Sublimation of My Heart Part4

 村外れの小さな教会堂の庭に、子どもたちが集まっている。パルトメリス私立教会堂の若き修道女、クリスティーネ=ビルンバウムの優れた武術を見物しに来ているのだ。
 修道女と言っても、家族と共に教会に住んでいるし、恋愛は許されているし、司祭のように懺悔を聞いてあげたりもする。クリスティーネの自由な生活と地位の高さは、私立教会堂ならではだ。

 その身体つきはしなやかで、目は糸のように優しく細めている。肌の色は白、クリーム色の天然パーマ。側頭部には垂れ下がった犬耳、そしてふさふさな尻尾。犬から進化した人間なのだろう。
 チャイナドレスのようにスリットが入っているなど、動きやすいように工夫をした修道女風の服。衣装の至る所に十字架があしらわれており、またお守りのネックレスも十字架だ。
 片手に握るは『ディバイン=メルシィ』。無数の銀の十字架を繋げて、鞭のようにした武器だ。聖職者であると同時に、救いようもない悪党を暗殺し、その魂を教え導くという汚れ役を負った先祖たちから代々受け継いできた、由緒あるもの。この十字架の鞭を使って、数メートル先のテーブルに載せた空き缶を叩き割るらしい。

 クリスティーネの背後で、じっとしている子どもたち。どれだけうるさく言っても、大人しくなることなんか全然ないのに、この時ばかりは目も口も開いて静まり返っていた。
 クリスティーネがやおらに片手を振り上げた次の瞬間。空気が破裂する音と同時に、空き缶は縦に割れ、詰まっていた水が飛散する。
「すっごーい!」
「かっけー!」
 子どもたちはクリスティーネを囃し立て、小さな教会の庭は賑わった。十字架の鞭を腰に収めたクリスティーネは、柔和な表情を子どもたちに向ける。

「その鞭で、ブルーノもやっつけられるんだよな!?」
 特に盛んな男の子が、前に躍り出て言った。次のライブでクリスティーネが戦うバトル・アーティストの情報を、どこからか仕入れてきたらしい。ステージの上で魅せる一面が、バトル・アーティストの本質だと思いこむ素直さが、いかにも子どもらしい。
「えぇ。やっつけてみせますとも。ご先祖様にあやかって、たくさん練習してきましたから」
「ブルーノって、女の子をボコボコにするのが好きなヤツなんでしょ? お姉ちゃん、怖くない?」
 恐らく、前に躍り出た男の子が、村中に言いふらしたのだろう。内気な女の子は、ウサギの人形を抱き締めながら、不安そうに聞く。
「もし、怖くなって泣きそうになったときは、みなさんのことを思い出しますよ。それに、神様に祈ることだってできます」
「クリスティーネ姉ちゃん! 勝って、たくさんお金を貰えたらいいね!」
 無邪気な男の子が、小刻みに跳ねながら言ってきた。村中の子どもたちは、パルトメリス私立教会堂の経済難を救うため、クリスティーネがバトル・アーティストになったことを知っている。バトル・アーティストの収入は、ライブの勝敗よりもむしろ観客の動員数によって大きく上下するのだが、それに突っこむほどクリスティーネは意地悪じゃない。
「私が勝ったら、みなさんにご馳走を差し上げますからね。私も楽しみですっ!」
 そう宣言したクリスティーネに群がった子どもたちは、口々に自分が食べたいものを叫び始めた。たまに村中の老若男女を集めて食事会を開くのが、クリスティーネの楽しみの一つであり、パルトメリス私立教会堂を存続させたいという動機の一つなのだ。

 跳ね回る子どもたちに目配せしていたクリスティーネは、ふと噴水の陰に隠れる、ロココの少女と目が合った。
「まあ! なんて可愛らしいお洋服の子なんでしょう! 良かったら、こちらにいらしませんか?」
 この村では見ない顔だが、その薄幸そうな瞳は、村の子どもたちと一緒になって遊びたいと訴えているようだった。
「えぇ!? で、でも私、用事があって、そ、その……」
 盗みの現場を目撃されたかのように、ロココの少女は怯えたリスのように激しく震える。後ろめたいことがあるのか、尋常ならぬ怖がりっぷりだ。
「こうしてお会いできたのも、神様の思し召しかもしれません。ちょっとだけの間、こちらにいらしてみませんか? 皆さんもよろしいですよね?」
「いいよー、クリスティーネお姉ちゃん!」
「こっちにおいでよー!」
「遊ぼうよー!」
 子どもたちは手招きしたり、走って近づこうとする。それを見たロココの少女は「ご……ごめんなさいぃ!」と言い残して、全速力でその場から逃げ出した。一部の子どもたちはロココの少女を追い掛けて、妙な鬼ごっこが始まってしまった。

(……用事があるお方を誘うのは、やはり罪だったのでしょうか? でも、あの物言いたげな目は、迷える子羊が懺悔しにいらっしゃる時の目に違いなくて……。あぁ、私の声のかけ方が未熟だったせいですね……)
 クリスティーネは糸目のまま、悲しそうに犬耳を垂れ下げる。ひどくショックを受けているらしい。他人に優しすぎるあまり、自分のせいで人を傷つけてしまうのが許せないのだ。
(あー、あの表情。また始まったよ、クリスティーネ姉ちゃん。そんなに気負うことないのに)
 ひねくれ者気味な子どもは、どんよりとした表情のクリスティーネを見上げてそう思う。
(ちょっとした一言で、私立教会堂が財政難だなんて勘違いする人だもん。もうちょっと適当に生きればいいのに)
 他の子どもが、「お姉ちゃん、どうしたの?」と困惑しながら声を掛ける。クリスティーネは柔和な笑みを作って「何でもないですよ」と取り繕う。ひねくれ者気味な子どもは、呆れたようにため息を吐き、首を振るのであった。

 

 ざわつく観客たちで埋め尽くされたアリーナ内。本ライブで使用されるステージは、正方形の『スタンダード』だ。
「はぁ~い、みなさ~ん! まもなくバトル・アーティストの入場で~す!」
 茶白マーブルのランジェリーを着用しているグロリアは、ステージの中央に立ち、観客席に万遍なく挑発的な笑みを向けながら言った。ゾクゾクするような声がステージの効力によって拡声されて、男性陣は大喜び。
「うひょー! グロリアちゃん、オレを見てくれ!」
 最前列に座るマルツィオが悩殺されて、バカ騒ぎを始めた。マルツィオのやかましい声が耳に届いたのか、グロリアはわざわざマルツィオにウインクして周到なファンサービス。
「うおっしゃあー! 愛してるぜぇー! グロリアちゃぁーん!」
 隣から聞こえてくるバカの叫びをスルーするために、その魅惑の茶斑を惜し気もなく見せつけるグロリアについて考え込むドロテア。
(いつも思っていることだけど、あんな茶斑見せるなんて正気なわけ? 気味悪がられて、いじめられちゃうわ。それとも……なに? 強がって自分から見せつけた方が、コソコソ隠してたのにバレた時よりもショックが小さいから? それはそれで、勇気あるわよね)
 グロリアへの嫉妬と憧れが入り交じった奇妙な感情と共に、自分の世界に引き籠ることで、傍にいるマルツィオの騒々しさに耐えているのだ。
 本当はマルツィオなんかと一緒に座りたくないドロテア。しかし、「ブルーノに近づくための恋のキュービットになってやる!」なんてしつこく迫られたから、仕方なく一緒にいるのだ。
 ドロテアとしては、憧れのバトル・アーティストにお近づきになるチャンスは、是非とも活かしたい。マルツィオも、何度も何度もアタックすることで、いつかは振り向いてくれるかもしれないと信じている。

 突如、暴力的で冒涜的な、ノイズ交じりのハードテクノが流れる。嵐が訪れる寸前のかのように場内が静まりかえると、凄惨だがどこか耽美な血飛沫のヴィジョンが現れた。
「さぁー! まず現れましたのはッ! 悪名高いバイストフィリア、ブルーノ=ブランジーニであります!」
 ドーム内の何処かにある控え室に設置されたテレポート装置で、直接ステージに降り立ったブルーノ。血飛沫のヴィジョンが消えると共に姿を見せたのだ。血糊付きの趣味の悪い燕尾服を着て、張り詰めた空気の中でも穏やかに笑みを保っている。
「こんばんは~、ブルーノさ~ん! 刺激的な夜を期待していますよ~」
 グロリアは、バイストフィリアと名高いブルーノに歩み寄ってその手を取った。全く恐れを見せていない。
「期待に応えられるように頑張るよ、グロリア。君にも刺激的な一時をプレゼントしたいけど、こういう感じでいいのかなぁ?」
 そう言ってブルーノは、片手に握っていた、表紙だけで明らかにヤバいと分かるマンガ本の中身をグロリアに見せつけた。
「あらあら~? どういうプレイなんですか――うえっ!?」
 この時ばかりはグロリアの挑発的な笑みが消え、何かを必死に堪えるかのように口元に手を当ててしまった。アリーナ内の巨大スクリーンが、マンガ本の中身へとズームアップした次の瞬間、尋常ならぬ憤りを感じた観客たちが異口同音にブルーノを非難し始める!
「こ、これはリョナ本!? 痣と火傷だらけの少女が、拘束されたまま一本ずつ骨が折られ、あろうことかその指にはハサミを近づけている! ちょっ、指!? よくみたら、あるはずの指が三本もないぞ!? バイストフィリアよ! いつもこの本を読んでいるというのかァ!?」
 実況者が大袈裟にブルーノの異常性を語る。

「うわぁーん! 怖いよー!」
「女の子がー! 女の子がー!」
 観客席の中には、泣き出す子どもたちの姿も。
(子どももいたのか!? なんで僕のライブを観に来るんだよ!? どうしよう、やり過ぎたかなぁ、モンスターペアレントがいたら訴えられるかも、これ……)
 子どもの泣き声を背にしながら、思わず「ごめんね」と漏らしてしまいそうなほど、ブルーノは焦ってしまった。だが、荘厳で勇壮なスピードメタルが流れてくると、観客たちのテンションは大いに昂り、ブルーノもバイストフィリアとして身構えた。
 ちなみに、バトル・アーティストにはそれぞれにテーマ曲が用意されているが、トップクラスのバトル・アーティストを除き、殆どの場合既存の曲を拝借している。バトル・アート・ショーの前身が、プロレスだったことの名残なのかもしれない。

「もう一人のバトル・アーティストの入場ですね。『慈悲深き暗殺者』、クリスティーネ=ビルンバウムです!」
 解説者が言い終わると同時に、無数の銀色の十字架が繭のように集ったヴィジョンが現れ、すぐに消えてクリスティーネが入場した。子どもたちの泣き声は笑い声に変わり、怒号や悲鳴も歓声へと変わる。
「おねーちゃん! 頑張って!」
「ブルーノをやっつけろ!」
(……そっか。クリスティーネの応援に来たのか。それならいいんだ。遠慮なく、悲劇のヒロインにしてあげよう)
 今のブルーノはバイストフィリア。全身全霊を以って、アリーナを阿鼻叫喚と化すことが、観客や対峙するアーティストへの最大限の誠意なのだ。

「うっひょー! こりゃまた際どい! スリットから見える黒ストッキング! たまらん!」
 最前列に座るマルツィオは、動きやすいよう工夫された修道女風の水色服に食い付いた。
 クリスティーネは、普段着とライブのコスチュームが同じ服装のタイプのアーティスト。清貧一直線な聖職者であり、有事の際は暗殺者でもあった先祖は、そのどちらにも適応できるようにこの服を考案したのだろう。
「あの人、本当に優しい人なんだわ。子どもに懐かれているのが何よりの証拠。子どもは、大人の潜在意識に敏感だって言うから」
 微笑みながら子どもたちに手を振るクリスティーネにつられて、ドロテアも思わず表情が弛んでしまった。
「おっと、嫉妬しなくてもいいんだぜ? ブルーノから聞いたけど、ドロテアちゃんの魔女服もカワイイらしいな! 見たかったぜー! 今度ライブに応援しに行くからな」
「うん。どうぞ」
 マルツィオがくどい顔を近づけてきたので、ドロテアは顔を背けて素っ気ない言葉を返した。

「こっ……こんばんは~、クリスティーネさ~ん! なんかデンジャラスなプレイを強要されているみたいですけど、怖くないですか~?」
 危うくアクシデントを起こす寸前だったのに、プロ根性で立ち直って挑発的な笑みを取り戻したグロリア。
(すごっ……さっきまであんなに咳き込んでいたのに)
 無言のまま感心するドロテアは、人の痛みが分かるとってもいい女の子だ。グロリアの谷間とクリスティーネの太腿にしか興味がない、隣のバカ野郎とは違うのだ。
「全く怖くないと言えば舌を抜かれてしまいますが、どうにか大丈夫ですっ。こうしてブルーノさんと戦える機会に恵まれたのも、神様の思し召しかもしれませんからね」
 クリスティーネは、糸のように優しく目を細めながら返答する。
「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出しなさい。神の教えを実践できる、いいチャンスだからね」
 ステージの対角で立っているブルーノは、持っているマンガ本をメーションで消失させつつ、優しい声で言った。聖職者は人に手を上げることが許されないから、黙って僕に痛めつけられてくれよと、遠回しに挑発している。
「違いますよ。汚れた欲望に塗れるあなたへ、この手で裁きを下す機会を得たことに、使命感を感じているのですっ」
 クリスティーネがそう発言した瞬間、アリーナ中の観客たちが彼女の名を手拍子と共にコールし始める。子どもたちも勇気づけられて、もう泣き声は聞こえない。
「あ~ん、もう頼もしい限りですね~! じゃああたしは、ステージの外で観客のみなさんと一緒に、クリスティーネさんの活躍を見守りま~す! 負けないでくださいね~!」
 そう言ったグロリアは、白茶のマーブルのヴィジョンに包まれながら、ステージの中から観客席の最前列に瞬間移動した。ステージガールが戦地から遠のくことは、間もなく開戦するという合図だ。
「迷える子羊の罪を代わりに背負うことが、聖職者の仕事じゃないの? いいから僕の好きにさせろよ……!」
 重く低い声を、喉の奥から引きずり出したブルーノ。尋常ならぬ殺気がステージに満ち、クリスティーネも一瞬怯んだ。
 だがクリスティーネも負けじと、カッと目を見開く。両腰に装備していた十字架の鞭を、右手左手にそれぞれ握ると、バチン! と勢いよく打ち鳴らす。
「いいでしょう、私を痛めつけてご覧なさい! 一方的にやられる屈辱を一度でも味わえば、少しは考えも改まるかもしれません。この身に暴力という名の十字架を背負い、毒をもって毒を制しましょう。容赦はしませんっ!」
 戦闘モードに入ったクリスティーネを目の当たりにして、子どもたちは喉が張り裂けんばかりの声援を送る。否応なくアリーナ内の緊張感が増すと、ブルーノはおもむろに嗜虐的な笑みを見せつけた。
「ブルーノ、頑張って! 私は応援しているから!」
「頑張って攻撃当てろよー! 特に強酸性の血液を、クリスティーネちゃんの服に!」
 僅かだが、ブルーノを応援する声も聞こえた。

 

 開始のゴングが高鳴ると同時に、ブルーノは掌から血塗れの針を突きだし、クリスティーネの胸を貫かんとした。クリスティーネはやや出遅れて、十字架の鞭を横に振る。血塗れの針は、クリスティーネの肩のやや上に逸れ、命中せずに終わった。
(針を鞭で弾いたのか……。やるな!)
 血塗れの針を、血液のようにして霧消させたブルーノは知らない。その手首の皮膚が、十字架の鞭によって切り裂かれていたことを。
 次にブルーノは、両手を地面に押し付ける。すると、血液が扇状に前方へと這いずるように広がり、後を追って無数の血塗れの針が突き上げてきた。
 クリスティーネは、自らきりもみ回転するようにジャンプし、その勢いを借りて二本の縦に放つ。ジャンプ力が足りず、数本の針の先端がクリスティーネに刺さったが、ブルーノの両頬の皮膚も切り裂かれる。ステージの端に達した血塗れの針たちが、全て霧消すると同時に、クリスティーネが背中から着地する。
(痛くは、ないな。その程度のダメージか)
 ブルーノは不気味に笑いながら、身体の各所の服が破れ、強酸性の血液で皮膚が爛れ、血を流しているクリスティーネを見下げる。クリスティーネは、常に心に圧し掛かってくるプレッシャーをものともせず、倒れたまま十字架の鞭を放ち、ブルーノの足に絡めてきた。そして、素早く立ち上がると同時にブルーノを引き倒し、二本目の鞭でもう片方の足に連撃を加える。
「いいぞー! お姉ちゃーん!」
 瞬く間に三度の攻撃を受けるブルーノ。血塗れの針は弾かれるだろうと判断し、掌から強酸性の血液を直接発射して反撃。これを十字架の鞭で捌くことは不可能とみたのか、クリスティーネは後ろに素早く跳んで回避する。
 片足が自由になったブルーノは立ち上がったが、無痛のまま身体がふらついていることに違和感を覚える。
(おかしい……? 痛みを軽減するステージの効果が、今日は過剰だ……?)
 試しに、ボトムスの切り裂かれた部分を指でなぞってみると、当然の如く指先に血が付着した。その傷に相応しく、攻撃された足には力が入らない。

「鞭は拷問にも使われるくらい痛い武器だわ。ショック死する人もいるくらい。あんな速さで攻撃されても、ブルーノは痛くないの?」
 ブルーノは血塗れの針と強酸性の血液で、クリスティーネは双鞭を駆使して、中距離で高速戦闘を繰り広げている時にドロテアが呟く。
「あー……。鞭の先端って、音速を超えるらしーじゃん。一瞬で攻撃されるから、痛みを感じる暇もなくなる……のか?」
 マルツィオはそう言いながら、背ビレごと首の骨を掴んで鳴らした。

(血塗れの針を繰り出す際、腕が大振りになっていますね。私が鞭を振り上げても、腕で防御しようとしませんし、そもそも立ち姿勢が棒立ち状態です。つまり、ブルーノさんは格闘技に関しては素人ということですっ!)
 地面から突き出る血塗れの針や、掌から放たれる強酸性の血液を、持ち前の素早さで躱しては、三百六十度から双鞭で攻撃を加えるクリスティーネ。一発貰うごとに、ブルーノの身体は不安定さを増し、クリスティーネの優勢がより明白になってゆく。
(思い切って接近した方が、こうして逃げ回るよりも安全かもしれません。獅子のように雄々しく、鷹のように誇り高く!)
 狂気めいた猛ラッシュの合間の、僅かな隙を見つけたクリスティーネは、猛然とブルーノに真正面から突っ込んでゆく。ブルーノは片腕を引き、勢いを乗せながら掌から血塗れの針を突き出すが、そんな大振りな攻撃はクリスティーネには当たらない。
(こんな近く!? 怖くないのか!?)
 姿勢を低くして血塗れの針を避けたクリスティーネに、すぐ傍まで接近されてしまった。想定外の事態で身体が動かず、咄嗟にメーションを使おうにも思考が追い付かない。
「そこですっ!」
 懐に潜り込んだクリスティーネは、身体を旋回させて強烈な後ろ蹴りを放つ。その攻撃だけが、腹部を突き抜けるような鋭い痛みをもたらしたとき、ブルーノは確信する。
(あの十字架の鞭で受けたダメージは、痛みを全く感じなくなるんだ!)

 今にも倒れそうだったブルーノは、後ろ蹴りの衝撃で呆気なく転倒。知らず知らずに受けていた無痛のダメージのせいで、立ち上がることさえままならない。無数の十字架を一繋ぎにしたこの鞭は、『ディバイン=メルシィ(神の慈悲)』と呼ばれるそうだが、対峙者にとっては恐怖そのものでしかない。
「やべー! さっさと立て、ブルーノ!」
 マルツィオが外野から指示したところで、ブルーノは腹痛にもがき苦しむことしかできない。このチャンスを見逃すはずがなく、クリスティーネは容赦なく鞭の嵐をお見舞いした! 鞭の先端が音速を超えた時のバチン! という音が、アリーナ内で絶え間なく鳴り響き、つられて観客たちのボルテージや声量も急速に上がってゆく。
 痛みこそ感じないが、傷が一つ増えるごとに、ブルーノの気が遠くなってゆく。僅か数十秒後には、全身を真っ赤にされたブルーノの身体が、ステージの中央に横たわっていた。

「どうか、痛みを与えないという処置でお許しくださいっ!」
 暴れ回る二本の鞭を回収したクリスティーネが言う。
「さっすがお姉ちゃん!」
「もう怖くないよね? もう大丈夫だよね!?」
「ざまあみろ、ブルーノ!」
 アリーナは、クリスティーネへの大歓声で満ちている。
「見えないほど速い攻撃を、知らない間に浴びせられる。身体の異常に気づいた時には、もう手遅れ。まさに暗殺者だわ……」
 床に伏したブルーノを呆然と観ながら、ドロテアはそう漏らした。
 ブルーノは完膚なきまでに打ちのめされているが、審判はまだライブ終了を告げるゴングを鳴らそうとはしない。どうやら観客たちに、悪役アーティストがやられている姿を、善玉アーティストが活躍する姿を、もっと長い時間観せないと駄目らしい。

(サディズムとマゾヒズムは表裏一体な~んて、昔からよく言われるものだけど。血液をぶっかけるような人間が、血液だらけになってしまったら、と~っても悦ぶんじゃないかしら?)
 グロリアは神妙な顔で、地に伏し大量出血しているブルーノを眺めていた。

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