Sublimation of My Heart Part12

 ここは、歓楽街ナポラーンのとあるライブハウス。マルツィオの行きつけのお店だ。
 さっきまでインディーズバンドの(音楽的な)ライブが開催されていたらしく、マルツィオら五名が訪ねた時には、女性店主(マルツィオのターゲットの一人)と店員が駄弁りながら後始末をしていた。しかし、包帯やガーゼだらけになった常連客ことマルツィオが姿を現すと、店主は二つ返事で五人を匿ってくれた。
 突然現れた客が「匿ってくれ!」と懇願してくることは、ナポラーンでは珍しくない。気の強い女性店主は一喝して追い返すこともできたが、黒服に追われる麻薬中毒者や、刑事に追われる武器商人などに比べたら、マルツィオは遥かに信用できる。それに店主は、悪名高きジュリアナのことを知っていた。

「ごちゃごちゃしていても構わないなら」と、店主は物置部屋を貸してくれた。椅子や机が所狭しと積み重ねられて、棚には埃を被った段ボールが隙間なく収納されている部屋だ。
 ドロテアは、デルフィーヌと二人きりで話し合える場を探していたのだ。当人にとってあまり知られたくない質問をするなら、できる限りプライバシーを確保できる場所が望ましい。
 ドロテアの尋問もといカウンセリングを、グロリアも手伝うことにした。大人の女ならデルフィーヌも安心できるだろうし、ドロテアが言葉に詰まったとしても、機転の利くグロリアがフォローしてくれる。ブルーノとマルツィオは、外で待機だ。

 ドロテアは最初の数分で、デルフィーヌという名前と、人種はメーションドールであることと、ジュリアナの部下に創られた経緯を告白してくれた。怯えて何も喋らないだろうと、長期戦を覚悟していたブルーノたちは、意外にも簡単に事が進んで拍子抜けしてしまう。
 ドロテアとグロリアが、デルフィーヌと交わした約束と違って、実はブルーノとマルツィオにも哀れな少女の告白を盗み聞きさせている。デルフィーヌを安心させる為に、はなっから守る気がない約束をしたドロテアは罪悪感を覚えたが、万が一デルフィーヌが不意打ちを仕掛けて来た時に備えてのことだ。状況が状況だけに仕方がない。

「それにしても、なんでデルフィーヌは、空のペットボトルを欲しがったのかなぁ?」
 物置部屋のドアの前に立つブルーノが、小声でマルツィオに漏らした。ブルーノはつい先ほど、部屋の外に出てきたドロテアに、水洗いしたペットボトルを渡したのだ。
「食べるんじゃねーの? デルフィーヌちゃん、周りにある物を溶かして身体に取りこんでたし。そりゃあ、あんなにメーション使ったら腹が減る。安心したら、もっと腹が減る」
 物置部屋から微かに聞こえる、会話の断片を注意深く拾いながら、同じく小声でマルツィオが答える。包帯とガーゼだらけで痛々しい姿だが、本人はいつも通り。
 もっとも、こんな状態だとまともに戦うのは無理そうだが……。ステージの上で負った怪我はすぐに元通りになるが、ステージの上に立つ前から負っていた怪我は、ステージの上に立っても治療されないのだ。
「物を柔らかくしたり、逆に硬くするメーションが得意なんだっけ? ペットボトル一つでも、立派な武器になりそうだ。変な気を起こさなければいいけど……。さっきから、質問に素直に答えているのが怪しい」
「そんな心配すんなって! 知らねーのか? 怖い警官の後に、優しい警官が取り調べすると、犯人は結構素直に答えるらしいぜ。優しい警官は、怖い警官から守ってくれるかもしれねーと思うんだとよ。この場合、オマエが怖い警官で、ドロテアちゃんが優しい警官だな」
 マルツィオがニヤニヤ笑っていると、部屋の中からガリッ! ガリッ! と何かが砕けるような音が響いてきた。ブルーノは身構え、マルツィオは一歩引き、偶然通りかかったゴミ袋を両手に持つ店員がピタリと止まった。
「もう~すごい硬いのね~! デルフィーヌちゃんの歯! いつもペットボトルを食べているの? ――へぇ~、そうなのね」
 グロリアは、外にいる男たちを安心させる為、わざとらしく声を大きくしたのだろう。
「メーションで歯を硬くしてるんだな」
「あるいは、ペットボトルを柔らかくしたのかも」
 マルツィオとブルーノのやり取りを聞いて、安心した店員が過ぎてゆく。

「……そうだ! ケヴィンたちに報告しないと。マルツィオを何とか見つけて、刺客も捕まえたって」
 ふいに思い出したブルーノは、メーションで携帯電話を手に現すと、ホールに続く通路へと歩いてゆく。
「そんな大事になってたのか?」
「そうなんだよ……。ジュリアナの元部下と名乗る人間が、なぜかマルツィオじゃなくて、ケヴィンたちに電話して伝えたからさ。ケヴィンからそのことを知らされた僕とドロテアはここに来たんだけど、ケヴィンは身体一つで僕たちより遠い場所に行ったからなぁ……」
「うわー、わりーことした……。オレがケータイの電源切ってたせいか……」
 片目を瞑って申し訳なさそうにしたマルツィオは、メーションで現した携帯の電源をオンにして、着信履歴などを確認した。ブルーノはマルツィオに断ってから、一緒になってその画面を覗く。
「あれ? 電源切っている間に来た着信は、僕とドロテアだけみたいだね。そのジュリアナの元部下と名乗った人、本当にマルツィオの電話番号を知らなかったのかなぁ?」
「かもなー。って、待てよ? ケヴィンから知らされたって、つまりオマエらにも連絡がいってねーというコトか? 一緒にいたグロリアちゃんは、何度か携帯電話をいじってたけど、もしオレが襲われますって留守電残っていたら、間違いなくオレに知らせるだろーし、大事な用だから留守電残さねーはずがねーし。それなのに、ケヴィンや他のアーティストには電話したってか?」
「あっ……確かに、何でだろう? ケヴィンの他に、少なくとも十人以上のアーティストに連絡したって聞いたけど、それだけの人数の連絡先を知ってて、どうして僕たちには……?」
 人間の性として、直接聞いた悪い噂より、間接的に聞いた悪い噂の方を信用してしまう。あの時、ブルーノは真に受けて慌てるばかりであったが、振り返ってみると不審な点が思い当たる。
「あー、引き止めてわりーな、ホント……。オレ、偉そうに物言える立場じゃねーのに」
「うん……大丈夫だよ。じゃあ、ケヴィンたちに電話してくるね」
 そう言い残したブルーノは、ホールに向かって歩いてゆくのであった。

 

 床に座り込んだデルフィーヌが、棒読みに近い喋り方で話すのは、ジュリアナの私邸内に隠蔽された陰惨たる日常。同じように座り込んだグロリアとドロテアは、何も言わずに眉根を寄せている。
 失言して、次の瞬間には頬を打たれるのではないかと、デルフィーヌは終始おどおどしていた。「す、すみません、変なこと言って……」と謝るたびに、「大丈夫よ、続けて」と優しく言われるから、二人が不愉快そうにしている訳が余計に分からない。

 一通りの『何気ない日常』を話し終えたデルフィーヌは、黙って目を伏せているドロテアとグロリアを警戒していた。血液が沸騰しそうな程の怒りを爆発させて、デルフィーヌを怖がらせまいと堪えているに過ぎないのだが……。
「許せないわね。誰にも見られないのをいいことにして。……いや、誰も助け舟を出そうとしなかったせいね。どうせ会社の中には、金目当てのゴマすり野郎と、内輪でいい気になったおべっか使いしかいないんだわ。あのクソ女は、親から社長椅子を受け継いだらしいけど、きっとご家族も頭の中がお花畑」
 かつての自分と照らし合わせるように、ドロテアが共感するように言った。「辛かったわね」などの無難な慰め方をするのは、上っ面しか物事を見ない偽善者だというのが、ドロテアの考え方。
「厚化粧で素顔を隠そうとする女だからね~。きっと、デルフィーヌちゃんの知らない所で、もっとあくどいことをしてるに決まってるわ~」
 便乗して悪口を言うグロリア。ジュリアナに「シミを消せ」と言われたことを、相当根に持っているようだ。
「で、でも、私も悪いです……。だ、だって、何度叱られても、仕事ができるようになりませんから……。鈍臭くって、ジュリアナ様を苛立たせてしまいますから……」
 デルフィーヌの声が絞り出された途端、ドロテアとグロリアは目を丸くした。腕や足を折られ、フォークやナイフで身体を刺され、最近だと例の化粧液のモルモットにされたりと、口に出すのも憚られることを幾度となくやられたのに、まだジュリアナを庇おうとしている。
「しょうがないわよ。デルフィーヌちゃんは、ロボットじゃないわ。無茶な命令されて、怒られてばっかりだと、仕事どころじゃなくなるわ」
 かく言うグロリアにも、いじめられて塞ぎこんで、人並みの生活を送れなかった時期がある。
「で、でも、それは皆様も同じです……。私、本当なら、解体処分されるべき人形ですけど、ジュリアナ様は私が仕えることをお許しして下さいます。もし、ジュリアナ様以外に使えていたら、私――」
「それは違うわ、デルフィーヌ」
 ドロテアが強引に割って入ったため、デルフィーヌは「ひっ!?」と怯えてしまう。断じてドロテアの言い方が悪かったわけではないが、デルフィーヌの病んだ精神は、ちょっとした事にも過剰反応してしまう。

 とにかく自分が悪いと考えがちなデルフィーヌの言動で、ドロテアは確信する。ネガティブに囚われる点においては、人のことを言えた義理ではないが、だからこそ薄幸な少女の気持ちがよく分かる。
 デルフィーヌは、外の世界を知らないのだ。井の中の蛙なジュリアナのコミュニティ内が、デルフィーヌの目に映る世界の全て。ドロテアもそうだった。村の外からやって来た保健室の先生と出逢うまで、村中の子どもから除け者にされている自分は、どこに行っても除け者にされると考えていた。
 まるで、昔の自分を見せつけられているみたいだ。デルフィーヌの「私が悪い」は、この一時間弱の間うんざりするほど耳を痛くさせて、それが自分が持つ嫌な所と重なり、思わず引っ叩きたくなる。同時に、妙なノスタルジーを感じた。陰口を叩いては、「どうせ私なんか」と連呼していた自分に、嫌な顔をせずに付きあってくれた保健室の先生は、思っていた以上に懐が深い人だったんだわ、と。

「デルフィーヌ。アンタには、ジュリアナを嫌う権利があるのよ。ジュリアナが治める閉鎖空間では、許されないことだろうけど、私たちの前では言っても大丈夫なことだわ」
「ど……どうして大丈夫なのでしょうか?」
 小刻みに震えているデルフィーヌは、臆病さ故に、はっきりとした答えを言えないのだ。ドロテアは、漠然とした質問に呆れることなく、少し考える時間を貰ってから教えてあげる。
「……吐き出さないと、やってられないからよ。悲しい時は泣くし、頭に来た時は叫びたくなるわ。アンタだって、お腹が減ると何か食べたくなるでしょ。それと同じくらい、自然なことだわ」
 保健室の先生をはじめとし、今まで見聞きしてきた優しい言葉を繋ぎ合わせるドロテアは、却ってデルフィーヌが傷つかないかどうか、密かに張り詰めていた。
「でも私、鈍臭いですから、ワガママを言う暇があったら、人一倍頑張らないと……」
「人一倍頑張って、どうするの? さっき聞いた話だと、どんなに頑張っても暴力を振るわれるんでしょ? そんな理不尽な上司に付いても、いつかは使い捨てられるのが目に見えているわ。そんなに身体を壊すくらい、頑張らなくてもいいのよ」
「でも、だって、私……他に行くところなんてないからぁ……!」
 突然、デルフィーヌが泣き始めた。光る合成物質を、涙の代わりに流しながら。
 本当は、はっきりと「ジュリアナ様が嫌い」と吐き出したいのかもしれない。しかし、何かする度に不条理な罰を受けていたデルフィーヌは、思い切って一歩を踏み出すことができないのだ。
(……泣かせるくらいなら、黙っているべきだったわ)
 面と向き合っていたドロテアは、俯いて自分自身を責めてしまう。

「でもあたし、デルフィーヌちゃんのこと頼りにしているわよ~。デルフィーヌちゃん、いつもジュリアナの傍に居たのよね。誰よりもジュリアナのこと知っているはずだわ~。あたしたち、ジュリアナのことをもっと知りたいのよ」
 ドロテアの邪魔をしないように、あえて何も言わなかったグロリアが口を開く。座ったままデルフィーヌに近づいたグロリアを、上目遣いで確認するドロテア。
「デルフィーヌちゃんの本当の気持ち、ちゃ~んと分かっているからね。探せばきっとあるはずよ。デルフィーヌちゃんの居場所が」
 肩を震わせ、瞑った目から『涙』を流すデルフィーヌの顔に近づけて、グロリアが言った。もう一度だけチャンスが与えられたんだわと、尻込みするのを止めたドロテアが喋り出す。
「……ごめん、デルフィーヌ。アンタに分かって欲しかっただけだわ。レイラ中の――この世の全てが、ジュリアナの会社のような場所じゃないってことを。あのね、デルフィーヌ。私も昔、世界の一部しか知らないクセに、真理を悟ったつもりでいたの。でも、外の世界を旅して、バトル・アーティストになって、こんな私にも共感してくれる人や、言い寄ってくる人と出会って、所詮ちっぽけな存在だって気づいたの。他に行くところがないなら、一緒に探してあげるわ。私なんかで良かったら、だけど……」
 デルフィーヌを見捨てることは、ドロテア自身の嫌な部分から逃げ出すことと同義。直感でそう感じたのかもしれない。
「で、でも……逃げ出したら、ジュリアナ様が地の果てまで追いかけてきます。やっぱり、怖いです……」
 喋るたびに「でも……」と漏らすデルフィーヌを勇気付けるように、ドロテアは華奢で蒼白い手に自分の手を重ねながら言った。
「だったら、ジュリアナを倒せばいいわ。二度と人様の前に出られなくなるよう、屈辱的な勝ち方でね。私や、他の大勢のアーティストは負けちゃったし、マルツィオもあの様子じゃ戦えないけど、きっとブルーノがやってくれるわ。あんたは鈍臭いメーションドールじゃなくて、私たちがアテにできる唯一の人間なの。お願い、協力して、デルフィーヌ」
「デルフィーヌちゃんも、復讐したいでしょう? 復讐って、それ自体は悪いことじゃあないのよ。問題にされているのは、それで人殺しが起きるからよ。ちゃんとした方法で復讐すれば、責められることはないわ。だから、あたしたちと一緒に、ジュリアナに復讐をしましょう?」
 誘導的な言動と共に、グロリアも手を重ねた。涙が止まり、落ち着きを取り戻すデルフィーヌ。

 この時、デルフィーヌの心を覆い尽くす砦が、一挙に瓦解していた。陽光に晒されて目が醒めた心が、ジュリアナへの憎しみを自覚させる。
 その気になれば逃げ出せるチャンスは、過去何度もあったはずだと、自分の臆病さが馬鹿らしく思う。こんなにも激しい殺意を抱けるものかと、自分自身に驚いていた。
 とはいえ、臆病な人間が一瞬で復讐の鬼に変貌するはずもなく――。
「そ、そういえば……、ジュリアナ様はあの化粧液を飲んでいました。触ると黒い瘤ができる、あの化粧液です。ここ最近、お屋敷で毎日のようにお飲みになっていました」
 遠回しに有益な情報を話すことで、ジュリアナに反旗を翻した。
「あらあら? ライブ中のパフォーマンスじゃないのね。度胸試しに飲んでいるものだと思っていたけど」
 ステージガールであるグロリアは、同業者にジュリアナの監視を依頼していた。僅かでも、弱点に繋がる情報を欲してのことだ。成果は全然得られなかったが、どのステージガールも「ライブ開始前、これ見よがしにペルソナ=ネクターらしき液体を飲んでいた」という報告をしてきた点が印象に残った。
「少量の毒は、薬になるものだわ。一口だけ飲むことで、化粧液に対する免疫をつけているのかも。すぐ免疫がつく代わりに、持続時間が短いから、ライブ前に飲んでいるわけ? だから、自分に化粧液を吹き掛けても何ともないんだわ」
 そう言ったドロテアと目が合ったグロリアは、怪訝な表情をしつつも応答する。
「常飲することで身体に馴染ませつつ、ここぞという時に確実に免疫をつけるのね。かなり都合のいい道具ね~。大金持ち故の武器かしら?」
 ドロテアの仮説とデルフィーヌの証言が、今一つ信じられなかったが、それを口にしたらデルフィーヌが傷つく。グロリアは、デルフィーヌの手を取って微笑みかけるドロテアを、黙って見守っていた。
「ありがとう、デルフィーヌ。今までと違ったことをするのって、勇気がいるものだわ。だから、ありがとう」
「いえ、いいんです。私、鈍臭いですから、これくらいしないといけません。迷惑じゃなければ、もっとお話しします。もしかしたら、そこに、その……」
 ほっと胸を撫で下ろしたドロテアは、取り留めのないデルフィーヌの話に付きあってあげた。そう遠くない昔、勇気を振り絞ってブルーノに話しかけたことを思い出しながら、親身になって話を聞いていた。

 

「そっか……。そうとは知らずに、随分悪いことをしたなぁ……」
 壇上に腰を降ろしているブルーノは、わざわざホールまで来たグロリアの報告を聞いて、遣る瀬無い表情になる。
「かわいい女の子の方が、壊し甲斐があるってか。人の性癖に文句つけるつもりはねーけど、実際にやったらダメなことだろーが……!」
 ブルーノの背後で、座りながら壁にもたれかかるマルツィオが言う。グロリアが、デルフィーヌの境遇を語っている最中、マルツィオは何度も舌打ちしていた。
「デルフィーヌちゃんのためにも、オバケ女に鉄拳制裁してやりたいわ。あたしは戦う人じゃないから、自分でやるのは無理だけど」
 腕組みして佇むグロリアは、そう言うと艶っぽいため息をしてみせた。
「オレもムリだなー……。この有様じゃ、盾を持ち上げられねーし」
 もし、マルツィオの手が包帯で覆われていなければ、背ビレごと首を掴んで骨を鳴らしていただろう。
「またの機会だね。それがいつになるかは、分からないけど」
 小さな声でそう言ったブルーノが、隣に置いてあるオレンジジュースの缶に手を伸ばす。ケヴィンたちと長電話したために、喉が渇いたから買ったのだ。
「いや、もうこの際オマエが代わりに出ろよ。ここだけの秘密にしといて、本番に飛び入り参加だ」
 缶ジュースを少しだけ傾けたまま、ブルーノは静止していた。結局一口も飲まずに、ゆっくりと缶ジュースを置いたブルーノは、ニヤニヤ笑っているマルツィオを振り返る。
「僕が? 出てもいいのかなぁ?」
「そりゃーもう、勝てる可能性が出てきたんだから、やらないワケがねーよ。ペルソナ=ネクターを少しだけ飲めば、免疫が付くんだろ。ビミョーに信じられねー話だけど、それに頼らなくても、オマエなら真っ向勝負で勝てると思うぜ。さっきみてーなプレッシャーでビビらせれば、いくら武器やメーションが強くてもやりたい放題だ。買収されたスタッフが吹っかけて来たら、ステージの外に出て発狂させりゃーいい」
「僕、悪役だよ? 観客はそれで満足するのかなぁ……」

 ブルーノだけは、審判が買収されたフリをしているのを知っている。それに、調子に乗った女性アーティストを、絶望の淵に沈めることには、与えられた役柄上慣れている。ジュリアナと戦うこと自体には、何の躊躇いも無いのだが……。
 BASは、観客を盛り上げられる限りは、どんな行為でも許される。裏を返せば、観客をしらけさせる行為は、どんな理由があっても許されない。大半の観客が見たがっているのは、正義の味方が極悪人を倒す瞬間。悪役の仕事は、観客の鬱憤を積もらせることで、最大限のカタルシスを演出することだ。ダークヒーローがスポットライトを浴びる筋書きも、たまには悪くないが、ここぞの大一番ででしゃばる悪役は、もはやただの悪人に過ぎない。
「あたしはと~っても満足するわ。あのオバケ女には、並のおしおきは生温いわよ。その道のプロじゃあないとね~」
「オマエのブラディ=ニードルを、存分に活かす時が来たんだぜ! いつも通り、血で服を溶かせばそれでいーじゃん! 化粧を溶かせばもっといいな!」
 前からグロリアに、後ろからマルツィオに近づかれながら、ブルーノは期待の声を受けた。
が、ブルーノはやはり釈然としない様子。
「でもなぁ……。明日のライブは、生中継されるからなぁ……。地上波放送じゃないとはいえ、僕の戦いは放送禁止レベルだよ。ジュリアナに扇動されて、狂信者になった人も少なくない。観客席がそんな人たちばかりで埋め尽くされていたら、尚更僕が出てもいいのか……」
 女性を痛めつけたいという蟠りを抱えているブルーノは、第三者が思う以上に、後ろめたさを感じているのだ。

「私からもお願いするわ、ブルーノ」
 声がよく響くホールに入室したドロテアは、扉を閉めると同時に言う。
「あら、デルフィーヌちゃんは?」
 ブルーノに近づいてくるドロテアを見ながら、グロリアが聞いた。
「疲れて寝ちゃったわ。寝袋がないか、探しに来たつもりだったんだけど」
「オレたちを見て、一発で何してるか分かったってワケか」
 ニヤリと笑うマルツィオに向かって、小さく頷くドロテア。
「ドロテア。君のように、僕を純粋に応援してくれる人って、どれくらいいるのかな?」
 ブルーノは、安心感が欲しかった。期待に応えたい気持ちは山々だが、それが独りよがりの偽善ではないという証明を。
「分からない……でも、この二週間でかなり増えたはずよ。誰かがジュリアナを蹂躙するのを見たいと言う人たち、ドームを歩けばたくさん見かけるわ。その誰かの中には、きっとブルーノも入っている」
「どうして、僕が入っていると言えるんだ……?」
 ブルーノは、自分でも分かりきっている疑問を、わざわざ口にした。
「分かっているクセに。正義の味方であればあるほど、残酷な戦い方ができないのよ。BASは、ドン引きされない程度の残酷さが売りでもあるわ。どうせ、現実世界じゃできないことだから、せめてステージの上では、綺麗事以外の見世物が観たいのよ」
 ドロテアの得意顔を初めて見た三人は、一瞬ポカンとなった。すぐにマルツィオがブルーノをどついては、ニヤニヤしながら語りかける。
「オマエ、守るべき女に言われてどーすんだよ。そこはビシッと決めるトコだろ」
「もう、素のブルーノさんは奥手なのね~」
 グロリアも便乗して言うと、ブルーノは頭を掻きながら詫びた。
「あぁ……ごめん、ドロテア」
「謝ることじゃないわ。少なくとも、私の前ではね。誰にだって、不安を抱くことはあるものだわ」
 三人は、またもやポカンとなった。やや間を置いて、今日の昼に似たような言葉で、ドロテアを励ましたのを思い出したブルーノは、苦笑いを隠すことができなかった。

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