵐の中で、彼女は不敵に笑うのであった。

 

 ライブを終えたブルーノは、バトル・アート・ショー・ドームのフードコートで、一人夕食をとっていた。紛らわしいので説明すると、広大な施設であるドームの中に、ライブを行うアリーナ(複数ある)や、フードコートやらショッピングエリアやら、バトル・アーティストが模擬戦を行えるトレーニングルームなどがあるのだ。アリーナがある以外は、巨大なデパートとほとんど同じと言っても良い。

 さて、ブルーノはフードコートの端の方にある席に座り、大好物のクリームパスタを味わっていた。天井がガラス張りだったりしたら、今ごろ綺麗な夜空が見えることだろう。
 茶髪のアッシュアートはそのままに、落ち着いた色のカーディガン、ズボン、そして白シャツに着替えたブルーノ。蝙蝠の翼は……間違ってもアクセサリーではないので、取り外そうなんてとんでもない。
 その蝙蝠の翼に、好奇の眼差しを向けたり、得も言われぬ嫌悪感を感じる者はいない。レイラと呼ばれるこの世界では、人間に尻尾や角が生えているのも、メーションによって現実離れしたことが身近に起きるのも、全て日常茶飯事なのだ。日本とかアメリカとかギリシャとかがある『隣の世界』とは、これらの点が決定的に異なる。だが隣の世界(の特に日本)は、レイラに極めて大きな文化的影響を与えているので、誰もが携帯電話を持っていたり、自動車が広く普及している点などでは同じだ。

 ふと、ブルーノの背中からパスタにかけて、肥満気味の男と思わしき影が差した。振り上げられた影の手に掴まれているものは、形状から察するに灰皿だろうか。
 咄嗟にブルーノは立ち上がって振り向き、手の平から血塗れの針を伸ばして、灰皿が頭に命中するよりも早くそれを弾き飛ばした。
「コンチクショウ! その欲望で汚れた針をどけろ!」
 頭頂部が禿げ、顔に脂がのっている肥満男は、「へぇ……へぇ……」と息巻いている。騒がしかったフードコートは緊張に包まれる。居合わせた人々は一斉にブルーノと肥満男に注目し、ドームの通路を歩いていた人々は立ち止まるか、そそくさに通り過ぎた。
「いきなり何ですか!?」
 血塗れの針を霧消させながら、困惑したブルーノが問いかける。対する肥満男は、唾を吐き散らして叫ぶ。
「よくもボクのカリナちゃんを! ボクはカリナちゃんのライブを、デビューした時から毎日欠かさず観ていたんだぞ! 顔と名前も憶えてもらっている! ボクがカリナちゃんと結婚するのは、時間の問題だったんだ! ボクが一番、カリナちゃんを好きにしていい権利を持っていたんだ! オマエなんかじゃなくて!」
 肥満男はなりふり構わず、大ぶりなパンチをブルーノの頭に見舞おうとした。周囲では悲鳴を上げる人や、警備員を呼ぶ人も。だがバトル・アーティストたるもの、不意打ちはともかく、真正面からの素人パンチに反応できて当然のこと。ブルーノは片手でパンチを受け止める。
 だがブルーノは、これ以上の危害をこの肥満男に加えることはできない。
(駄目だ、僕はこの人を傷つけずに正当防衛ができない……! 強酸性の血液も、血塗れの針も、かなり凶悪な攻撃だ。かといって、僕は格闘技に関してはほぼ素人だし……)
 幸いにも肥満男は、見かけの割に力が弱かったので、非力なブルーノでも膠着状態に持ちこむことならできた。このまま警備員が駆け付けるまで耐えられるかは、時間の問題だが。

「やめろ、はなせ! ボクはカリナちゃんを――あぶぇ!?」
 と、肥満男が背後から側頭部を殴られ、床に倒れた。
「ここにいやがったかァ……」
 藍色のポニーテールで、黒スポーツブラに青ジーンズの女性。さっきのライブで叩きのめしたカリナだった。
「カ、カリナちゃん!? よせ、下がれ! この男は危険だ! 仇を討つのはボクに任せて、カリナちゃんは早く逃げるんだ!」
 睨みつけてくるカリナを見上げながら、肥満男は汗まみれの手を激しく振った。と、喰いしばった歯を露わにしたカリナが、肥満男の顔をサッカーキック。
「テメエがオレの控え室に来た時に言ったよなァ!? ブルーノに手を出したら、タダじゃおかねェってよォ! テメェはアレか!? 殴られねェと分からない犬畜生か!?」
 カリナが一喝しても、黙るどころかむしろ悦んでいる肥満男。
「あぁっ! うぅっ……! ヒッヒッヒ……! カリナちゃんに蹴られた……! キモチイイ……! もう死んでもいいやぁ……!」
(気持ち悪い人だなぁ……)
 ブルーノは悪寒に襲われて竦み上がる。
「死ねッ! 死ねッ! さっさと死ねやァ! べらぼうめェ!」
 完全に頭に来たカリナは、肥満男の顔を何度も何度も踏みつける。肥満男の意識は、間もなくぶっ飛ぶ。まるで天使に魂を運ばれたかのような、満たされた(しかし気持ち悪い)笑顔を浮かべたままで。
(この人大丈夫かなぁ……?)
 素の性格は大人しいブルーノは、冷や汗をかきつつ肥満男を見下ろしていた。
「んだよ、こいつ……! 蹴る度に埃が舞い上がる……! 風呂に入ってねェのかよ……!」
「カリナ……助けてくれてありがとう」
 ブルーノは、青ジーンズに付着した埃を払っているカリナの前で、深々と頭を下げた。
「どうってことないけどよォ、オマエも反撃するなりしろよな。黙ってやられるつもりか?」
 首を覆う、熊のような毛をボリボリと掻きながらカリナが返す。
「ステージの外で人を傷つけたら、取り返しのつかないことになるよ……」
 戸惑い気味に答えるブルーノ。
「だからってやられっぱなしかよ。言葉が通じねェ犬畜生には、説教や話し合いなんざ逆効果だ。オレも鉄道ファンをやって長いが、たまに出てきやがる阿呆どもは、つべこべ言わず殴ることにしている。でねェと機関車が止まったり、下手すりゃ事故が起こる。それこそ取り返しが付かねェ。それに、オレと何かしらの関わりがある以上、知らんぷりしたらオレの責任でもある。気色悪ィファンとはいえ、コイツもその一人だ」
 曲がったことが嫌いなカリナらしい意見だ。

「とりあえず阿呆は張り倒したし、オレは帰るぜ。明日は隣の世界に行って、ドイツの蒸気機関車を観に行くんだ。爺ちゃんと一緒にな」
 そう言ったカリナは、ケロッと楽しげな表情になった。細かいことは一々気にせず、過去はさっぱり洗い流す性分らしい。
「爺ちゃん?」
 ぶっきらぼうなカリナが、「ジジイ」などではなく「爺ちゃん」と言ったことが、ブルーノにとって意外だった。その場を立ち去ろうとしたカリナが振り返る。
「おうよ! オレの爺ちゃん。昔は蒸気機関車とか作ってた、技術者なんだ。女らしい仕事をしたくねェから、オレがバトル・アーティストになりてェと言った時にもな、女らしいことをしなさいってオフクロたちは反対したけど、爺ちゃんだけが賛成してくれたんだ! だからオレ、爺ちゃんが作ってくれた武器を使いこなせるよう、たくさん練習した! 銭をがっぽり稼いで、恩返しするつもりでな!」
 熱く語るカリナの目は、恋する乙女のようだった。余談だが、江戸っ子のようなカリナの口調は、爺ちゃんを真似たものらしい。
「そっか。根っからの爺ちゃん子なんだね。ごめん、引き止めて悪かったね」
 可愛らしい顔に相応しい、穏やかな笑みを浮かべてブルーノが手を振る。
「気にすんなって! んじゃまたな!」
 カリナは今度こそ、手を上げてブルーノに別れを告げた。危機は去り、フードコートも平和的な喧噪を取りもどしたが、警備員たちが入れ違いでフードコートに駆けつけてきた。よって、ブルーノは床で伸びている肥満男やら何やらの説明をしなければならず、大好物のクリームパスタをもう暫くは食べられないでいたのだ。

 負けず嫌いな性格でもない限り、ライブで負けたバトル・アーティストが勝利者を憎むことは滅多にない。ライブで負けたら負けたなりに、熱心なファンからより一層応援してもらえる。より多くの観客が集まるため、収入増加を期待することもできる。他のバトル・アーティストに迷惑を掛けるファンを持つのは、誰しもが御免だが。
 要するに、ライブで対峙するバトル・アーティストは、敵というよりは共演者だ。それぞれの信念、役割、戦い方、セリフ、アクション、全てが融合して芸術へと昇華する。スタッフはバトル・アーティストが万全の調子で魅せることができるよう、陰から支える。そして観客たちも、時に歓声によって、時にブーイングによって、ライブそのものに『参加』し、彼らがライブの流れを変えるケースも少なくない。バトル・アート・ショーは、バトル・アーティスト、スタッフ、そして観客の三者が一体となって創られる、芸術なのだ。

 

 ブルーノが暮らすアパートの玄関に、突如現れた人型の色のない光が、徐々に輝きを増してゆく。色のない光が消えた瞬間、中からブルーノが現れた。
 ブルーノの利き手には、電車やバスの定期券のような長方形をした、テレポート・チケットがあった。これを手に持って念じれば、メーションに疎い人間でも、(このチケットの場合は)ブルーノの自宅に瞬間移動できる。ブルーノはもう一つテレポート・チケットを所持しており、それはバトル・アート・ショー・ドーム行きのチケットだ。
 通学用や通勤用のテレポート・チケットもあるが、何度でも使えるとはいえ、旅客機のファーストクラスに座るよりも値が張る。大金持ちでもない限り、気軽に買える代物ではない。このチケットを無料でバトル・アーティストに支給する、バトル・アート・ショー本部の財力や恐るべし。

 それなりに高級なアパートに住むブルーノは、実家を離れて一人暮らしをしている。バトル・アーティストになる前、とある理由でここに引っ越したのだ。家族との仲をこじらせたとか、そういう重い理由ではない。バイストフィリアとして仕事をしているのは家族も知っているし、それについて悪いことを言われもしない。
 繊細な柄の布団が乗っかったベッドに、落ち着いた色の照明。肌触りの良い絨毯に、心癒される風景画の数々。下手なホテルよりもオシャレで居心地が良いリビングだ。
「よいしょっと。あぁ、疲れたなぁ……」
 ふかふかのソファーにブルーノは座る。メーションを使うと、煩雑な文章を精読するように、或いは難解な数式を解くように、非常に神経が擦り減るのだ。ステージの上で戦いながらだと、尚更集中力が要る。背もたれに寄りかかり、天井を見上げてブルーノは一息ついた。

(うーん。今日のライブは、ちょっと一方的過ぎたかな? もう少しカリナの出番も作ってあげるべきだったかなぁ? というか、やり過ぎたかなぁ? カリナのファンを暴走させてしまったし。やっぱり僕は、現実世界にも迷惑を掛けているのかなぁ……)
 冷蔵庫から取り出したオレンジジュースを、コップに注いでテーブルに置いてから、ブルーノの一人反省会が始まる。ブルーノは、ある程度の人気と知名度を得た女性のバトル・アーティストと戦うことが多い。半人前のバトル・アーティストが、格上の悪役によって徹底的に嬲られる。そして、どん底に沈んだところを、ファンの応援によって立ち上がり、腕を磨いてリベンジ戦を挑むという、本部の営業戦略だ。
 ブルーノがこんな役割を担う理由。それはブルーノが、女を痛めつけたいという、日常では決して満たされない欲求を満たすために、バトル・アーティストになったからだ。スタッフは、演出を交えてそれを過剰に強調し、ブルーノを類稀なる悪役に仕立て上げたのだ。
 そのことについて、ブルーノは不平も不満も言っていない。むしろ、自分のやりたいことができて満足している。思いの外、ブルーノと戦えることを喜ぶ女性バトル・アーティストも多い。ブルーノとの対戦カードを組まれるということは、スタッフに有望なバトル・アーティストとして認められること。つまり、栄光の花道の第一歩を踏み出すことと同義だからだ。
(もうちょっとやられてから、本気を出した方が良かったかなぁ。イケる! と思った瞬間に惨劇が始まった方が、恐怖感も増すし。僕が受けた有効打は、せいぜい胸元への一閃と、牽制用のキックからの縦斬りくらいだし。うーん、バトル・アーティストとして失敗だったかもなぁ。欲望に身を任せるなんて……)

 ふとブルーノは、バイオリンを無性に弾きたくなった。考えがまとまらない時は、気分転換をするのが一番だ。ソファーからさっと立ち上がったブルーノは、クローゼットの奥に保管していたケースから、バイオリンを取り出す。
 話はそれるが、メーションはイメージを実体化する特殊能力であるから、豊かな想像力や繊細な感受性を持つ芸術家などは、メーション使いとしても優れた資質を持っている。だから、かつては優れたバイオリニストだったブルーノが、メーション主体の優れたバトル・アーティストになれたとしても、決しておかしくはない。メーション以外の技術、つまり徒手格闘や武器術、銃器の知識などは、素人同然であるのだが。
(バッハ、第三番、プレリュード。隣の世界の曲だけど、僕にとってはとても身近だ。毎日練習したからね)
 昔を懐かしむように、ブルーノは波のように音階が揺れる曲を演奏した。防音対策がなされたこのアパートなら、迷惑を気にせず思い切り弾ける。孤独な男が住むリビングの静寂も、聴衆を優美な世界に誘う舞台の上になったかのようだった。

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